子どもの頃から地図は身近にあった

今、紙の地図を常備している家庭は少数派になっているのではないかと思う。
子ども達が学校の授業で使う地図帳は別として大人たちがどこかに行く時にはスマホを見ればどこへでも行ける時代である。車で移動する時にはカーナビがある。わざわざ、紙の地図をリビングに、あるいは車のドアのポケットに入れておく必要はない。

だが、少し前まで地図はもっと身近だった。1985年生まれ、空想地図の第一人者として知られる地理人こと今和泉隆行さんの家には紙の地図、辞書などがすぐ手に取れる場所にあり、両親もよく手にしていた。

「鹿児島出身の両親の元に生まれ、5歳まで横浜市で育ったのですが、両親は首都圏の新住民。何がどこにあるのかを知るために地図を見るのは日常でした。今はトラックの運転手さんくらいしか買わないようですが、その当時は地図は買わないと見られないものでした」

両親にならい、今和泉さんも地図を見るように。この頃、路線バス好きだった今和泉さんは父に連れて行ってもらい、自宅近くのバス路線を乗り歩いた。漢字で行先を覚え、路線図を手に入れ、地図は道の行先を教えてくれるものと思った。

「といっても日常的に動き回っていたのは半径1キロくらいの範囲。この時の世界はまだ線。面ではありませんでした」

地図を友に成長、世界を広げてきた経緯から始まり、さまざまな話を伺った地図を友に成長、世界を広げてきた経緯から始まり、さまざまな話を伺った

その後、東京都日野市に引っ越したあたりから世界は広がって行く。すでに文字が読めるようになっており、知らない土地で両親と一緒に自分が住む地域を地図から知るようになっていくが、そこで世界は面になっていく。

「人口密度がそこまで高くない地域では徒歩圏にはモノも施設も揃っていません。自分の成長もあって自然と行動範囲は広くなっていき、周辺には畑が残るところもあれば、団地もあることを知るようになっていきました」。

地図を友に成長、世界を広げてきた経緯から始まり、さまざまな話を伺った丘陵、台地、低地からなる日野市。湧水が多いことでも知られている

都市近郊で多様な土地利用を知り、地図を描き始める

日野市は27.55km2の市域に丘陵、台地、低地があり、住宅がメインになっている地域が多いものの、丘陵地には雑木林や湧水、低地には農地、工場もあるなど、変化に富んだ土地利用がなされている。

「小学校3~4年生の頃には自転車で走り回るようになり、台地の上では区画整理が行われていること、台地の下には田畑があり、農家には同じ苗字の人が多く、道路から家までが遠いことなどに気づくようになりました。区画整理については近所に市政図書館がり、そこに足しげく通っていたので、そこで知ったのだろうと思います」

また、日野から都心に出かける際には電車で30~40分の移動で風景が変わるのを楽しんでいた。徒歩圏で何でも揃う都心部に住んでいると地域に多様性があることに気づきにくいが、都市近郊に暮らすと場所によって風景には違いがあることに気づくチャンスが増える。そのためか、空想地図作家には都市郊外に居住している人が多いと今和泉さん。

日野市に引っ越した5歳くらいから地図を作るようになっていた。当初は架空の路線図。7~8歳頃からは地図に移行。自由帳のようなB5の画用紙に描いていた地図は1万分の1。

「ままごととか、架空の戦隊を作るとか、子どもがよくやるごっこ遊びと同じで、身近な表現が地図だったというだけです。縮尺は我が家の地図で見慣れていたものでもあり、遠くへ行きたいという気持ちがあったから。一つひとつの店や家がどんな様子か、細かい状況を表現したかったのではなく、都会から田舎までのさまざまな風景を地図にしたかったのです」。

存在しない都市の地図を描くということだけ聞くと変わった趣味のように思うが、ごっこ遊びの延長が地図だったと言われると分かる気がする。今和泉さんが10年前に書籍「みんなの空想地図」(白水社)を出版、タモリ倶楽部に出たことで空想地図の存在が知られるようになってから、実は私も作っていましたという人が意外に多いことも分かった。

「上の世代の人達は他人に理解されないマニアックな趣味と考え、人知れず描いてきたようです。それが私を含めた作者のテレビ出演で一気に風向きが変わり、下の世代は外で作品を作っていることを言うようになりました。今では紙の地図を知らないだろう20代前半から10代後半でも空想地図を作っている人がいます」

高校時代に実感した中心市街地の衰退と勃興

多摩都市モノレール以降、立川は大きく発展、近年もさまざまな施設ができ、話題になっている多摩都市モノレール以降、立川は大きく発展、近年もさまざまな施設ができ、話題になっている

高校は立川に通った。多摩都市モノレールが全面開業した2000年の翌年、2001年に入学、立川市中心部のダイナミックな変化を目の当たりにした。

「昔は八王子のほうが栄えていたのですが、1979年に伊勢丹、1985年に大丸、1993年に西武、2004年に丸井がそれぞれ閉店しており、シャッター通りが増えていました。中学から高校にかけては中心市街地の衰退と勃興の両方を見てきたわけで、それで商業地域にも興味を持つようになりました」

といっても地図作りは小・中学校時代が最初のピークで大学2年生以降は休止状態。その後、2010年に再開するまではひたすら日本中のまちを訪ね回っていた。

「大学に入り、パソコンを使った求人広告制作をアルバイトで始め、それで得たお金で国内あちこちを回り始めました。自治体数にして300~400くらいは訪れたでしょうか、人口20万人以上の都市はほぼ訪れていると思います。実家のある鹿児島へ行く時にもその前に、後にと経由地を増やしていました」

訪れた先では地元の人が集まるところに関心を持った。商業施設は上から下まで見て、地下の食品街は賑わっているけれど上の階はすかすかな百貨店もあれば、そうでないところもある。特に内装やテナント、訪れる人の年齢層など行ってみないと分からないものを見て来た。商店街は歩き、市街地の範囲をざっと知りたいときはバスに乗った。

「ここに住んだらどういう生活を送ることになるのかをイメージしながら浅く広くシミュレーションして回っていました。自分が行くような大型店、本屋、飲食店がどこにあるのかなどはよく意識していました」

遠くへ行きたいという希望が空想地図ではなく、リアルでかなえられていた時期だったわけである。

2010年に空想地図「中村市(なごむるし)」が誕生

空想地図作成を再開するのは就職後。

「2009年に就職したのですが、その前年、高校生に空想地図について話す機会があり、それが自作の空想地図をもう一度見直すきっかけになりました。高校生のとき(2001~2003年)には手描きだったものを大学1~2年(2004~2005年)にパソコンで描き直しているのですが、見直してみると大学の建物が倉庫街のような巨大な建物群になっているなど、リアリティがない。描き直さないといけないなと思いながら大学は卒業、就職してからはいろいろとうまく行かない日々が続き、2010年頃から現実逃避として空想地図に手を入れ始めました」

その当時作った地図がベースになっている中村市。地形、鉄道、バス路線はもちろん、銀行やスーパーのロゴその他も細かく作り分けられていて、それを見ているだけでも楽しいその当時作った地図がベースになっている中村市。地形、鉄道、バス路線はもちろん、銀行やスーパーのロゴその他も細かく作り分けられていて、それを見ているだけでも楽しい

現在の空想地図「中村市(なごむるし)」はその2010年版をベースに少しずつ描き直してきたものだ。あちこち手を入れてきたが、そのうちでももっとも手が入っているのは城下町エリア。何度も描き直しており、それでも毎回、不満があるという。

「2010年時点では武家地、町人地をくっきり二分してしまい、百数十年の歴史のある城下町を描くには知識不足。城下町の設計は複雑で、歴史の長い街では中心地も変わっていくので単に今の様子だけを考えるだけではなく、そのまちの歴史から考えていかないと描けないということが分かってきました」。

それに対してあまり変えていないのはニュータウンや郊外のまち。碁盤の目状の、ある時代の合理性、効率で一度に作られたまちは分かりやすいのである。地形に合わせて曲線の街路を配したまちも同様。歴史のないまちほど表現として想像しやすく、単一ということだろうか。

といってもニュータウンでも変更を加えるところもある。

「当初は谷戸も含めて一帯が開発されたという描き方だったのですが、実際にはそうした地形の場所が他と一緒に一気に開発されることは少ない。そこで一度作った街区を谷戸に戻すなどの作業に取り掛かっています。同じ谷戸でも開発の時期などによっても様相は違い、そうしたコントラストも表現したいですね」。

ちなみに中村市の由来は小学校時代に転校してきた友人の名前から。
空想地図を書くのは面白いよと勧めたところ、本人も描くようになり、中学までは一緒だった。ただ、名前そのままの「なかむら」ではなく、読みだけは変えて欲しいという本人の要望から「なごむる」という読みを元にして「なごむるし」としてあるそうだ。

その当時作った地図がベースになっている中村市。地形、鉄道、バス路線はもちろん、銀行やスーパーのロゴその他も細かく作り分けられていて、それを見ているだけでも楽しい中村市の、かつてお城があったあたり。さて、どこがお城で、どこが武家屋敷のあったエリアだろう?
その当時作った地図がベースになっている中村市。地形、鉄道、バス路線はもちろん、銀行やスーパーのロゴその他も細かく作り分けられていて、それを見ているだけでも楽しいこちらはニュータウンエリア。駅近くに大型商業施設があり、その先に住宅地が広がる

いずれはまちづくりの失敗例のプラットフォームを作りたい

その中村市はご覧いただけば分かる通り、空想で描いたとは思えないほど精緻でどこかにありそうに思える。

城下町から少し離れて鉄道駅を中心に新たに生まれただろう繁華街があり、電車で移動するとかつての門前町があり、ニュータウンも物件名で開発年代の違いが推察できるという細かさ。川沿いには工業団地があり、山中には霊園も。およそ、思いつくまちにあるものは取り込まれている。しかも、なぜ、ここにこれがあるのかが分かる。さらに言えば、ここではこのような問題が生じているのではなかろうかということすら推察できるのである。

首都圏近郊のある程度の規模のまちということでいえばさいたま市に近いが、城下町ということで考えると川越市が拡大したようなところでしょうかと今和泉さん。といっても、どこか特定のまちをモデルにしているわけではない。

だからか、中村市を眺めているとこの部分は高松市に似ているんじゃないか、いや、ここは山形市かもなどとそれぞれに違うまちが思い起こされ、それを考えながら見るのも楽しいものである。

旭田不動の門前町エリア。少し高台に寺があり、その前の道が参道旭田不動の門前町エリア。少し高台に寺があり、その前の道が参道
旭田不動の門前町エリア。少し高台に寺があり、その前の道が参道中村市には大学をはじめ、学校も多い。工業団地も多く点在している

中村市が有名になったことで今和泉さんはドラマの舞台となるまちの地図製作、地図からまちをどう読むかなどの講演、美術館での展示などさまざまな仕事を依頼されるようになったが、今後やっていきたいのはまちづくりの失敗例のプラットフォームだという。

「成功例はメディアでも講演でも紹介しやすいし、参考にしたくもなります。しかし、なかな語られない失敗例を知ることで、成功と失敗を分ける要因がつかめ、押さえるべき点が見えるなど失敗例から学べることは多いはずです。

ところが、失敗例には触れようとせず、いまだに大型施設や観光施設を作ろうとする昭和の成功体験を引きずる計画もあれば、現実的で未来志向な計画が練られたものの、一部の勢力によって潰される流れもあります。まちづくりを進める上で押さえておくべきポイントを、公にしにくい失敗例を含めて元ネタが分からないように盛り込み、空想地図上で失敗を学べるようにできたらと考えています。実務で空想地図が役に立つようにできればと思っています」

都市計画が成功している都市、住みたい都市

ところで、いろいろなまちを知っている今和泉さんの目からは日本の都市のどのまちの都市計画が成功しているように見えているのだろう。

「都市計画の観点であれば、城下町の武家屋敷=森が戦災で焼失、そのイメージを大通りに転嫁、杜の都とした点、開発するところとしないところを明確にしていることなどから仙台が良いでしょうか。七夕、ジャズフェスなど通りを使いこなし、広く市民が参加できる余地もあります。東京の潮流をスマートにトレースするのがうまい一方、固有の文化、揺るがぬ地域性を形作る軸、言い換えればクセが弱い印象もありますが。平均的なビジネスマンには住みやすいまちではないかと思います」

空襲で城下町だった頃の面影はほとんど失われたが、その代わり、緑陰濃い並木が杜の都のシンボルとなった空襲で城下町だった頃の面影はほとんど失われたが、その代わり、緑陰濃い並木が杜の都のシンボルとなった

最後に住みたいまちについて質問した。

「学生時代によく行った北九州市は市内に城下町、港町、企業城下町があり、都市圏は海峡を越えて下関まで広がっていて、現在では課題先進都市でもあり、大変興味深いと思います。

実際に住むとなると、ずっと首都圏に住んでいたので京阪への憧れはありました。京都の文化の酸素と大阪の経済の酸素の両方が吸える場所として高槻市が良いかと思った頃もありました。

ただ、京都と大阪は思ったより隔てられており、文化と経済の要素がマーブル状に交ざり合う東京のメリットを感じるようになり、実際にはながいこと、文京区本郷に住んでいます。地方への憧れは強いのですが、さまざまな地方に行くには実は東京が一番便利。東京の多様なまちのおもしろさを感じています」

中村市には都市のさまざまな要素が盛り込まれているが、住むならそうした多様な都市が良いということだろうか。中村市が近郊までを含めた都市の魅力をぎゅっと詰め込んだまちと考えると、ついつい見入ってしまうのも頷けるというものである。

■参考資料
空想都市へ行こう!
https://imgmap.chirijin.com/
地理人
https://www.chirijin.com/

空襲で城下町だった頃の面影はほとんど失われたが、その代わり、緑陰濃い並木が杜の都のシンボルとなった高槻は京都、大阪のちょうど真ん中あたりに立地、JRと阪急が使える。写真はJR高槻駅周辺