「鬼の副長」土方歳三を知る旅へ
もし、あの偉人が生きていたならば――。
歴史人物についての本をたくさん書いてきたので、そんな想像を巡らせることが少なくない。なかには「絶対に自分とは合わないだろうな」と思う人物もいる。新選組の副長、土方歳三はその一人だ。
その理由は、ズバリ「怖いから」。そもそも新選組というだけで恐ろしい。なにしろ、血気盛んな幕末の志士たちを取り締まるために結成された、選りすぐりの剣士たちである。
坂本龍馬なんて京都でばったり新選組に会ったときに、妻を置いて逃げているほどだ。妻のおりょう自身が後年に語っていることなので、本当なのだろう。あとで妻に怒られると、龍馬は「奴らに引っかかると、どうせ刀を抜かないわけにはいかないから、それが面倒で隠れたのだ」と弁解したらしい。絶対に言い訳だと思う……。
しかも新選組は、たとえ身内でも容赦することはない。結成から鳥羽伏見の戦いの直前までの5年間で、新選組の隊士は45人が死亡している。その大半が仲間内での斬り合いや切腹によるものだ。
なかでも、副長を務めた歳三は、新選組の厳正すぎる規律を厳守し、局長の近藤勇よりも厳しかったという。違反した者を率先して処罰したため、歳三はこう呼んで恐れられた。
「鬼の副長」
絶対、ダメだ。私のような軟弱者はすぐに目をつけられて、斬られてしまうことだろう。しかし、どうも物書き稼業は、怖いものみたさという習性がある。せっかく偉人スポットを巡るならば、自分と合いそうにない人物のスポットからあえて訪ねてみようではないか。
歳三も使った?重要拠点だった「万願寺の渡し」
歳三のことを知りたいならば、やはり生誕地に赴くのがよかろう。そう考えた私は多摩モノレールの「万願寺」駅に降り立った。なんと駅名の横に「土方歳三 生誕の地」と書かれているではないか! こんなの滅多に見たことがないぞ。偉人研究家の血が騒ぐ。
歳三は1835年5月31日(天保6年5月5日)、武蔵国多摩郡石田村(現・東京都日野市石田)の豪農の家に、10人兄弟の末っ子として生まれた。歳三の生家跡が万願寺駅近くにあり、「土方歳三資料館」が開設されている。
万願寺はそれほど広く知られていない地名かもしれない。だが、かつては重要拠点であり、江戸で将棋を指す人はしばしば、こんな言葉を使ったという。
「王手は日野の万願寺」
この万願寺の地には渡船場があり、多摩川を渡るときに重宝された。軍事的に大きな意味を持っていたため、将棋で勝敗を決する「王手」が引き合いに出されたようだ。
かくいう歳三も、この万願寺の渡しを使った可能性が高い。歳三は天然理心流に入門した翌年、24歳頃から親戚で書家の本田覚庵をたびたび訪問。漢学や書道を習った。歳三の生家から本田覚庵が住む下谷保村(現在の国立市谷保)へと向かうには、多摩川を渡らなければならない。近藤勇も同じく本田覚庵に学んでいるので、船上で多摩川の風景を眺めながら、二人で将来について語りあったのではないだろうか。
となれば、私も追体験をしたかったが、日野橋ができたことで、万願寺の渡しは1926(大正15)年に廃止されている。うーむ、残念。
そうして江戸時代の万願寺に思いを馳せながら、閑静な住宅街を歩くこと5分。土方歳三資料館に近づいてきた……のだが、私は目を疑った。すさまじい長蛇の列である。
イケメン歳三はモテ自慢の手紙を出していた
もちろん、歳三には熱心なファンが多いことは、百も承知だ。以前、書籍で歳三のお茶目な一面を書こうとしたら、担当編集者から「ファンが怖いのでやめておきましょう……」と原稿を割愛されたこともあるくらいである。
この記事は大丈夫なのか、やや不安になってきたが、これほど多くのファンが資料館に殺到しているとは想像以上だった。でも、それだけの人気を誇っているのは、よく考えれば当然のことである。歳三は見ての通りのイケメンだし、剣の腕も立つ。実際のところ、女性によくモテたらしい。
1863(文久3)年、ちょうど池田屋事件や「禁門の変」を経て、新選組が絶頂期にあった頃のことだ。歳三は同門の小島鹿之助にこんな手紙を書いている。
「私のことを報国の有志として婦人の慕うことといったら、筆舌に尽くし難いほどで……」
筆舌にし難いほどモテてるとは一体、どんな状態なんだろうか。しかも、こうして死後150年以上経った今でも、新たなファンを獲得している。なんて恵まれた男なんだ、歳三……。
そんな嫉妬を抱きつつ、老若男女の歳三ファンとともに並んでいると、資料館の女性スタッフが現れた。長蛇の列の最後尾までわざわざ足を運びながら、一人ひとりに声をかけている。
「お暑いなか、お待たせしてすみません。ご気分の悪くなった方がいらしたら、おっしゃってくださいね」
なんという気遣い……と、よく見れば、館長の土方愛さんではないか! 土方愛さんは、土方歳三の兄から数えて6代目の子孫にあたる。現在は、土方歳三資料館館長として、史料の研究や保存、公開に携わっていると、新聞記事で読んだばかりだ。
よく考えれば、この資料館はほかの多くの歴史的な施設とは一線を画している。歳三が実際に育った場所で、資料が展示されているのだ。土方家の空気を感じながら、ゆかりの品々を見学できる。そりゃあ、ファンがこれほど詰めかけるわけだ。
矢竹に込めた若き歳三の思い
そうして1時間ばかり並び、館内に入ろうとすると、庭に細い矢竹が生茂っている。ぶら下げられた木札には何やら文字が書かれている。
「将来我武人となりて名を天下に掲げん」
どういうことなのか、館長の土方愛さんが教えてくれた。
「歳三が17歳か18歳のころに植えた矢竹です。植えながら『立派な武人になるぞ』と宣言したと伝えられています」
そうなのだ。剣の達人でありながら、歳三は武士ではない。農民の家に生まれた。それは局長の勇も同じだ。だからこそ、二人は武士に憧れて稽古に明け暮れた。くすぶっていた彼らが見つけた場所が、新選組だった。
また、資料館の入り口にある梁にも説明書きがあり、母屋を支えてきた大黒柱が使われているという。なんでも、歳三少年は風呂上りに大黒柱に相撲の張り手をして、体を鍛えたのだとか。それだけ武人になりたかったのだろう。
そうして鍛錬を重ねながら、夢が叶うその日まで、歳三は家業を継ぎ、薬の行商を行っていた。薬箱を担いで、400件以上の客先を配達して回ったというから、足腰も鍛えられたことだろう。資料館には、その薬箱も展示されている。
思えば、土方は10人兄弟の末っ子である。長男からは程遠く、家を継ぐこともできない。将来が全く見えなかったといっても言い過ぎではない。
だからこそ、なんとか現状を打破したい……そう切実に願ったに違いない。
竹を植えながら、武人になることを宣言し、日々の修行を欠かさなかった土方。不安のなか、それでも前に進もうと努力していたと思うと、なんだか急に歳三のことを身近に感じてきた。
不安のなかでも歳三は意思を貫いた
資料館では、土方が稽古で使った木刀、そして愛刀である和泉守(いずみのかみ)兼定など、約70点もの貴重な品々を見ることができる。
しかし、この資料館は2022年11月末をもっていったん長期休館に入ることが決まっている。来場客が少ないからではない。その逆で、あまりに多くの人が訪れるため、土方愛さん個人での運営に限界が来たからである。当初は十数人だった来館者が、全国で知られたことで、多い日で1日に1,000人も訪れるようになったとか。
今日のこの行列を見ても、確かに運営の負担は相当なものだろう。惜しまれつつ閉館するという言葉がまさにしっくりくる。
いやはや、すさまじい人気だが、歳三の熱い思いに触れた今なら、人気の理由がイケメンで腕が立つからだけではないとわかる。歳三は、恵まれた男なんかではなかった。不遇な境遇だったからこそ、「どうしても武士になりたい」と日々努力を重ねて、新選組の副長にまで上り詰めたのだ。
激動の生涯を送った土方歳三
おのずと、私の足は石田寺へと向かった。東京都日野市石田1丁目にある真言宗の寺で、境内には、歳三が眠る墓がある。5月11日の命日だけではなく、毎日のようにファンが訪れて、献花が絶えないという。
新選組の副長として、全国に名を轟かせた土方歳三。幼いころからの夢だった立派な武人となり、最期の最期まで、幕府のために戦い続けて、函館戦争で戦死する。そのほとばしる情熱が時代を超えて人を引きつけるのだろう。
歳三はこの日野の地で生まれて、そして今、このお墓に眠っている。
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