定年したサラリーマン男性の真鶴移住
岡康治さんは大手自動車メーカーのデザイナー、プランナーだった。定年してゆっくりしながら少し社会貢献活動をしようと思っていた。
奥さんが相模湾が見える家に住みたいというので、30年住んだ港北ニュータウンのマンションから引越すことにした。だが鎌倉や逗子では高い。色々探しているうちに娘さんが結婚して小田原に住むことになった。だったらその近くもいいなと思って探し直すうちに真鶴に良い物件が見つかった。山の上から海を一望し日の出が見える絶好の部屋だ。
それまで真鶴のことはまったく知らなかった。まして真鶴に若い移住者が多く、素敵な店をたくさん開いていることなんて、全然聞いたこともなかった。毎日取れたての魚を食べて感動していただけだった。
岡さんが真鶴に移住したことを知った私は、真鶴には知り合いの建築家が建てた出版社兼宿泊施設の真鶴出版というのがあるから、行ってみたらと連絡した。
岡さんは25年ほど前、プランナーになった当初に上司から社会学の本を読むように言われた。図書館に行って社会学の本を読んだが、どうもピンとこなかった。
しかしある日「これだ!」という本を見つけた。それが私の『家族と郊外の社会学 〜第四山の手型ライフスタイルの研究』だった。郊外に住む、しかもこの本が「第四山の手」と定義している郊外に住む自分たち中流サラリーマンの家族と生活と心理が描かれていると思った。クルマは中流家庭に必須の道具であるから、この本を読むことで次の時代のクルマが発想できるのではないかと思えた。
岡さんは早速私に会いに来た。
多摩ニュータウンのパルテノン多摩で1999年1月から3月にかけて行われた、私も講師の一人だった連続講演会「郊外と現代社会」も聴講した。郊外というものが戦後日本社会の中でどう位置づけられたか、その中でクルマがどういう意味を持ったかがわかった気がした。クルマ、住宅、家電、外食産業、音楽、テレビドラマなどを通じてアメリカが日本人に圧倒的な影響を与えたことがわかった。日々のデザイン業務に追われていると、そんな歴史的経緯は考えない。だがプランナーという立場では、こうした広い視点や歴史的視点が必要なのだと感じた。
翌年岡さんたちプランナーチームは私のクライアントになった。まずは原宿、恵比寿、代官山、下北沢、吉祥寺、高円寺といった若者の流行発信地を歩き回った。当時の自動車メーカーや家電メーカーは、20代だった団塊ジュニアの嗜好をとらえてヒット商品を作ることに躍起になっていた。私には多くの企業がそうした相談に来ていた。
だが彼らはいつも会社の中で机上の空論を考えるだけであった。当時はインターネットはあまり普及していないから、雑誌を見たり、テレビのトレンド情報を見たりするくらいだった。実際に街に出て店を見たり商品を見たり人を見たりすることはなかった。
しかしそれでは肌感覚がわからない。実際に街の空気を吸うことが必須である。あれから私はどんな企業の場合でもまず街を歩いてもらったのである。
「街を感じること」で見えてくること
岡さんはそういう街歩きに特に刺激を受けていた。社会学の若者論を読んでもピンと来なかったが、実際に街に出て、若者がどんな服を着ているか、どんな場所で何をしているかを見ると、従来の若者像とはまったく異なるものが見えてきた。
自動車メーカーの社員は全体から見ればエリートである。大きな企業で安定した収入を得ている。何よりもクルマが好きだ。だが当時は若者のクルマ離れが言われ始めたころだった。カッコいいスポーツカーに憧れる若者は減っていた。日産キューブのような地味な四角い箱のようなクルマが団塊ジュニアに人気だった。どうしてそんなクルマが人気なのか、実は自動車メーカーの社員自身がわからずにいた。
だが街を歩くとそういう若者の気分がわかった。と同時に次の若者が何を欲しているかもなんとなくわかる気がした。
こうして岡さんと私は足かけ5年ほど付き合った。私が開いた現代社会論入門講座という講座に岡さんは毎年参加して、自分なりにまとめを発表するほど積極的に取り組んだ。
そういう岡さんだから、真鶴に引越して単に海を眺めて魚を食べて満足するはずはないと私は思った。何かその土地で新しい動きを見つけることを楽しめるはずだと。だから真鶴出版を紹介したのである。
3月31日に真鶴に取材に行くよと、2月中旬に私は岡さんにメールした。岡さんは早速調査を開始し、まず真鶴出版に行き、そこで紹介してもらった店や、雑誌などで紹介されている店を探訪し、綿密に31日の取材スケジュールを立ててくれた。ああ、やっぱり岡さんは昔と変わらないなと私は嬉しくなった。
岡さんは冒頭に書いたとおり、社会貢献、地域貢献をしたいと言う。4月1日から真鶴町役場の任用職員となり、会議室やホールなどの多目的施設の受付・管理業務を行う。個人的にも家族関係のテーマでコミュニティ活動をしていきたいという。
若者ばかりが話題になる地方移住だが、それだけでいいのか。たしかに定年後の高齢者が移住してきて、ただ海を見て暮らし、最後に病気になり要介護者になるだけでは、自治体にとっては負担である。
だが若者だけでは不足する知恵や経験を高齢者は持っているはずだ。地域に貢献する高齢者なら移住してきてもらったほうがいいし、高齢者にとっても若い世代と付き合い、友人になることが生きがいになるし、もしものときも心強いだろう。
若者だけの移住で良いのか
3年ぶりに訪れた真鶴には3年前と同じ空気があった。海辺の街独特なのかもしれないが、空気がどことなく湿度を含み、人を柔らかく包むような感触がある。取材をした移住者たちも、ふと真鶴を訪れて、その瞬間に真鶴が好きになり、すぐに移住を決めたという人たちばかりである。何とも表現しがたい魅力が真鶴にはあるらしい。
海、坂道、ミカンの木、花、気さくな住民、古い家、錆びた鉄。閉店した床屋や美容室やたばこ屋はとてもかわいい。すぐにでも誰かカフェか雑貨屋にしてほしい。町役場もレトロで味がある。コンビニはあるが大規模なスーパーやショッピングセンターはない。魚屋はたくさんあり、肉屋だってある。ただの田舎。ただの何もない街。でも若者が惹きつけられる。それは何故だろうと考えながら岡さんと真鶴駅から少し歩いて、真鶴ピザ食堂 KENNY (ケニー)に着いた。あいにくこの日はちょうど定休日だったが、岡さんはこの店を気に入っていて、町内の飲食店で一番利用しているらしい。
「月に何度かランチや子どもの帰省時にテイクアウトで持って帰ります。横浜にいた頃はそこまでピザを食べることはありませんでした。というのもケニーさんの名物が干物ピザで、地魚の鯖、うずわ、鯵などの干物のトッピングがあって、それがチーズに合うんです。その塩加減が抜群ではまりました。一般的なピザメニューもあり、どれも千円前後とお手頃なんです。あとは店の奥さんのお人柄ですね。ランチタイムの超忙しい時に行っても笑顔で接客してくれてとても気持ちいいです」と岡さんは言う。
「以前ここは別の食堂でしたが、その面影を残してあるので昔からこの街にあったみたいに見えるんです。店主の向井研介さんは真鶴に移住する前は吉祥寺のフレンチレストランの調理師でした。そういう街で培われたセンスをこのピザ店から感じましたね。レトロで懐かしい。生き生きしていてカッコいい。そう、吉祥寺といえば、三浦さんの街歩きで連れて行ってもらったのを思い出します」
古民家を改造してつくった出版社兼宿泊施設「真鶴出版」
そこから私たちは坂道を少し歩いて、真鶴出版に着いた。真鶴出版では來住(きし)友美さんが宿泊を担当しパートナーの川口瞬さんが出版活動をしている。2015年から真鶴に移住し、2019年に古民家を改造して今の出版社兼宿泊施設をつくった。
設計はtomito architecture(トミト・アーキテクチャー)。冨永美保と伊藤孝仁の二人を代表とする設計会社だ(現在伊藤はトミトから独立している)。トミトが横浜市東区につくったコミュニティプレイスcasaco(カサコ)の設計プロセスが載ったWeb記事を見て、建物のある環境やその周りで起きている出来事を設計に取り入れようという姿勢に惹かれ、彼らなら自分たちの思い描くものを実現できるとトミトに設計を依頼した。
建物の完成後、私はトミトの案内で2020年2月に初めて真鶴を訪れ、真鶴町に「美の基準」というまちづくりの規則・定款のようなものがあることを初めて知った。真鶴出版もその基準をよく咀嚼してつくられた。設計から完成までの経緯は『泊まれる出版社』(真鶴出版)に詳しい。とても感動的な本である。
当日岡さんと私の相手をしてくれたのは來住さん。3年ぶりにお会いしたのに、さっそく話が盛り上がった。さすがだ。
真鶴出版に泊まると、來住さんらが街案内をしてくれるのだが、それがきっかけでますます真鶴が好きになり何度も訪れたり移住を決めたりした人たちも少なくない。いわば來住さんらは真鶴町の観光大使のような存在だ。
來住さんは川口市のマンション育ち、その後横浜市のニュータウン(戸建て新興住宅地)に引っ越した。そのときの環境の変化が彼女の人生を変えたらしい。横浜のニュータウンは川口に比べてコミュニティが希薄だと感じられたのだ。良い大学に行き、良い会社に就職する、という人生コースが強く信じられていた。そういう雰囲気に違和感を感じた來住さんは、そうではない人生を歩んできた。その、現状での帰着点が真鶴出版だ。
岡さんは自動車会社のデザイナー、プランナーだったと私が紹介し、子どもたちにクルマのことやデザインのことを教えられるかもしれませんよ、と言うと、來住さんも乗り気になった。若い人に限らずいろいろな人が真鶴に来たり、住んだりして、多様な交流が生まれることを來住さんは望んでいるのだろう。
東京文京区から移住した店主のいる「道草書店」
真鶴出版を後にして、次は書店の道草書店に伺った。道草書店は、2022年6月にオープンした。店主の中村さん夫妻はそれまで東京の文京区に住んでいた。しかし子どもができて、子どもを育てる環境として東京はどうなのかと疑問を持ち始めていた。
あるときふとクルマで真鶴に行き、初めて降り立ったのが岩海岸で、その時感じた風や光の具合など、本当に降りた瞬間に、あ、ここにしよう!と決めた。
その時は真鶴がどんな町なのかも知らなかったが、家に帰りすぐに真鶴の家を探し、三ヶ月後には引っ越したという。
中村竹夫さんは文京区では整体師をしていた。パートナーの道子さんは会社勤め。それをやめて真鶴に来たときはまだ真鶴で何をするか決めていなかった。
街に移住してすぐにコロナ禍になり、繋がりも持てずにいたとき、街で声を掛けてくれる人たちが、声を揃えて「町に本屋がない」と嘆いていた。中村さん夫婦は、二人で完結できる生業を持ちたかったので、本屋がないなら自分たちでつくろうと考えた。
湯河原に私設こども文庫「こみち文庫」があったが、その閉鎖に伴い蔵書を3500冊寄贈いただいた。開業してしばらく移動本屋として真鶴の各地に出店した。
道草書店ではたんに本を売るだけでない。売り場から和室に上がると、そこにある絵本、児童書を中心に本を子どもたちが無料で読めるようになっている。本の量でいうと無料で読める本のほうが多いくらいだ。中二階は子どもの居場所になっている。
岡さんは中村さんがどこかの雑誌で語っていた言葉「子ども一人が育つには、一つの村が必要だ」という言葉にいたく感銘を受けていた。それはアフリカのことわざだという。
それに比べると今の日本一人の子どもを親二人だけで育てる。それでも育つが、何かが足りない。親とは違う大人との出会い、会話、大人の仕事を見る機会や手伝う機会、年齢の違う子どもとの集団の遊びなどなどが足りない。1960年代くらいまではそういう環境が大都市圏にもまだ残っていたが、しだいに子どもの生活空間と生活時間は個人化・細分化していった。ある子どもは塾へ、ある子どもは習い事へ、ある子どもはリトルリーグへなどなど。そして中学受験が当たり前になると、せっかくの地域の中の友達とも疎遠になる。まして地域の大人たちとの付き合いはほぼなくなる。岡さんも地方出身で、横浜で子どもを三人育てて、何か感じるところがあるのだろう。
他にも真鶴には本を置く店が増えているようだ。2020年11月開店した「珈琲店watermark(ウォーターマーク)」もそうだ。店主の栗原しをりさんは以前は倉敷に住んでいて、有名な古本屋「蟲書店」(むししょてん)の店主田中美穂さんとも知り合いらしく、蟲書店のセレクトした本も売っている。
栗原さんは北海道出身、仕事の都合で倉敷市で生活していた。真鶴出版で知った真鶴に来てみて、すぐに気に入った。
地元の人がスーパーやデパートではなく、肉屋や魚屋といった専門店で買い物をする姿を見て「昔ながらの風景が今も残り続けるこのまちなら、私がお店を開いても人が来てくれるかな」と思ったという。
「本と美容室」と真鶴のまちづくり条例「美の基準」
その名も「本と美容室」という美容室もある。2022年 9月開店。古い平屋の木造住宅を改装したもので窓からの眺めがとっても素敵だ。髪を切る部屋の奥の方に本がたくさん置かれた部屋がある。あまり見たことのないような本が並んでいる。窓からの光がちょうど良く入り、窓辺に座って本が読める。
美容師の高山紗季さんは原宿の美容室に勤めていたが、仕事は流れ作業で分業しており、1日に13人もカットだけをするという忙しい毎日に疑問を感じていた。
あるとき真鶴出版のことを知り、試しに宿泊したら真鶴が好きになり何度も訪れた。最初の滞在中に「出張美容室」の存在を知った。それはやはり原宿で活躍していた美容師の菅沼政斗さんによるものだった。菅沼さんは原宿の店を辞めて三浦市の三崎に移っていた。三崎では、出版社アタシ社を設立していたミネシンゴさんが蔵書室〈本と屯〉と美容室〈花暮美容室〉を経営していたが、ミネさんと菅沼さんが始めたプロジェクトが「本と美容室」だった(今後全国展開を目指すという)。
菅沼さんは真鶴には美容室を持っておらず、知り合いの紹介で出張美容師として月一度真鶴に来ていた。出張美容室は移住者にも真鶴の町の人にも大人気だった。高山さんは「こういう働き方がしたい」と関心を持った。 そして三崎の花暮美容室に予約を入れ、髪を切ってもらいながら、「私も美容師としての働き方を考えている」と話したところ菅沼さんが「いま、真鶴に店を作ろうとしているんだけど、興味ある?」と言ってくれた。それが「本と美容室」だった。
「本と美容室」では、原宿時代よりもゆったりと、お客さんとの世間話などをしながら仕事ができる。高山さんも横須賀から通っているので、通勤は少し大変だが、真鶴につけばお客様とゆっくりとした時間をすごせるので、自分にとってもとても贅沢で楽しいと言う。
それまで本はあまり読まなかったが、店にある本はお客さんにオススメするために読む。たとえば家族や命などをテーマにした写真集を髪を切りながら一緒に見て、そこからコミュニケーションが生まれたりするのも面白い。
美容室に来るということは、髪がきれいになるというだけでなく、美容師と話をしたりすることがストレス解消でもあるが、さらに本を読んだり、珈琲を味わったりすることでさらにトータルに癒やされる場所がつくられているようだった。
真鶴町には先述したように『美の基準』というまちづくり条例がある。これはアメリカの有名な建築家の名著『パタン・ランゲージ』をベースに真鶴なりの「良い町」の基準を定めたものだ。ここでいう「美」はbeauty というよりesthetic(感覚的)、sensuous(五感で感じる)といった意味合いだと考えたほうがいいだろうと私は思う。
『パタン・ランゲージ』は人間が過ごしやすい、歩いて楽しい、生き生きとできる、あるいは子どもが社会化しやすい場所の要素を分析したものであり、逆にその要素を構成することで新しい町にも過ごしやすさ、楽しさ、生き生きとした感覚をつくり出すことができるという一種のマニュアルである。マニュアルというと軽いが、バイブルであるといっても過言ではない。
『美の基準』は具体的には「場所」「格付け」「尺度」「調和」「材料」「装飾と芸術」「コミュニティ」「眺め」という分類がされ、その中に「聖なる所」「豊かな植生」「眺める場所」「海と触れる場所」「壁の感触」「戸と窓の大きさ」「ふさわしい色」「少し見える庭」「地場植物」「実のなる木」「自然な材料」「世帯の混合」「人の気配」「店先学校」「子供の家」「小さな人だまり」「街路に向かう窓」「座れる階段」「ふだんの緑」「さわれる花」「懐かしい町並」など69のキーワードから構成される。
『パタン・ランゲージ』を読んだことがある人ならニヤリとするだろう。それを真鶴流にアレンジして、真鶴の良さを、初めて訪れた人を虜にする理由を言語化しているのである。
真鶴の移住者たちから、これからの生き方を考える
こうしたたくさんの何気ないが心和む風景から真鶴の街は構成されている。しかしこうした風景は真鶴でなくても、日本中、世界中の昔ながらの町には必ず、姿かたちは異なっても本質的には同じようなものが存在しているはず(いたはず)である。
だが戦後の高度経済成長からバブルを経て現在でもまだ、そうした風景の破壊は続いている。なんたって神宮の杜の木を切って再開発しようというのだ。世田谷・杉並あたりの住宅地だって、過去30年で生け垣も庭もなくなり、のっぺりしたプレハブ住宅に建て替わり続けている。
どうして再開発するのか。再開発したら便利になるからいいだろうというのが表向きの理由。でもその裏には、再開発しなければ仕事がなくなる会社があり、社員がいる、という事情がある。簡単にいえば経済と歴史・文化・景観の対立。なかなか解決しない課題である。
経済至上主義に疲れた人たちにとって真鶴はユートピアだ。必要があれば都心にも近い。長年大企業で働いてきた岡さんのような人にとっては、長年の疲れを癒やす場所だろう。だが真鶴は一種の過疎地でもある。高齢化率は43.5%である。移住は多いがそれでも人口は過去5年で8%以上減っている。ほおっておいたらどうなるか、わからない。でも日本全体が今後毎年70〜100万人くらい人が減るのだ。開発すれば町の人口が増えるという単純な話ではない。
街の昔ながらの魅力を残しているからこそ移住者も増える、観光客も増える、そういう方向性が模索されねばならない。さらにいえば、ふと立ち寄りたくなる街というものも、思いのほか大事かも知れない。今回真鶴移住者に聞いた限りでも、ふと立ち寄って真鶴を好きになっている。移住しなくても何度か訪れるという人もいる。私も年に一度は行ってみたいと思う。
私は東京を中心にいろいろな街に出かけるが、高円寺は銭湯と小料理屋と古着屋が目当てで週に1、2度行く。ふと立ち寄ることはないが、高円寺は私にとってちょっとした気分転換の場所で、体と心をもみほぐしてくれる。吉祥寺や阿佐ヶ谷は何かの目的があって行くことが多いが、ちょっと様子を見に行くかと思ってぶらぶらすることもある。コロナでずっと家にいたときは仕事が終わるとストレス解消に井の頭公園まで行った。
住んでいる街、働いている街以外に、なんとなく出かけてみたい街というのは、たしかにある。ものすごく仲が良いというわけでなくても、久しぶりに顔でも見るかというくらいの友達がいるのと同じで、たまに出かけたくなる街というのもあるのだろう。いつも一緒の仲良しだけでは気づかないことに気づく、知らないことを知るという意味もある。毎週行くほど常連ではないが、3ヵ月に一度くらいは行きたい居酒屋というのもある。そういうくらいの街というのも必要だ。
役所用語だと交流人口の一つということになるが、観光ではない。伊豆や箱根などへの観光ではなく、お金もあまりかけないが、なんとなくたまに出かけたくなる街。そう思ってくれる人がたくさんいる地域というのもこれからは大事だろう。
そういう視点からも真鶴出版が行っている宿泊者のための街歩きはとても意味がある。単なる観光名所案内ではなく、真鶴の日常生活を案内してくれる。もちろん「美の基準」から見た真鶴も紹介してくれる。
真鶴のことを語り出すと止まらない來住さんを見ていて、私は彼女が、彼女が育ったニュータウンの街についても同じように語る日がくれば面白いのにと思った。特に彼女が違和感を感じたニュータウンは、きっと今は年老いて、あと10年もしたら真鶴のように超高齢化しているだろう。かつて良い会社、良い学校、良い家族という基準で縛られていた郊外のニュータウンも、これからは別の基準が必要だろう。そのとき來住さんのような街の解説者が必要になると思った。
そして、岡さんは定年後に単に趣味や娯楽だけで生きるのではなく、68歳になる今年もまた町役場で働いて、地域活動もして、街のことももっと知っていって、おそらくすぐに街案内をできるようになるだろう。そういう定年後は楽しそうだ。
真鶴で今回見た事例は、若者にとってもシニアにとっても新しい生き方の始まりを感じさせる有意義なものだった。
注・3月31日は曇り空であり、1日だけの取材だったので、写真は3年前に撮影したものも含まれます。
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