「仮の宿りとは思へど興あるものなれ」

『徒然草』で、最初に家のことが出てくるのは第十段だ。
「家居のつきづきしくあらまほしことこそ」に続いて、章題の「仮の宿りとは思へど興あるものなれ」のフレーズにつながる。

住まいは「仮の宿り」というフレーズを、最初にしっかり受け止めざるを得ない。
元来、隠棲生活者の書き記したことであるから、仮の宿り感は本来の考え方だ。一方、兼好法師は住宅投資を行い蓄財もしていたようだから、想像以上のしっかり者であった。こうして徒然草の中から住宅のことをピックアップして再考察できるほど、家は興味のあるものだった。
この「仮の宿りとは思へど興あるものなれ」は現代流には、住宅は所有価値よりも使用価値にあると言っているように受け取れる。

しかし、この後の記載を読むと、まったく逆だ。
武士の生き方を書いている『葉隠』が「死ぬことと見つけたり」と曲解されるのと変わらない誤解がある。兼好法師が指摘しているのは、どうせすぐにも家は荒れ果ててしまうのに、余分な装飾を凝らしているのが無駄と言っている。その指摘の仕方も、見事だ。

「唐の大和のめづらしくえならぬ調度ども並べ置き」

木製窓は古びても、職人と銘木はさらに希少となり簡単には手に入らない木製窓は古びても、職人と銘木はさらに希少となり簡単には手に入らない

"唐物"とは、今でいえば中国ではなく、世界中からの逸品だろうか。"唐物"だけでなく、日本中からも珍品を集めて飾りたてるのを否定している。もちろん、流行を追いかけるのも同じことだ。その上、少し古びて感じるものこそ、味わい深いものだと言う。主旨は質素に造って、古びるに任せ、家の姿は景色の中に馴染み、似合っていることがふさわしいと言う。

そして兼好法師は、まさに住宅を土地環境と一緒のものとして扱っている。

逆に言えば、苛立ってこのような記述を残すほど、兼好法師にとって癇に障るような新しい家が当時も見られていたに違いない。ただし当時の基準は、あくまでも様式であり、様式が崩れるほどに、絢爛に飾り立てた家が目についていたのであろう。

様式など軽視している現代では、比較のしようもない。敢えて言えば、性能だの技術がそれにあたるのかもしれない。現代の私たちは、技術の話しであればのっぴきならないと思っている。でもそれは本当だろうか。例えば次のような事例だ。

家をつくりあげる上で、最も繊細な職人技と良質の木材を必要とするのは窓枠だ。人の手が触れるので、雑な工事もできない。現代ならなんの心配もいらない。サッシがあるからだ。しかも、性能は良い。しかし冷静に考えてみれば、アルミ製というのは比較的安い材料であり、なおかつ押出成形できるので加工費も安いものだ。

木製窓は古びても、職人と銘木はさらに希少となり簡単には手に入らない。性能は悪くても、いずれ誰も手に入らないほどの価値の高いものになる。一方、アルミサッシは新しい製品ができる度に、古い商品の価値は下がる。しかし性能が高いものが、資産価値が高いのではない。性能で価値を図ろうとする気持ちはわかるが、古びて価値の上がるものを忘れてはならない。技術は様式にはなりえない。様式とは、そういうものだ。

「内裏造らるるにも必ず造り果てぬ所を残す事なり」

このことを、もっと直接的に表現しているのは第八十二段だ。

この段の始まりは、「羅(うすもの)の表紙」から始まる。書物の表紙に貼られた薄い布が、すぐに傷んでしまうことを人は嘆くが、むしろ傷んだ方が味わいが出て良いという親友の意見に、兼好法師も同調しているという話しだ。

それと同じことが、内裏、つまり家にも言えると書く。完成されたものよりも、少しずつ完成させて行くことに美学がある。性能には美学はない。性能など雨風が凌げれば、その程度で良い。そこに住んで、足りないと思った住まい手が、リフォームで足して行けば良いのだ。性能を純粋なスケルトンと考えてはいけない。ちょっと塗り足せば、断熱性能が上がる塗料も出てきている。性能はリフォームで変えられるインフィルだ。寒いと思ったら、塗れば良いではないか。

『徒然草』に学べば、仮の宿りとは口では言っても、しっかりと家を耐久財として考えていることがわかる。それどころか、書物でさえも耐久財と考えていたこともわかる。確かに当時は、転写するしか手法はなく。書物は極めて貴重なものだったに違いない。だからこそ、書物は親から子へ相続されるものであり、耐久財であった。

現代では、国が先導して住宅でさえも、消費財にしようとしているように思える。性能で評価することは、古くからある住宅の資産価値を無くそうとすることにつながる。そんなややこしい話しの前に、住宅にも消費税を払っているのだから、国が住宅を消費財にしようとしていることは明らかだ。時代が進み、技術が進むということは、耐久材を失うことなのかもしれない。

「すべて何も皆、事のととのほりたるは悪しきことなり」

ここまで考え始めると、住宅に関する悲観は止まらなくなる。どうせ資産価値もなくなるような住宅施策であるのなら、いっそのこと、明確に消費財と定めたらどうだろうか。

たとえば、どうせ家が消費財であれば、自分で居住する建物でも減価償却ができるようにすればよい。事業用物件では減価償却を認め、居住用では認めないというのはおかしいのではないか。事業を営んでいなくても、所得税は払っている。国の施策は、結局は生活者のためではなく事業者のためにあるのかと思えてくる。

それなのに、減税を最大に利用しても10%~20%程度にしかならない住宅ローン減税程度の話しでお茶を濁されているのだ。住宅は消費財として相当な金額の消費税を納めているのだから、せめて減価償却ができなければおかしいではないか。

もしくは、耐久財であるとして、土地と同じように消費税が軽減されるかのどちらかだ。
以前にも書いたが、建築業法20条をベースにすれば、国が定めるのも難しくないはずだ。

『徒然草』第八十二段の結論は、本章の見出しの通り、すべて整えてしまうのは悪いことだ、と兼好法師は言う。この言葉は、どうやら国の施政のためにある言葉かも知れない。総務省は住宅を耐久財とみなし、財務省は消費財と言い、国土交通省は性能で耐久材としようとする。なるほど、すべて、何も皆、事の整いたるは悪いこととは、あまりにも言い得ている。

伝統職人が針葉樹と広葉樹を組み合わせてデザインして、組んだ障子は価値が高い。</br>職能も材料もいずれもっと希少になる。気密性能は悪くても、価値が損なわれることはない伝統職人が針葉樹と広葉樹を組み合わせてデザインして、組んだ障子は価値が高い。
職能も材料もいずれもっと希少になる。気密性能は悪くても、価値が損なわれることはない

「家居にこそ、ことざまはおしはからるれ」

『徒然草』第十段に戻って、この段の主旨はこの言葉で終わっている。

その家の姿を見れば、そこに住む人がどのような人なのかということがわかるということだ。家は住む人の鏡だ。松下幸之助も同じことを言って、私邸である光雲荘を建てた。

それは住宅そのもののデザインが、住む人のことざまを表していることでもあるが、国の住宅政策にも同じことが言える。

家は仮の宿りとして、借り暮らしをすれば、資本家の平均5%の資本増強を応援することになる。使用価値に満足していても、自分の生涯を通じて、他人の資本を増やすことに加担している。かと言って、家を建てても減価償却もできないのに、減価償却の不動産鑑定で判断されて資産を失う。
かくして格差社会は広がり、国民は貧しくなる。これが日本の住宅のことざまだ。

例え古びた質素な家でも、その家の暮らしに住まい文化が垣間見られれば、立派な資産になるはずだ。他の人が住みたいと思い資産として認められることができれば、じつは消費税など安いものだと考えられるようにもなる。どうやらそれには、日本人は他国の目から見て評価されないと感じられない性癖を持っている。

日本に来始めている海外の訪問者たちが、日本の住まい文化に触れて感動をする、そんな家が広まることの方が大切だ。
ごまかしのテクニックではなく、歴史ある国が大切にしている技術や様式を活かし、日本人のことざまを表した家であることだ。

2020年に向けて、兼好法師の『徒然草』を、このように読んでみた。

海外から来る訪問客は、歴史ある日本の文化に触れたいと考えている。</br>現代の日本の住宅は、世界に自慢できる家になっているだろうか。(写真は、兼好法師ゆかりの仁和寺)海外から来る訪問客は、歴史ある日本の文化に触れたいと考えている。
現代の日本の住宅は、世界に自慢できる家になっているだろうか。(写真は、兼好法師ゆかりの仁和寺)

2016年 01月27日 11時05分