6年住んだ赤羽駅周辺を久しぶりに散歩してみると、再開発の工事の音がいくつも聞こえてくる。せんべろで知られたこの街は、いま新しい時代の入口に立っている。
池袋駅まで10分、上野駅まで10分、新宿駅まで15分、東京駅まで20分。JR5路線(京浜東北線・宇都宮線・高崎線・湘南新宿ライン・埼京線)に、徒歩圏内の東京メトロ南北線赤羽岩淵駅が利用でき、さらに18系統の路線バスが利用できる、区内でも突出した交通結節点だ。その利便性の高さから近年注目度の高いエリアとなっている。
街への注目は、地価にも表れている。赤羽駅から徒歩5分ほどの住宅地である赤羽南一丁目の地価公示価格は、2021年の1m2あたり約106万円から2026年には約164万円へと、5年で1.5倍以上に上昇した。しかも上昇率は年々加速し、直近では前年比14.7%の伸びを記録している。住宅地としての赤羽の価値が、着実に高まっていることが分かる。
赤羽の過去から現在までの歩みをたどりながら、三代にわたって暮らす住民の声と、区の資料を合わせて、これからの未来を考えてみたい。
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【赤羽の過去】商業の街から飲食の街へ
赤羽の一帯は、もともと軍用地が広がる土地だった。明治期以降、陸軍の施設が次々と置かれ、やがて軍と取引する工場や、そこで働く人々が集まっていく。1885年に開業した赤羽駅が交通の要所となったことも重なり、大正から昭和にかけて、駅周辺には商店街が広がっていった。
終戦直後、赤羽駅東口には闇市が立ち、食糧品や日用雑貨が売られていた。そこから居住者らが力を合わせ、終戦からわずか5か月後の1946年1月には赤羽復興会商店街の協同組合が結成され、東京都第1号の認可を得ている。
にぎわいが自然に湧き上がったのではなく、人々が暮らしを立て直すために、都内のどこよりも早く手を動かして商店街を作り上げた。この事実は、赤羽という街の性格を語る上で見落とせない。
休日には板橋や浮間など近隣からも買い物客が訪れ、赤羽は東京北部有数の商業地としてにぎわった。
赤羽といえば飲み屋の街、という印象を持つ人は多いだろう。しかし、その赤羽らしさは昔からこの土地が持つ個性というわけではない。区がまとめた土地利用の変遷を見ると、赤羽の商業地としての性格が、時間をかけて少しずつ塗り替えられてきたことが分かる。
1970年ごろまで、実はこの一帯の中心は物販だった。人通りの多いシルクロード沿いには衣料品や日用品を扱う物販店が並び、飲食店はどちらかといえばOK横丁の一帯にまとまっていた。日々の買い物のために街を歩く、地元の暮らしに根差した商店街の姿である。遠方からも客を集めた赤羽のにぎわいも、もとをたどればこうした物を売り買いする店の集積から生まれていた。
その構成が動き始めるのが、1990年代から2000年にかけてだ。物販店が少しずつ飲食店へと入れ替わっていく。どこかで一斉に切り替わったのではなく、一軒また一軒と業態が移っていく、緩やかな置き換わりだった。そして現在では、多くの飲食店が立ち並び、せんべろの街としてにぎわう構成へと変わっている。
つまり、今多くの人が思い浮かべる飲み屋街の赤羽は、街の出発点ではなく、およそ半世紀をかけてたどり着いた到達点だといえる。物を売る街から、人が集い飲み食いする街へ。この移り変わりそのものが、赤羽という場所の柔らかさ、時代に合わせて姿を変えてきた力を物語っている。そして街は、今また次の変化の入り口に立っている。
一方で、街の骨格は復興期に整えられたまま長く更新されずにきた。区の資料によれば、東口の中心部にあたる区域では、旧耐震基準の時代に建てられた建物が全体の約7割を占める。老朽化した長屋も複数残るが、建て替えには権利者全員の同意が必要であるため、なかなか前に進みにくい。
また、商業地域としては高い容積率が認められているにもかかわらず、駅前には2~3階建ての建物が数多く残り、土地利用が十分に進んでいないという課題もある。
【赤羽の現在】動き始める再開発。大きな分岐点に
長く手つかずだったこの街が、今大きな分かれ道に立っている。東口では、地元の権利者が中心となって市街地再開発事業が動き始めた。
なかでも駅に近い第一地区(約0.5ha)では、計画が具体的に動き出している。JR赤羽駅から徒歩2分ほどの場所に、地上26階・高さ約108mの再開発ビルが建つ。269戸の住宅に加え、低層部には店舗が入り、街区の北側と西側には広場状の空間が設けられる予定だ。2026年10月の着工、2029年6月の竣工を目指している。
飲み屋街の中心となる中央地区も、準備組合の設立段階に入った。さらに、かつてダイエーがあった場所には地上32階建て、西友の跡地には地上26階建てのタワーマンションが建設中だ。駅周辺では、複数の再開発が同時に走り出している。
こうした再開発の背景には、施設の老朽化のほかに防災の切実な事情がある。飲み屋街となっている駅前の一番街周辺は、古い木造の建物が密集し、地震や火災に弱い。狭い道が入り組み、緊急車両が入りにくい場所も多い。街の安全性を高めていく必要があること自体は、多くの住民も感じているのではないだろうか。
また、住民へのアンケート(参照:赤羽駅周辺地区まちづくり基本計画 74P)を見てみると、「酔っ払いが多い」「ガラが悪い」など、飲み屋街に対してマイナスのイメージを持つ住民も実は少なくない。
とはいえ、私のようにこの雑多な雰囲気こそが赤羽の魅力だと感じる人がいるのも確かだ。安全で暮らしやすい街への更新を望む声と、いまの雑多な雰囲気への愛着。相反する二つの感情が重なり合う場所に、赤羽は立っている。
こうした変化を、長くこの街で暮らしてきた人はどう受け止めているのだろうか。三代にわたって赤羽で暮らす住民に話を聞いた。
三代にわたって赤羽に暮らす住民に聞く
三代にわたって赤羽に住み続けてきた住民に、この街の過去から未来についての話を伺った。
―現在の赤羽をどう感じていますか。
個人的にはすごく住みやすいエリアで、交通利便性も良いですし、今は駅周辺のスーパーが工事中ですが、買い物にも困りません。親子3代でここに住んでいるのですが、周りにもそういう人が多くて、赤羽から出た人がまたここに帰ってくるという話もよく聞きます。
―再開発の動きについては、どう受け止めていますか。
繁華街の一番街周辺には昔ながらの木造の長屋が多くて、大きな目で安全性を考えれば、新しい建物へ移していくことは必要だと思っています。
ただ、街の造りが変わることで、駅前で開催されている祭りなども形を変えていかなければいけなくなると思うので、街としてどう変わっていくかは気になっています。
そういった意味でも、タワーマンションができることで、新しい住人が大きく増えていくということをポジティブに捉えて、これまで住んできた人と分断せずに、一緒に新しい街の形を模索できたらいいなとは考えています。
―暮らしの中で、再開発による変化を既に実感する場面はありますか。
工事が始まってから、周辺の風が強くなったように感じることはあります。ビルの建て方で風の流れが変わるのかもしれません。こうした小さな変化の積み重ねが、これから先どうなっていくのかは気になっています。
―子育てや教育の面では、どう見ていますか。
工事中や計画中のタワーマンションが完成すれば、当然、子どもの数も増えるはずです。ただ、受け入れる学校の数が足りるのか。近くの小学校は統廃合が行われたばかりで、これからどうするのか、住んでいる立場としては気になっています。
未来の「赤羽らしさ」は、誰がつくるのか
駅の周辺では、ここ5年ほどが街の風景を大きく塗り替える分岐点になる。そのとき問われるのは、せんべろや飲み屋の色が薄れた後に、赤羽が何を新しい「らしさ」としてつくれるか、ということだろう。
ただ、それを悲観する必要はないのかもしれない。赤羽はこれまでも、物販の街から飲み屋街へと、時代に合わせて何度も姿を変えてきた。しかもそれは、成り行きで変わってきたのではない。焼け跡から誰よりも早く商店街を立ち上げたように、赤羽の人々は変わることを恐れず、自分たちの手で街を変えてきた。その行動力こそが、赤羽にもともと備わった「らしさ」だと感じる。
再開発で新しく住む人と、昔から住み続けている人。この二つが分かれたままではなく、混じり合って新しい赤羽をつくれるかどうかに、これからの街の未来がかかっている。
交わるべき相手は、新旧の住民だけではない。区の資料によれば、北区では日本人人口が減少に転じる一方で外国人人口は増え続け、その割合は上昇していくと予測されている。また駅の西側では、2017年に東洋大学の赤羽台キャンパスが開設され、2023年には新たな2学部が開設されたことでさらに多くの学生が行き交う街にもなった。
昔からの住民、再開発で流入する新しい住民、増えていく外国人、そして学生。世代も国籍も背景も異なる人々が同じ街で暮らすことになる赤羽には、互いが自然に顔を合わせ、街のことを一緒に考えられる「人が交わる場所」が必要になるのではないか。
興味深いのは、この発想がすでに計画の側にも用意されている点だ。「赤羽駅周辺地区まちづくり基本計画」は、まちづくりの基本方針の一つに「人と人の交流を促す『場』の創出」を掲げ、整備後の運営まで担うエリアマネジメントの導入検討にも触れている。
だとすれば、これから問われるのは、その場を誰がどう担い、育てていくのかということだ。行政がハードを整え、住民や事業者がソフトを動かす。これらが実際に噛み合ったとき、未来の赤羽らしさは形になっていく。
多くの街が、再開発とその後のまちづくりに苦戦している。均質な高層住宅が並ぶだけで、街の個性が薄れてしまった例は各地にある。その中で赤羽が、計画に描かれた「交流の場」を絵に描いた餅で終わらせず、実際に人の集まる場所として動かせるかどうか。
せんべろの街として積み上げてきた、人と人の距離の近さという財産を、次の時代にどう受け継ぐのか。焼け跡から街を作り上げたあの行動力がこの街に残っているなら、赤羽はきっと、次の「らしさ」も自分たちの手で作り出せるはずだ。その行方を、この街を知る一人として見守っていきたい。













