今までの超高層のように権威を表すデザインではない永山祐子設計の「歌舞伎町タワー」
4月14日、歌舞伎町・東急ミラノ座跡地に新しい拠点・歌舞伎町タワーが完成した。ホテル、映画館、劇場、ライブホール、ゲームセンター、サウナ、昭和の横丁などからなる娯楽とレジャーが中心となったビルである(ホテルの開業は5月19日)。
永山祐子設計の外観が素晴らしい。重量をまったく感じさせない軽やかさと美しさ。水のような透明感。永山によると噴水のイメージだという。
「歌舞伎町にできる新しい超高層の立ち居振る舞いとしてどのようなものであるべきか。ここでイメージしたのは今までの超高層のように権威を表すようなデザインではなく、この歌舞伎町の沼地から湧き上がる人々の思いを象徴するような噴水であった。噴水は形を持っていない。下からの勢いがなければ消えてしまう、はかなく揺らぐ立ち姿がエンターテイメントの街の新しいシンボルとなる。以前、(ミラノ座の)目の前のシネシティ広場には噴水があった。この噴水が新しく復活し、この歌舞伎町のいにしえからの想いを受け継いでいるとも言える。噴水を表現するためにガラスの反射をコントロールし、水の波形をイメージした細かいパターンをガラス表面にセラミック印刷し、水飛沫のような白色で全体にさらに大きなグラデーションによるアーチ(=波形)のパターンを描いた。近くから見ても遠くから見てもそれぞれのスケールに対応した印象を作り出している。足元は波形のパターンを組み合わせレースのようなアルミキャストによる、透けるファサードとした。周りに高いビルがないことでサラウンドに見えるこの新しいシンボルが多くの人の目に触れ、歌舞伎町の脈々と続く人々の思いを未来につなげてくれることを願っている」と永山は言う。
中央線や総武線に乗って吉祥寺方面から新宿に向かうと、ただでさえまっすぐな線路は中野駅から東中野駅の間で最も直線になる。そして新宿に向かって右側の窓から、歌舞伎町タワーが忽然と姿を現す。
空の青が壁に映り込み、空とビルが一体化する。さらに右手には西新宿の高層ビル群が見えるが、歌舞伎町タワーはそこから一人離れて別の世界観を表しているように見える。明らかに新しい建築ができたな、と嫌でもわかる。
歌舞伎劇場を計画した鈴木嘉兵衛とは何者か
永山が言う「歌舞伎町の沼地から湧き上がる人々の思い」とは何か。そもそも世界に冠たる歓楽街・歌舞伎町はどうして「歌舞伎」の名を冠しているのか。
理由は簡単で歌舞伎町には歌舞伎劇場が建設される予定だった。計画したのは鈴木嘉兵衛。
鈴木が1946年の秋、東京都都市計画局長の石川栄耀(ひであき)に町名変更の相談に行ったところ、石川が「今あなたが汗を流している復興計画の目玉は何ですか。歌舞伎劇場の建設でしょ。だったら迷うことはないでしょう。ずばり歌舞伎町にしてみては」と言ったことで命名された(鈴木嘉兵衛『歌舞伎町』1955年)。
鈴木嘉兵衛とは何者か。三重県鈴鹿市出身で、関東大震災直後の1924年に上京し、従業員35人の食品卸会社を経営した。戦前は920世帯ほどで、住宅と商店の混合地帯。住宅は勤め人が多いが、大企業勤めではなく、貧乏町と言われていた。今の西武線の新宿駅の辺りは貧民窟であった。商店は履き物関係が多く、下駄の鼻緒、靴の材料づくり、それからペンキ屋、ブリキ屋など。いたって庶民的だったようだ。
その鈴木が敗戦後、1945年8月16日に疎開先の日光から焼け跡の新宿に駆けつけ、全国に散っていた旧住民と連絡を取り、民間主導による復興を呼びかけ、2ケ月後に復興協力会設立総会をスタジオアルタのできる前の二幸で開き、みずから会長に就任した。その時点で鈴木はもう復興計画を持っていた。山手線を背にしてワの字型に芸能施設をつくり、その周辺に計画的に店舗住宅を配置する。劇場2、映画館4、子ども劇場1、演芸場1、総合娯楽館1、ダンスホール1、大宴会場、ホテル、公衆浴場を建設するという計画だった。
大村伯爵家の鴨場が汚水の浮島に変わった歌舞伎町
歌舞伎町はもともと大久保村である。名前からわかるように窪地である。特に歌舞伎町の中心地、ゴジラのいるあたり、つまり旧コマ劇場あたりが一番低かったらしく、そこに明治時代は池があった。当時は鬱蒼とした森林地帯で、大村伯爵家の鴨場であった。
ところが淀橋浄水場をつくるために掘られた土で池が埋められ広い原っぱとなり、峯島家の所有となった。歌舞伎町には今も暗渠があり、新宿6丁目の西向天神まで地下を流れている。その暗渠が歌舞伎町1丁目と2丁目の境界であり、歌舞伎町タワーの北側になる。
そういう低地なので、四方から汚水が流れ込んだ。歌舞伎町は「汚水の上の浮島です」と早稲田大学歌舞伎町研究会の北原雅治は断言している(木村勝美『新宿歌舞伎町物語』1986年)。
森の中の池が汚水の浮島に変わり、そこに広場ができ噴水ができ、そして噴水をイメージしたタワーができたのかと思うとゲニウス・ロキを感じる。
鈴木は大地主の峯島茂兵衛の杉並区和田の自邸を訪ね自分の構想を説明した。
安い地価で優良企業を誘致し、それをテコにして街を発展させる計画だった。「あなたの夢に賭けてみようじゃないですか。好きなようにおやりなさい」と茂兵衛は快諾し、峯島家と同家が経営する尾張屋土地会社が所有する土地の8割以上を手放した。
そして鈴木は石川に計画の説明に行く。石川は丹念に書類に目を通し「やろう。実に面白い」と賛同した。
「好いことをしたと我々はいささかウヌボレに酔っていた。」と記した石川栄耀
石川栄耀は私の著書によく登場している。都市計画における夜の娯楽の必要性を説いた洒脱な人物だ(詳しくは中島直人『都市計画家 石川栄耀』および高崎哲郎『評伝 石川栄耀―社会に対する愛情、これを都市計画という』参照)。
鈴木の著書『歌舞伎町』(1955年)に石川は序文を寄せているが、序文と言うには漫談のようであり、石川の人柄を表している。と同時に事の経緯が一番わかりやすいので長くなるが引用する(句読点や漢字・かなづかいは現代風に改めた。しかし石川のべらんめえ調と、漢字の間違いかもしれないが当時の用法かもしれないというものはそのままにした)。
「自分たちが東京の復興計画に苦しんでる最中に、実に珍しい計画が出願された。それは新宿角筈の第五高女跡(注1)を中心に区画整理して集団的な建設計画をやろうというのである。復興計画が中々うまく行かないのでクサッテいる我々にとっては正に乾天の夕立であった。・・・我々は大計画そっちのけでこれに興味を持ってしまった。・・・ 一同非常な乗り気で、あーでもないこうでもないとヒネリ始めた。これが二、三ヶ月かかった。」
「トモカク計画はできた。広場を中心として芸能施設を集める。そして新東京の最健全な家庭センターにする。そういう案である。去年その中心建築として吉右衛門後援者たちが新歌舞伎座をつくりたいと申し出たので、計画はいよいよ輝かしいものになった。おそらくこの計画が今度の全戦災復興計画の紅一点になるのではないかとさえ思われた。好いことをしたと我々はいささかウヌボレに酔っていた。」
永山祐子の歌舞伎町タワーは歴史の必然か。「歌舞伎町は、全戦災復興計画の紅一点になる」
歌舞伎町が東京で最も健全な家庭センターとして計画されたとは、ビックリである。
また「紅一点」というのが良い。男性的になりがちな都市計画において、というか、ほぼ100男性的なマッチョなものである都市計画において、例外的に女性的な・華やかな・楽しい・うきうきするような都市ができるという期待を石川を抱いたのであろう。
だから、その後男性の欲望を満たす街となった歌舞伎町に今、永山祐子が歌舞伎町タワーを設計したのも、実は歴史の必然、本来の歌舞伎町の姿を取り戻すことを意味するのかもしれない。
こうして計画はだいぶ進んだ。だがそこへ来たのが「晴天のヘキレキ 建築統制(注2)である。それは映画館的有閑建築一切禁止という強いものであった。少なくも広場中心の美しい映画館がなんとかして四、五館は建ちうるという見込みがたち、地球座がその希望の一星として開館した出ばなであったので関係者の失望は」大きかった。
計画の頓挫により「歌舞伎町は戦後そこらにある住宅地とも商店街ともパン助街ともつかぬ荒涼とした場末になるはずであった。」しかし「施行者(鈴木)はそこを耐えた」。「歌舞伎町のカイワイは博覧会のオカゲで適確に新宿の一部となった。」
「東京文化産業博覧会」の歌舞伎町会場。文化日本を再建し国家繁栄と国際平和の確立に寄与
鈴木が歌舞伎劇場建設の代わりに考えたのは国際百貨店(インターナショナルデパートメントストア)であった。1947年、設立趣意書にはこう書かれた。
「文化日本を再建し国家繁栄と国際平和の確立に寄与せんとするには、戦争に依って破壊された文化の飛躍的向上を図ることが必要である。然しながら、このことは資源の貧困、物質の欠乏、 金の枯渇等、幾多の悪条件に制約された今日の国情下においては容易な業ではない。 本社 (復興協力株式会社)はこの点に鑑み米国の有識者に語り、米国財界の協力と我国朝野の賛同を得て、米合弁の国際百貨店を設立し、文化国家の建立に裨益 (ひえき。「おぎなう」「たすける」「役に立つ」の意味)せんとするものである。即ち国際資本の参加により米欧機器物資の導入を容易ならしめこれにより我が国工業の躍進を促し、又、 優秀なる輸入雑貨を広く紹介して一般大衆の文化水準と情操の昂揚を図るほか、輸出雑貨製品の品質改良に適切なる示唆と刺激を与え、文化の向上と国家経済の確立に貢献し、交易を通じて米日の親善関係に資する処あらんとするものである」
国際百貨店のアイデアは東急の五島慶太によるものと言われ、鈴木に後藤を紹介したのは阪急の小林一三だったという。大正・昭和の鉄道王・都市開発王が歌舞伎町にも影響していた。
博覧会とは1950年4月2日から6月30日まで3ヶ月間開催された「東京文化産業博覧会」である。48年に戦後初の産業博覧会が北海道で開催されて以来、48年、49年に大阪、神戸、横浜で産業博覧会が開催され、50年には全国13カ所で開催されるなど、博覧会ブームが起きていた。だがどの博覧会も赤字であり、鈴木が新宿歌舞伎町、新宿御苑、西口の3カ所で博覧会をしたいと言っても周囲は乗り気になれなかった。
歌舞伎町会場では、まさにその後ミラノ座ができる敷地に産業館が建てられた。そしてグランドオデオン座敷地に社会教育館、ジョイパックビル敷地に婦人館、東亜会館敷地に合理生活館、コマ劇場敷地に児童館と野外劇場が建設された。それらはいつからでも劇場や映画館に転用できるようにつくってあった。コマ劇場の正面には電動の大きな恐竜の模型が据えてあったというから、それが今はゴジラになったのだ。
だが博覧会は失敗した。予想通り大赤字だった。だが東亜興業の髙橋康友が社会教育館をグランドオデオン座に替えるなどの動きがあり、東宝も1956年に児童館と野外劇場の跡にコマ劇場を建設した。
石川栄耀が記した歌舞伎町の繁栄。「よくやった。ただその一語である。」
石川は書く。
「一番街の夜の人通りにもまれながら、実に昔日の感に打たれるのである。よくやった。ただその一語である。」「歌舞伎町はまったくあるべき姿となった。ちょうど新装の巨船がゆったりと春の潮に浮かんだ形である。船長鈴木嘉兵衛氏の満足を思うべきである。」
「氏はNHKの座談会の時、『今新宿には何か新しい姿が生まれつつあるようです。それは何かにぎやかな新宿というのでなく、山の手全体の家庭中心としての上品で健康な娯楽中心地ができつつあるようです。』」と話した。「正にその形になりつつある。もし歌舞伎町がそうなったとするなら、それは疑いもなく全首都となることである。」
「広場中心の美しい映画館」 たしかに広場はずっとあった。映画館もたくさんある。今はゴジラもいる。でもそれらが「美しい」と思われた時代が最初にあったのだと思うと感慨深い。
そして広場。日本人の都市計画家、都市研究者、都市社会史家などなどが必ず重視し続けてきた西洋の広場が、人々の自由闊達な活動と発言の場が、そこに実現されることを石川たちは夢見たのであろう。
さらに「夜の人通り」「山の手全体の家庭中心としての上品で健康な娯楽中心地」。それこそが石川の求めたものであろう。
どうやら1955年、昭和30年という高度経済成長の離陸期において、歌舞伎町はその後の姿とはまったく異なるものであったらしい。若々しく健全であった。
歌舞伎町が一大風俗街になるのは1970年代である。73年にオイルショックがあり、経済が変わったことが大きいらしい。「健全な娯楽」だけでは商売ができなくなった。テナントには風俗店が増えた。もちろん新宿は宿場町であり江戸時代から岡場所があった。戦後は闇市、赤線、青線の街でもある。そういう土壌があるのだから何かをきっかけに風俗の街に変わるのは必然だった。
私が大学生になって東京に来た頃、すでに歌舞伎町はとても怖い街であった。映画を観に歌舞伎町に行くだけでもビクビクした。80年代初頭、テレビの深夜番組ではピンク映画監督の山本晋也が毎日のように歌舞伎町の新手の風俗店を紹介していた。山の手全体の娯楽中心地ではあったが、家庭中心としての上品で健康な娯楽中心地とは到底言いがたかった。
2000年代、東京都の浄化作戦もあり、また近年はコロナもあり、「夜の街」への攻撃もあり、歌舞伎町は少しはおとなしくなったのかもしれない。若年人口が減り、男性は草食化し、あるいはヴァーチャルな世界に浸るようになったので、リアルな歌舞伎町には行ったことがない人が増えたとしても不思議ではない。
世界中から集まる観光客にとってはまだまだエキゾチックでエロチックな街であるが、おそらくこれまでとは少し異なる性格の繁華街に変わっていくのではないだろうか。
女性も楽しめるとか、一定の清潔さとか、おしゃれさとか、1950年代から60年代にあった文化発信能力とか、そういったものが改めて新宿で、歌舞伎町で成長していくのかもしれない。
注1:府立第五高女は、大正9年(1920年)、現在の新宿区歌舞伎町に創立された。同地は大村伯爵家の鴨場であったものが、峯島家の所有となり、池を埋め立てるなどして宅地となり、その後、尾張屋五代目の峯島喜代が、東京府に当時のお金で50万円を寄付するとともに同土地を永代無償で貸与し、第五高女を開校した。第五校舎は1945年(昭和20年) 4月14日未明の戦災により消失。その後1948年(昭和23年) 5月、校舎が中野区富士見町(現弥生町)へ移転された。
注2:「臨時建築制限令」は、1946(昭和21)年 5月29日に公布され、木造住宅について、料理店、劇場、映画館等、そして、床面積が50 ㎡を超える住宅、店舗、事務所の新築、増改築を原則として禁止し、これに違反した建築主、工事請負人、建築物の所有者を罰金等に処した。この勅令は、小規模の建築だけを許容することにより、建築資材の投入量に対する建築物の棟数を確保することにより住宅難への対応を図ろうとした。
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