権力の正統性を象徴する、帝国の中心としてのローマ
建築史家・倉方俊輔さん(大阪公立大学教授)が建築を通して世界の都市を語るロングランセミナー(Club Tap主催)。今回は、西欧建築の源流のひとつ、ローマを取り上げる。倉方さんは「ローマはどこかの国の一都市というよりも、ローマというひとつの特別な存在です」と語る。
古代ローマは古代ギリシャと並べて語られることも多く、ローマの文化はギリシャから多大な影響を受けているといわれる。確かに、古代ローマの建築は、古代ギリシャ建築の様式を受け継いでいる。
「もっとも、ギリシャは小さな都市国家の集まりで、ローマは世界帝国です。前提条件が違いますから、建築の性格もおのずと異なります。建築技術もローマではだいぶ進み、部材の大きさや構造の安定感・堅牢さにかなり差があります」。
ローマという地名は、都市の名前から、やがて“正統”や“中心”を意味するようになっていく。それは、9〜10世紀に中欧に建設された国家が「神聖ローマ帝国」を名乗ったことにも象徴されるだろう。
「建築におけるルネサンスの発祥はフィレンツェですが、その中心地は16世紀にはローマに移ります。さらに宗教改革後、ローマはカトリックの総本山として、プロテスタントに対して正統を主張する拠点となり、17世紀にバロックが華開く。そして20世紀の世界的なムーブメントのひとつであるファシズムもまた、ローマから生まれました。現代のローマの姿は、第一次世界大戦後にムッソリーニによって大きな改変が加えられたものです」。
建築皇帝ハドリアヌス帝のパンテオンとサンタンジェロ城
2世紀初頭に完成したパンテオンは、「建築皇帝」と呼ばれるハドリアヌス帝がつくらせた多神教の神殿だ。古代ギリシャの神殿のような列柱とペディメントで構成された入り口の奥に、正円のドーム天井を戴く空間があり、その頂部に丸い穴が空いている。
「建築史の本には必ず載っている有名な建物ですが、知識としては分かっていても、実際に現地に行ってみると驚きがあるものです。頂部の穴は空に抜けていて、外の空気や光、雨がダイレクトに入ってくる。空気が閉じていないという点では建築なのかと思いますが、建設することを通じて、確かに自然な外部とは違う時間が流れています。太陽の運行や気候の変化が増幅されて体感され、堂内にいる人同士の一体感が醸し出される。ローマの建設力と建築力を実感させられます」。
ハドリアヌス帝が自らの霊廟として建設を命じ、彼の死後に完成したのがサンタンジェロ城だ。中世に要塞に改造され、さらにルネサンス期には城砦に、その後牢獄や避難所としても使われた。イタリアにおける「ルネサンスの終わりの始まり」といわれる16世紀のローマ攻掠の際には、ローマ教皇クレメンス7世がここに逃げ込み、敗北に至っている。
「時代を追って改変が重ねられ、さまざまに使われることによって歴史が蓄積してきた、まさにローマそのものを象徴するような建築です」。
ルネサンスからマニエリスムへ、変遷を見せるローマのパラッツォ
ローマに残るパラッツォには、ルネサンス建築の変遷を見ることができる。
15世紀末から16世紀初頭にかけて建てられた「パラッツォ・デッラ・カンチェッレリーア」には「ルネサンス発祥の地フィレンツェの影響が色濃く感じられます」と倉方さん。
「外壁には整然とオーダーが貼り付けられ、秩序と品格を感じます。都市に面した部分は1階が石積み、2階以上にオーダーを用いた厳格な表情ですが、内部は中庭に面して列柱の廊下が巡り、また別の秩序を感じさせる。住居でもあり集会所でもあるパラッツォの形式はフィレンツェで確立されたものです。柱の上にアーチを載せ、アーチの間をメダイヨンで飾る。この組み合わせは、フィレンツェの建築家ブルネレスキがつくり出したもの。それがローマに伝わったんですね」。
16世紀に何期かに分けて建てられた「パラッツォ・ファルネーゼ」には、ミケランジェロも建築家としてかかわっている。
「16世紀ローマを代表するパラッツォで、パラッツォ・デッラ・カンチェッレリーアと比べると技巧的です。1階は石積みの感じを強調し、2階の窓には櫛形のペディメントと三角形のペディメントを交互に並べ、3階は窓がアーチ型になっている。各階の意匠を明確に変えており、盛期ルネサンス建築の見本のような建築です。こうした様式が、やがてフランスに輸入されて城館や宮殿に適用されるわけです」
そう考えると、現在のパラッツォ・ファルネーゼがフランス大使館として使われているのも象徴的だ。
「同じく16世紀に建てられたパラッツォ・マッシモは、マニエリスムに位置付けられます。マニエリスムとは手法や技巧といった意味を持つ言葉『マニエラ』に由来し、普遍性から逸脱した魅力があります」。
パラッツォ・マッシモは道路のカーブに沿って建っており、正面の円柱が左右対称でありつつ不均等に並ぶ。2階の窓は縦長だが、その上にはやや横長の小さな窓が、額縁のような装飾に縁取られている。
「典型的なパラッツォでは窓が秩序を持って並んでいますが、ここでは壁に負けて所在なく、ある種の浮遊感を感じさせます。カーブする敷地の形状に合わせて、あたかもそこに中心があるかのように見せている。七つの丘の上に建設されたローマは坂が多く、複雑な地形に対応させて設計しなければなりません。その中で秩序を組み立てる必要性が、マニエリスムやのちのバロックの背景にあります」。
ミケランジェロの天才を伝えるカンピドリオ広場
カンピドリオの丘は、古代ローマの宗教・政治的中心だったが、ローマ帝国の崩壊後、長く荒廃していた。その再整備のデザインに携わったのがミケランジェロだ。実際に建設されたのは死後のことだが、広場と3つの建物のデザインは彼の原案に拠る。楕円の文様で舗装された広場が特徴的だ。
「丘の上なので、そもそも平地の面積が限られているところに、規則性を与えるために描かれたのがこの楕円です。2つの中心を持つ楕円は、周囲に多くの接線がつくれ、軸線が強調される図形です。ルネサンスを象徴する図形が円だとすれば、楕円はバロックを代表します。その楕円を最初に本格的に用いたのがミケランジェロでした」。
さらに、広場を囲む建物のオーダーが二層を貫いていることも大きな特徴だ。これは「ジャイアントオーダー」と呼ばれ、やはりミケランジェロの発明である。
「柱はふつう階ごとに建てられるわけですが、それでは都市空間と対抗できるほどの骨格を与えることはできない。カンピドリオ広場の建築は、ジャイアントオーダーと通常のオーダーが入れ子のようになって並列しています。それが建築に深みを与える効果ももたらしています」。
芸術の力を総動員した都市的な建築、サン・ピエトロ大聖堂
「サン・ピエトロ大聖堂」は、イエス・キリストの最初の弟子である聖ペテロ(サン・ピエトロ)の墓の上に建てられたとされる。初めローマ皇帝コンスタンティヌス1世が建設し、15世紀半ばから修復が取り沙汰されていた。16世紀初頭に法王ユリウス2世が建て替えを決断、その後、ブラマンテ、ラファエロ、サンガッロなどが設計にかかわってきたが、16世紀半ばに主任建築家に就任したのがミケランジェロだ。
「ミケランジェロは当初、集中式の十字型平面を考えていました。しかし、それでは収容人数が限られるので、次世代の建築家が身廊を付け足し、バシリカ式に改変しています。その後もさまざまな建築家が参画して拡張していく。サン・ピエトロ大聖堂は単なる教会というより、ひとつの都市のように壮麗で巨大です」。
ミケランジェロ以後にサン・ピエトロ大聖堂にかかわった主要な建築家の一人が、彫刻家としても知られるベルニーニだ。大聖堂の前に楕円形の列柱回廊に囲まれた広場を設け、内陣に巨大な天蓋を制作した。
「聖堂の内部は膨大な数の彫刻や天井画・壁画で飾られ、芸術の力を総動員して人の心に迫ってくるようです。象徴的な何かによって信仰を伝えるというよりは、人の直感に訴える視覚体験をもたらす。反宗教改革の時代に、カトリックという宗教そのものの存亡を懸けた、巨大な意思がつくらせた建築であることを実感させられます」。
歴史を重ねたローマの街路とバロック教会
ベルニーニと同世代のバロックを代表する建築家に、ピエトロ・ダ・コルトナとボッロミーニがいる。
ピエトロ・ダ・コルトナの「サンタ・マリア・デッラ・パーチェ聖堂」は本格的なバロック建築の嚆矢とされる。15世紀に建てられた聖堂にファサードを追加したもので、これによって入り組んだ街路の中に劇的な秩序をつくり出している。
「通りに面してポーチを張り出し、そこに2本セットの柱を左右に配置して中心性を強調しています。このポーチを包むように湾曲させた両翼は一部が隣の建物に接続していたりして、まるでだまし絵のようにして対称性を演出しています。三角形の中にくし形を入れ込んだペディメントは、その後バロックの定型のモチーフとなります」。
この半円形のポーチと湾曲した両翼の構成を採り入れたのが、ベルニーニの「サンタンドレア・アル・クイリナーレ聖堂」だ。通りに面して両側から腕を伸ばすように中心性を強調し、華麗な彫刻で飾ったポーチを設けている。楕円形の建築空間の上に楕円形のドームを載せた、比較的こぢんまりとした教会だ。
「ベルニーニは、自らがつくった聖堂のうち、これが一番気に入っていると語ったそうです。中に入ると楕円の短手方向正面に祭壇があり、とても近くて親密な印象を与えます。ベルニーニは今にも動き出しそうな生き生きとした彫刻の名手で、教会内部もたくさんの彫刻で飾られています。特に天井周りで遊ぶ天使たちの彫像は、それぞれポーズが違っていて実に愛らしい。バロック特有の総合性があらわれた、建築と彫刻が戯れる空間です」。
ベルニーニのライバルとされるボッロミーニは、性格も対極にあったといわれる。知的でバランスが取れたベルニーニに対し、ボッロミーニは偏屈で変わり者だったらしい。彫刻や絵画は手掛けず、建築だけに関心を向けた。その代表作が「サン・カルロ・アッレ・クァットロ・フォンターネ聖堂」だ。
「四つ角に建つ小さな教会で、隅切り部分に塔を配しています。ファサードに並ぶ柱は1階と2階で向きを変えながらも、うまくバランスを取って整合させている。内部は楕円を基本にアーチを立体的に組み合わせた、複雑な空間です。幾何学の理性によって幻想的な造形を生み出している。ボッロミーニの奇才が発揮されています」。
イタリア統一から戦後まで、近現代史を象徴する2つの建築
時代はここで一気に近代に飛ぶ。イタリアが統一国家となったのは、19世紀になってからのことだ。初代国王は、サルデーニャ王国のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世。
サルデーニャ王国はウィーン体制時、トリノやジェノバを擁する現在のピエモンテ州を中心に、サルデーニャ島までを領土に含んでいた。ウィーン体制崩壊後にガリバルディがサルデーニャ王国軍に従軍、紆余曲折を経てシチリア、南イタリアを併合し、1861年にトリノを首都にイタリア王国が成立した。このとき、ローマはまだ領土に含まれていない。イタリア王国が教皇国家の領土だったローマを併合するのは1870年のことで、翌年、首都をローマに移している。
「ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂」は王の没後に計画され、1885年に礎石が置かれた。落成式が行われたのはそれから26年後の1911年、イタリア統一50周年のときだ。設計者のジュゼッペ・サッコーニはすでに亡く、複数の建築家・彫刻家が引き継いでいる。第一次世界大戦後には無名戦士の墓所となり、第二次世界大戦末期には地下が防空壕に使われた。
「この建築は、建設当時から毀誉褒貶にさらされました。白い大理石でつくられていて、まるでデコレーションケーキだ、様式が統一を欠いている、といったように。ただし、傾斜地の地形をうまく生かした構築物であることは確かです。左右対称に列柱を並べて新古典主義的な秩序を示す一方で、両端はカーブしてバロック的でもあります。イタリアはローマ帝国の中心であり、バロックの中心でもあった。そう考えると、様々な要素を混ぜ合わせることで、イタリアの歴史を統合しようとしたといえます」。
ローマの玄関口、テルミニ駅は第二次世界大戦中に計画・建設が進められ、戦後になって、改めて選ばれた別の建築家が完成させた。ファサードやコンコースは戦後の、アーチが並ぶ背後のウイングは戦中の建物だ。
「イタリアのモダニズム建築は、アメリカともドイツとも異なる雰囲気を備えています。抽象的・幾何学的な形態なのだけれども、そこには単なる機能性だけではなく、人の心に訴えかけるような叙情性がある。戦時中に建設された部分は、古典主義を抽象化した、いかにもファシズム時代らしいデザインです。工業と伝統という当時の国力の象徴を融合し、誇示しようとするものです」。
「皇帝の時代から、教皇、国王、ファシズムと移り変わる権力が、過去の遺産を利用しながら自らの正統性を示していく。そこに建築は加担しながら、絡め取られない部分も有している。建築の持つ力と権力との関係を考えさせられるのが、ローマという土地です」。
■取材協力:ClubTap https://www.facebook.com/CLUB-TAP-896976620692306/
参考文献
長尾重武『建築巡礼5 ミケランジェロのローマ』丸善
長尾重武『建築巡礼26 ローマ-バロックの劇場都市』丸善
渡辺真弓『イタリア建築紀行 ゲーテと旅する7つの都市』平凡社
北村暁夫『イタリア史10講』岩波新書
VIVE Vittoriano e Palazzo Venezia https://vive.beniculturali.it/
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