温泉の歴史、湯治の歴史
湯治とは、古くから日本で行われてきた療養の手段
温泉は、古くは『伊予国風土記(※)』や『日本書紀』といった奈良時代の文献で紹介されるなど、1300年以上の歴史がある。病に倒れた少彦名命が温泉に浸かるとたちまち回復したと記されるように、病気や傷を癒やす存在と認識されていた。天皇が温泉に行幸するなど、上流階級の人々が頼ったとされる温泉は、街道の発達などを経て、次第に庶民にも身近な存在となる。武士が戦の後に傷を癒やしたり、農民が休耕期に骨休みに訪れたり、温泉は長きにわたり治療や養生の手段として親しまれた。この“湯で治す”ことを「湯治」といい、移動が制限された江戸時代にも、湯治か伊勢詣りが理由であれば越境できたという。
※鎌倉時代に卜部兼方が編纂した『釈日本紀(伊予国風土記逸文)』による。現伝していない『伊予国風土記』の文章が引用されている。
温泉が観光化されたのは約70年前
時代は下り、日本は高度経済成長期に突入。交通網の発達を背景とした団体旅行や慰安旅行の興隆に加え、1980年代には女性を中心に温泉観光ブームが起こり、温泉は観光の一大コンテンツへと変化する。1泊2日や2泊3日の行程に組み込まれた温泉は、旅行者に一時の休息や非日常をもたらす一方、長期滞在による湯治というかつての温泉の目的は徐々に失われていった。今日私たちが知っている「観光地としての温泉」は、1300年を超える温泉の歴史のうち、たった70年間ほどの姿なのだ。
“モーレツ社員”から、湯治で心身ともに健康な暮らしへ
2020年2月、日本有数の温泉地・大分県別府市に、「湯治ぐらし」というシェアハウスがオープンした。運営者の菅野静さんは、大阪・上海・東京と、広告業界の第一線で活躍。地方創生コンサルティング会社勤務を経て、2019年に大分県別府市へ移住・独立した。会社員時代、ご褒美として頻繁に温泉へ行くようになり、各地の温泉を訪ねる中で湯治を知ったという。
「バリバリ働いた後の温泉は、疲れ切った体に元気を取り戻す栄養ドリンクのような感覚がありました。気持ちも穏やかに整えてくれるんです。最初はそれが何かわかりませんでしたが、あるとき“湯治”という言葉を聞き、『私がやっているのは“湯治”なんだ!』と気づいたのです」(菅野さん)
みるみる湯治の魅力に引き込まれていった菅野さん。新たな暮らしの地に、歴史的な湯治場である別府の鉄輪(かんなわ)温泉を選んだ。
「家を探す中で、3階建ての大きな一戸建てに出合い、ここに住みたいと思いました。しかしながら大きすぎて持て余すので、じゃあシェアハウスにしようと」(菅野さん)
こうして始まったのが、湯治を暮らしに取り入れるシェアハウス「湯治ぐらし」だ。今回は湯治ぐらしの運営のほか、湯治文化再興のために活動する菅野さんに、湯治の魅力とその活用方法、そして湯治ぐらしでの暮らしを聞いた。
湯治とは?
湯治の効果
「湯治は、日本古来の養生法だと捉えています。人間が本来持っている免疫システムを向上させようとする東洋医学でもあり、また、自然に囲まれ大地の恵みを肌で感じることで、精神的な利益もあると考えています。温泉を活用した自身の心身を癒やす『リトリート』ですね」(菅野さん)
温泉療法の効果は、狭義では温熱作用や物理作用、含有物質による化学・薬理作用と、飲泉による生体反応効果があるが、広義には海岸や高地といった温泉地の環境による作用や、日常生活を離れてリラックスする転地効果もあるとされる。明治時代に日本に教師として招かれた外国人で、蒙古斑の命名などで知られる医師のエルヴイン・フォン・ベルツ博士は、温泉の医学的効用を著書『日本鉱泉論』で発表し、特に、美しい自然や空気といった周辺環境を含む、その予防効果について取り上げ、対処療法的な西洋医学との融合を説いた。
日本にある10種類の泉質
日本の温泉には、10種類の泉質がある。泉質によって期待できる効能や、色や匂い、肌ざわりも異なるとされる。それぞれ見てみよう。
1. 単純温泉
成分(溶存物質総量)が少なめでマイルドな温泉。肌への刺激が少なく、ゆったり長湯もしやすい。
2. 塩化物泉
塩分が主成分で、湯冷めしにくい温泉。湯に浸かることで切り傷や皮膚乾燥症に適応し、飲むことで萎縮性胃炎や便秘などに適応するという。
3. 炭酸水素塩泉
⽪膚の⾓質を軟化させ、肌がつるつるになるという。浴用の適応症は切り傷や皮膚乾燥症、飲用の適応症は逆流性食道炎や胃・十二指腸潰瘍、痛風など。湯はぬるぬるしている。
4. 硫酸塩泉
武⼠は好んでこの温泉を「隠し湯」にしていたという。適応症は、浴用で切り傷や皮膚乾燥、飲用で胆道系機能障や便秘など。
5. 硫黄泉
硫化⽔素を含んでいる硫化水素型硫黄泉は、卵の腐ったような匂いがする。硫化水素が含まれないものもあり、色もさまざま。浴用ではアトピー性皮膚炎や慢性湿疹、皮膚化膿症に適応。飲用では糖尿病や高コレステロール血症に適応する。
6. 酸性泉
⼊浴すると肌がピリピリし刺激を感じる。特徴的な適応症に表皮化膿症がある。いわゆる水虫などだ。
7. 含鉄泉
鉄を含むので空気に触れると酸化して⾚褐⾊になる温泉。飲むことで、鉄欠乏性貧血に適応する。
8. ⼆酸化炭素泉
⽪膚の表⾯に気泡がつく。⼆酸化炭素を体から排出しようとする作用で、⾎⾏促進・代謝促進につながるという。
9. 含よう素泉
⾮⽕⼭性温泉に多く見られ、うがい薬のようなヨード臭がする。飲むと総コレステロールを抑制するとされる。
10. 放射能泉
微量の放射能性物質ラドンを含み、炎症に効果的だという。
多様な泉質を擁する別府ならではの機能温泉浴
源泉数日本一を誇る別府市内には、前述した10種類の泉質のうち7種類が存在し、それらも一つひとつ成分が微妙に異なるという。
「シャンプーとリンスのように、温泉も泉質の組み合わせや入浴順序によって、さまざまな目的を持たせられます。例えば、酸性硫黄泉で皮脂をピーリングした後に、弱酸性塩化物泉で保湿する、といったことです。多様な泉質の温泉を持つ別府は、こうした機能温泉浴に向いているといえ、ひとりひとりに合った温泉の活用が可能だと思います。温泉をカスタマイズして、パーソナライズして、組み合わせていくと面白いですよ!」(菅野さん)
こうした湯治の効果の多くは、長い間経験則で語り継がれてきた。しかし、科学的な証左が求められる医学の世界において、そのエビデンスは十分ではないという。2021年からは、九州大学を中心としたグループが、腸内細菌叢のゲノム解析によって、温泉入浴による療養効果の研究を進めており、同年12月の中間報告では、男性は単純温泉において痛風のリスクが16.8%、過敏性腸症候群のリスクが13.0%下がり、硫黄泉において肝臓病のリスクが10.25%下がったと発表。女性では単純温泉で、喘息のリスクが31.3%、肥満のリスクが18.0%下がったという。
湯治による、3つの健康を実現するシェアハウス
菅野さんは湯治で得られるものに、疾病リスク軽減などの「身体的健康」、心のリフレッシュや精神衛生向上による「精神的健康」、モチベーションやクリエイティビティ向上による「社会的健康」の、3つの健康があると考え、運営するシェアハウス「湯治ぐらし」では、それらの実現を目指した暮らしを実践している。
「今の時代の湯治は、体だけでなく心もケアしてくれるものとして捉え直しています。湯治ぐらしでは“自分のからだとこころを見つめ直す静かな時間”と定義して、そんな暮らしを楽しんでいます」(菅野さん)
湯治のある暮らしとは、どのような生活なのだろうか。2021年3月にオープンした3軒目のシェアハウス「湯治ぐらし3」の入居者、岡本裕志さんと近藤帝さんにお話を聞いた。
「東京の家に加え、2拠点目として住んでいますが、気がつけばすっかり別府にいる時間のほうが長くなりました。学生時代にも別府に住んでおり、そのときは毎日温泉に入るということはありませんでしたが、今は家に温泉が付いているので、毎日温泉に入っています。実は以前は、睡眠が浅くて悩んでいました。しかし“湯治ぐらし”を始めてから眠りの質がすごくよくなったのを感じています」と岡本さん。
フリーランスとして働いている岡本さん。働き詰めで徹夜をすることも多かったそうだが、毎日決まった時間帯に温泉に入るようになり、規則正しい生活を送れるようになったとか。
「あとはプレッシャーが格段に少なくなりました。東京だと周囲に情報や関係者があふれていて、常に仕事が頭から離れませんでした。しかし別府ではそういったことがありません。定期的に東京に行くので、情報はその時にまとめて取りに行くようにしており、メリハリがついたように思います」(岡本さん)
すかさず横から「これがベルツ博士が推奨していた温泉の“転地効果”ですね!(笑)」と菅野さん。
一方の近藤さんは。所属する会社のワーケーションプログラムで“湯治ぐらし”に参加することになったという。
「私は来たくて来たわけではありません(笑)。東京で事足りているのに、わざわざ何しに行くの?と思っていました。それにずっと東京に住んでいた私は、地方って閉鎖的なイメージがあると思っていたんです。でも来てみたらまったくそんなことはなかった。シェアハウスの人だけでなく地元の人たちも寛容でした。
この地域の人たちは、昔ながらの伝統的なものに、新しい風を融合しようとしている感じがあります。ここなら、元の仕事を続けつつ新しいことを取り入れられると思いました」(近藤さん)
それを証明するかのように菅野さんは「近藤さんは、湯治ぐらしに来て2日目に早速アイデアを出してくれました」と明かす。近藤さんも、職業も世代も多様な人たちとの交流から得た知識やニーズを会社に持ち帰りたいと意気込む。
シェアハウスでは、ほかにも伝統的な湯治から着想を得たライフスタイルを実践している。
かつて湯治場では自炊が基本であったことから、料理の先生や地域の方々を招き、皆で食事を作る「みんなの炊事場」プログラムを実施。また、湯治客は長期滞在の間に地域の人たちと交流を深めたといい、「湯治ぐらし」も地元の自治会や老人会に加入。老人会の共同畑の一角で地域の人たちと野菜作りなどを楽しんでいる。
また、運動も促進するため「みんなのウェルビーイング」プログラムとして、ヨガやバランスボールも取り入れている。
湯治の再興を目指して…
菅野さんは、湯治の再興を目指して3つのことに取組む。
第一が、「湯治ぐらし」などを通して、湯治を生活と密着したライフスタイルとして確立すること。第二が、前述した3つの健康の実現と、それを証明するエビデンスを充実させること。第三が、湯治関連の産業が創発される状態をつくることだ。
これらを見据え、まずは「みんなの保健室」という新しいサービスを始めた。これは、ストレス度合いがわかるという唾液アミラーゼや血圧などの測定、問診などに基づいて、体質や体調に応じた最適な温泉や入浴方法などをアドバイスするカウンセリングプロジェクトで、温泉利用指導者の資格を持つ熊谷麗さんの協力を得て実施している。さらに、一般財団法人日本健康開発財団主席研究員の後藤康彰さんの指導の下、健康データを蓄積。菅野さんは「こうした要素を取り入れ、誰もが気軽に最適な湯治ができるようなアプリを作りたい」言葉に力を込める。
通常の風呂でも始められる“湯治”
ここまで、湯治の魅力を書き連ねてきたが、わざわざ温泉地に長期滞在し、湯治をするのはハードルが高いという人もいるかもしれない。そこで菅野さんに、手軽に自宅でもできる湯治の方法を聞いた。
「人間はお湯の温度の違いで、体が興奮状態になることもあれば、リラックスすることもあります。温泉ではない通常の風呂であっても、朝は42度以上の熱い湯で交感神経を刺激し『オン』の状態に、夜は38~40度のぬるい湯で副交感神経を刺激し『オフ』にしてあげることで、生活のリズムをつくることができます。
ステイホームや在宅勤務も多くなっている今、熱めの朝風呂も通勤電車の代わりに気持ちを切り替えるスイッチになりますし、つい一日中仕事をしてしまいがちな方々も、頭と体のスイッチをオフにするために、ぬるめのお風呂に長く浸かる、入浴剤に凝る、いい香りのせっけんやシャンプー、ふわふわのバスタオルを使うなど、こだわってみるものいいと思います。ただし、血圧が高い方は42度以上の熱い湯は控えてください」(菅野さん)
温泉は入浴して楽しむだけでなく、アイデア次第で可能性にあふれている。
菅野さんはほかにも、近藤さんが参加しているような長期滞在型湯治ワーケーションや、短期滞在型湯治ワーケーション、企業向け湯治シェアハウス、湯治をしながら店舗を持つチャレンジショップなど、さまざまな事業を展開している。
「湯治を暮らしに取り入れて、自分の持つ得意なことやスキルを掛け算できる人たちに、湯治ぐらしに住んでもらいたいと思っています。全国・世界からお待ちしています」(菅野さん)
菅野さんと、湯治ぐらしの皆さんの挑戦は始まったばかり。日本一の温泉都市・別府から、再び湯治の文化が湧き出すことを期待せずにはいられない。
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