日野や京都だけじゃない。大阪にある新選組ゆかりの地とは?

新選組副長・土方歳三の像(画像:PIXTA)新選組副長・土方歳三の像(画像:PIXTA)

新選組の歴史的なスポットといえば、まずは東京都日野市だろう。新選組副長の土方歳三や六番隊組長の井上源三郎が生まれた場所であり、近藤勇、沖田総司らも日野の地に集い、剣術の腕を磨いている。前回の新選組スポット巡りで解説したので、ぜひ記事を読んでみていただきたい。

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次に挙げられるのは、やはり京都だ。新選組は幕末の京都の治安維持のために誕生した。結成の地である「八木邸」や、兵法調練場になった「壬生寺」、そして新選組の名を世に轟かせた「池田屋事件」の舞台など、新選組にまつわるスポットが数多く京都には存在している。

しかし、実は新選組は大坂の地でも活躍したことはあまり知られていない。もともと新選組は、畿内に滞在する将軍・徳川家茂を護衛することが任務だった。1863(文久3)年4月21日、摂海防備体制の視察のため、将軍は大坂に滞在している。このように、将軍が大坂城に泊まるときは、新選組は大坂まで出張。そのときに使用した旅宿の一つが萬福寺(まんぷくじ)である。

将軍・家茂の警護のために屯所にした萬福寺

Osaka Metro長堀鶴見緑地線の西大橋駅から、なにわ筋沿いに南へと坂を下りていき、南堀江通にぶつかると交差点を左へ行けば、すぐに萬福寺に到着する。

萬福寺は、現在の大阪市西区にある萬福寺は、現在の大阪市西区にある
萬福寺の前に立つ大坂旅宿(屯所)跡を示す石碑萬福寺の前に立つ大坂旅宿(屯所)跡を示す石碑

門の前には、歴史地理学者の中村武生氏による説明版がある。それによると、1865(慶応元)年5月、将軍・家茂の3度目の西上にあわせて、新選組は大坂市中取締を京都守護職の松平容保から命じられており、ちょうどその時期に萬福寺を宿所にしていたという。家茂が幕府の大軍を率いて、江戸を出て大坂に向かったのは、長州勢との戦い「第二次長州戦争」に挑むためである。家茂の頭を悩ませたのは、それだけではない。同年9月16日には、英・仏・蘭・米の4ヶ国の公使たちが、軍艦9艘を率いて摂津の海に乗り込んできて、開国への対応を迫られている。

よほど追い詰められていたのだろう。10月3日に家茂は朝廷に「将軍職を慶喜に譲りたい」と申し出ている。その後、慶喜に説得されて将軍職は続投となったが、翌年7月20日に、脚気衝心(かっけしょうしん)のために病死。この3度目の西上から、家茂は妻の和宮が待つ江戸に帰ることはできなかった。そんな悩みが深い時期に、新選組は将軍を支えたことになる。家茂としても頼もしかったことだろう。萬福寺の現在の建物のうち、庫裏や山門などは幕末期にはすでにあったものなのだという。当時の空気に触れられる、大阪における貴重な新選組スポットだ。

萬福寺は、現在の大阪市西区にある歴史地理学者の中村武生氏による説明版

萬福寺から徒歩30分で「大利鼎吉遭難の地」

せっかく萬福寺まで足を伸ばしたならば、屯所から出発した新選組の気持ちになりながら、30分ほど歩いて、もう一つの新選組ゆかりのスポットも訪れてみてほしい。

1865(慶応元)年、萬福寺に滞在していた新選組は、土佐藩の浪士に不審な動きがあるという情報をキャッチ。潜伏先は松屋町筋にあるぜんざい屋(善哉屋)の「石蔵屋」だ。

さあ、当時の新選組のように、浪士たちが逃げてしまわないうちに急いで駆けつけよう。幸い、私たちには文明の利器がある。スマホの地図アプリで「大阪府大阪市中央区瓦屋町1丁目11」にある「大利鼎吉遭難の地」を検索して、自分がわかりやすいルートで駆けつければよい。
松屋町筋をとっとこと歩ければ、石碑が見えてくるはずだ。まさにこの地で、土佐勤王党の一人、大利鼎吉が新選組に襲撃されて斬殺されることとなった。

「大利鼎吉遭難の地」に向かう「大利鼎吉遭難の地」に向かう
「大利鼎吉遭難の地」に向かう「大利鼎吉遭難の地」を示す石碑

大利鼎吉は、1842(天保13)年に土佐藩に生まれた。20歳のときに、尊皇攘夷の志に突き動かされて、「半平太」の愛称で知られる武市瑞山の土佐勤王党に加わることとなった。

やがて弾圧を受けて脱藩。京都へ潜入すると、長州藩の過激派志士たちと合流し、池田屋事件では新選組隊士の武田観柳斎と戦ったともいわれている。

新選組の隊士4人相手に奮闘した大利鼎吉

そんな大利鼎吉が土佐の浪士・田中光顕らと潜伏したのが石蔵屋だった。大阪の市中に火を放ち、混乱をおこす計画を立てているときに、新選組に情報が洩れることとなる。

このとき、大利鼎吉ら浪士を取り締まるため現場の石藏屋に向かった新選組隊士は、谷三十郎・万太郎の兄弟と正木直太郎、高野十郎の4名。それに対して、潜伏先の石蔵屋を襲撃したときに店にいたのは、店主と鼎吉の2人のみだったという。

絶体絶命のピンチに追い込まれた鼎吉だったが、ずいぶんと奮闘したらしい。新選組の隊士4人を相手にして、討ち取られるまでに1時間も攻防を繰り返したという。鼎吉のほかに8人いたという土佐藩浪士たちが途中で帰って来ていれば、また違った展開があったかもしれない。

これが「大坂の池田屋事件」ともいわれる「ぜんざい屋事件」のあらましである。石碑には鼎吉が最期に詠んだという辞世の句が綴られている。24歳の若さだった。

「ちりよりも かろき身なれど大君に こころばかりは けふ報ゆるなり」

石碑に刻まれた鼎吉の辞世の句石碑に刻まれた鼎吉の辞世の句

新選組4人を相手に死闘を繰り広げた大利鼎吉に思いを馳せながら、「まっちゃまち」の呼び名で親しまれている松屋町筋商店街をブラブラするのもよいだろう。江戸時代には、菓子店が集中していたというこの問屋町には、駄菓子や人形、玩具、和紙、文房具などの問屋が立ち並ぶ。ほかではあまり見られないアイテムと出会えるかもしれない。

新選組の息遣いを感じられるスポットを楽しみながら、町自体が醸し出す懐かしいレトロな雰囲気も味わえる――。ちょっと大阪で時間を持て余したら、そんな散策ルートを辿ってみてはいかがだろうか。

石碑に刻まれた鼎吉の辞世の句松屋町筋と長堀通が交わる松屋町交差点
石碑に刻まれた鼎吉の辞世の句Osaka Metro松屋町駅

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