「通」と「筋」でできた船場の町

なんばグランド花月なんばグランド花月

昭和50年代のテレビ、吉本新喜劇の『あっちこっち丁稚』を見て育った人ならば、なんとなく船場の大店(おおだな)をイメージできるだろう。遊んでばかりだけど人が良い だんさんと、しっかり者だが悋気な ごりょんさん、おしゃれでわがままな いとさん、頼りになる番頭さん、そして機転がきくけれど間の抜けた丁稚たちの姿がすぐに浮かんでくるはずだ。

太閤秀吉の大坂城築城とともに生まれた商人の町・船場は、大阪で生まれ育った筆者にとっては、「ええしの町」の印象がある。「ええし」とは良え衆のことで、上流家庭で育った人を指す。船場は太平洋戦争で建物の多くが焼失してしまったが、商売自体は10代目15代目まで続いている大店が多くある地域だ。

大坂城三の丸の造営が始まったのは1598年だから、船場の歴史はざっと400年以上。北は土佐堀川と大川、東は東横堀川、西は西横堀川(現在は横堀筋)、南は長堀川(現在は長堀通)に囲まれた約230haの地域で、本町通の北を北船場、南を南船場と呼ぶ。

船場あたりでは、現在でも東西の道は「通」、南北の道は「筋」と呼ぶ。前者は「本町通」「長堀通」など、後者は「御堂筋」「谷町筋」などがあり、大阪以外の人でも耳にしたことがあるだろう。
現在と違うのは、「筋」ではなく「通」の方が栄えていたこと。京都や東国と結ぶ要路は「通」だったからだ。筋はかつて両手いっぱい広げたほどの幅もない場所もあったという。

なんばグランド花月大阪城築城とともに発展を遂げてきた大阪の都市風景

「日々の生活で始末して、公共のために使う」船場商人の心意気と粋

船場は商いのまちであるから、丁稚たちは勤めている店の前の通りや筋を毎朝きれいに掃除して水を撒いた。店の前の道がよく清掃されていないと「行儀知らず」とそしられたという。

船場商人は「いくらエエモンでも、他の家にあるものはつまらん」と、ユニークで独創的なものを好む傾向が強かった。表具屋が店の奥で表装作業をしたのは、依頼をうけた表具がお披露目までに誰かの目に留まり、「ああ、その絵は表具屋で仕事中のを見かけましたわ」となれば「目垢がついた」と、依頼主へ大きな不義理になったという。

また、店に飾られた掛け軸でも洒落た演出がされたようだ。12月13日の事始めに「案山子とも見えぬ箒は秋の田の稲とや 人を驚かすらん」の狂歌と、ハチマキをした箒の絵が描かれた掛け軸が玄関に掛けられたら、その店では長居無用ということ。「稲」は「いね」のシャレで、大阪弁で「いね」は「去れ」。掛け軸の隠喩で「忙しゅうて、ようお愛想できません」と、遠回しに伝えているのだ。
そのかわり、お正月には石臼に梅の描かれた掛け軸に掛け替えられ、「腰を落ち着けていってください」の気持ちを表現したりした。船場商人は、"みなまで言わんでも"と空気を読んでください、という演出をしたのだ。

普段、船場商人は「始末する」ことを大切にした。大根は葉っぱも残さず調理して食べたり、魚の骨から出し汁をとったり、質素倹約が船場商人の「始末」であり、ケチではない。店の前の掃除にせよ始末にせよ、根底には人や町、物に対する感謝の心があるのだ。

船場で粋であることは、フランス語でいう「メセナ」の精神だという。メセナとは文化や芸術を支援するために企業などが資金を提供すること。大坂の橋は私設のものが多いし、商人たちの寄付で成立した中央公会堂などの文化財も多い。日々の生活で節約(始末)して、公共のために使うのが船場商人の心意気と粋のあらわれだという。

帳場には番頭さんがいて商売を仕切っていた帳場には番頭さんがいて商売を仕切っていた
帳場には番頭さんがいて商売を仕切っていた大阪中央公会堂

船場の御寮人=「ごりょんさん」の役目

難読苗字に「四月一日」がある。読みは「わたぬき」で、4月1日に綿入れから綿を抜くから。この日は衣替えの日とされる。
船場でも、4月1日には綿抜きの袷(あわせ)に衣替えした。衣替えは4月だけでなく、6月1日から単衣(ひとえ)に替え、6月15日から浴衣に、7月1日には薄物、9月1日にまた単衣になり、10月1日には袷、11月1日から綿入れ、12月1日に半纏(はんてん)を着用した。年によって寒暖の差があっても、この衣替え日は厳密に守られ、もしその時期ではない装束を身につけようものなら「みっともない」と言われたという。この船場のしきたりを取り仕切るのがごりょんさんである。ごりょんさんは本来、御寮人さんで、だんさん、つまり店の旦那さんの妻を指した。

関東大震災で関西に移住し、船場を舞台に『細雪』や『春琴抄』などを書いた小説家・谷崎潤一郎は、『私の見た大阪及び大阪人』で「大阪の女性の声は浄瑠璃や地唄の三味線のように、甲高くてもその裏に潤いがあり、艶と温かみがある」と表現している。谷崎は魅力的なごりょんさんとたくさん出会っていたに違いない。

未亡人になったり、離縁して独身になったごりょんさんもたくさんいたらしい。店員すべての生活がかかっており、だんさんがいなくなったからといって店をたたむわけにはいかない。大正14年の東区にあった店のうち、ごりょんさんが商売を取り仕切る店が、なんと7割もあったという。

だんさんが健在でも、ごりょんさんの仕事は多岐にわたっていた。親類縁者や分家などへの配慮、店子たちの食事の世話、相談役、だんさんたちの橋渡しなど。奉公にやってきた丁稚は雑用全般をこなし、20歳前後で手代となり、30歳ごろに番頭になれたら暖簾分けをしてもらい、結婚も許される。丁稚に行儀作法や商家の家風を教育するのもごりょんさんの仕事だ。行儀作法は挨拶や立ち居振る舞いだけでなく、御飯を一粒残さず食べるといった「始末の精神」にまで及ぶ。これを「仕込み」と呼んだ。

半面、船場の男は「つっころばし」が魅力、とされたという。つっころばしとは後ろからちょっと突いたら転ぶような、色気と柔らかさのある優男(やさおとこ)を指す言葉だから、頼りにはならない。しっかりしたごりょんさんが傍にいてこその船場商家だったのかもしれない。

かつては大店がひしめいていた商売のまち(写真はイメージ)かつては大店がひしめいていた商売のまち(写真はイメージ)

上方落語に登場する船場のまちと人

上方落語には、船場商人が登場する演目が少なくない。いくつか紹介しよう。

「千両みかん」では、真夏というのにみかんが食べたいあまり、病みついてしまった若だんさんのため、番頭の佐兵衛が果物を扱う大店を訪ねる。この店では一つの蔵にいっぱいのみかんを保管していたが、ほとんどが腐っており、無傷なみかんはたった一つだけ。その無傷なみかんに商人は千両の値をつける。「みかん問屋は夏場でもみかんがないとはいえない。そのため多くのみかんを保存している。夏場の無傷のみかんが千両という値は決して高いとは思えません」という商人のプライドが感じられる。高価なみかんとなってしまったが、だんさんは「息子の命には代えられん」と購入した。若だんさんから「両親とおまえに」と残りの3房のみかんをもらった番頭さんが「奉公後ののれん分けのときにもらうお金より多い」とみかんをもって消えてしまうというオチだ。

「崇徳院」も、船場の若だんさんが病みつくところから始まるが、こちらは恋煩いが原因。しかし、その女性は高津宮で言葉を交わし、手掛かりはそのとき渡された崇徳院の「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の」の短冊だけで、どこの娘かもわからないため、幼馴染が船場中を探しまわる。見つけた褒美というと、借金を棒引きにしたうえに、蔵つきの借家五軒の長屋をつけるというから豪勢だ。船場の商人は「始末」しながらも、使うべき時は使うイメージだったのだろう。こちらは、崇徳院の下の句「われても末に逢わんとぞ思う」をつかったオチとなっている。

「遊山船」では、屋形船を借り切って遊ぶだんさんたちの様子が描写されている。浪花橋の上から大川を見ると、行きかう夕涼みの船が賑やかだった。芸妓や舞妓に杓をしてもらい、同乗の板前が卵焼きや鰻などの料理を提供する。舞妓が巻き寿司を切らずにそのまま食べるシーンもある。舞妓は口が小さいから、巻き寿司を頬張ると面白い表情になるので、それを見て楽しむというのだが、恵方巻きの風習に通じるところがあって興味深い。橋の上から船の碇の柄の浴衣の女を褒めると「風が吹いても流れんように」と風流に返され、帰って女房にもいわせてみようと汚い浴衣を引っ張り出して着せたのだが「質に置いても流れんように」と返されるというこちらもしゃれがきいたオチとなっている。大店のだんさんたちが豪遊する様子は、庶民には憧れの的だったらしい。

船場の文化は「船場ならでは」は、薄れつつある。また、船場は戦災を受けたため、立派な建物などは建替えられ、昔の面影も残っていない。
しかし船場を歩けば、商人達の寄付で建てられたビルや、一部戦災を免れた豪商の家が残っている。船場の商人のユーモアや心意気を感じながら、現代の船場を散策してみてはいかがだろう。

現代の北浜、難波橋。難波橋の辺りは、江戸時代は夕涼みの場所として親しまれていたようだ現代の北浜、難波橋。難波橋の辺りは、江戸時代は夕涼みの場所として親しまれていたようだ
現代の北浜、難波橋。難波橋の辺りは、江戸時代は夕涼みの場所として親しまれていたようだ今も旧商家の面影を伝える旧小西家住宅と道修町通

■参考
平凡社『大阪船場 おかみの才覚 「ごりょんさん」の日記を読む』荒木康代著 2011年12月発行
ミネルヴァ書房『船場』宮本又次著 昭和35年12月発行
和泉書院『船場大阪を語りつぐ 明治大正昭和の大阪人、ことばと暮らし』前川佳子構成  2016年8月発行

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