戦前から始まった大宮の住宅地開発
コロナによってリモートワークが普及したこともあり、郊外の住宅地で、かつ商業面でも充実した街の人気が上昇しているようである。大宮もそのひとつだ。
東京郊外の住宅地のなかでも、大宮の開発はかなり早い。
航空写真で見るとそれは明らかだ。例えば大宮駅東側、氷川神社参道のさらに東側を見ると、1947年にはほとんど住宅はなかったが61年にはほぼびっしりと住宅で埋まっている。東京の郊外住宅地の開発は1960年以降始まった所が多いのに、この地域ではそれ以前に開発が済んでいたのだ。
戦前の新聞広告には鴨川沿いの台地と思われる鴨川台や盆栽村・清水園という物件がある。このように大宮駅周辺では戦前から戦後にかけていち早く住宅地開発が行われていたようなのである。
国鉄と軍隊が大宮を発展させた
戦前から住宅地開発が始まった理由は国鉄(JR)と軍隊の存在であろう。
現在の鉄道博物館の北にある大宮総合車両センターは、当時の日本鉄道が、上野~青森間の全通を機に自社工場の必要性が高まったことから1894年(明治27年)に現在の場所に設立した工場を前身とするという。隣接して国鉄時代からの社宅もある。
1932年(昭和7年)には大宮~赤羽間が電化された。東京~横須賀間に次ぐ2番目に早い電化により大宮町は首都圏の一環に組み入れ、住宅地としても人気が出たという。
当時、大宮保勝会は小冊子「電化の大宮と其近郊」を作成し、大宮は「天然の風致に富める大公園、綜合運動場、見沼川の蛍狩り、栗拾い、紅葉狩り、キノコ狩り、(中略)雪見等」が楽しめる「四季の楽天地」である。「省線電車(現JR)は上野駅からわずかに30分。分ごとに発着し、交通に恵まれた帝都郊外の理想郷」である。「清浄な空気、水質の最も良い、気候、保健衛生等においても好条件の一大住宅地」と大宮の良さをアピールしている(表記は現代風に改めた)。
大宮には日進などに住宅営団の団地ができた
この西側には1940年(昭和15年)に光学レンズの製造・組立てなどを行う陸軍造兵廠大宮製作所が設立された。それらの周辺も工場地帯となっていたので、住宅営団が日進に住宅団地を作っている。
賃貸住宅362戸の大規模な団地であり、庭付きの平屋の戸建てが建ち並んだ。行ってみると鴻沼川という小さな川に沿って川の西側一帯の上加という地域を住宅地化したらしい。
すでにほとんどが建て替わっているが、当初のままと思われる家が僅かに残っていた。日進駅近くの商店街は古い料理店も多く、埼京線の開通で新興住宅地になる以前から人が多く住み、働いていたことがわかる。
ほぼ古いままの状態で見つけた1戸は1世帯用だが、もう1戸は2世帯用であり、引き戸の玄関が2つ並んでいる。
前回の蕨の住宅営団団地もそうだが、一見同じ形の住宅が並んでいるように見えて、実は数種類以上のプランがある。戦後の住宅難で急拵えされた住宅地は、本当にほぼ同じプランの家が並ぶことがほとんどだったと思うが、住宅営団では隣り合う家のプランすら違っていたようなのである。
さて日進の住宅営団以外にも、住宅営団団地はあった。東北線の東側の旧中山道沿いの細長い土地である。今は植竹という町名だが、昔は源太郎という地域で、踏切にその名が残る。
源太郎の営団団地は賃貸148戸であり、何故か途中を富士フィルムの工場が横切っている。同社社員も住んだのかもしれない。家はほぼすべて建て替わったように見えるが、古い商店にかつての名残が感じられる。
また団地の中に自治会館があり、これはおそらく建物が古いまま増改築されているようだった。前には公園があり、住宅営団の前身であり、庶民のための田園都市的な住宅地をつくろうとした同潤会の流れを感じる。
緑豊かな大宮盆栽村
源太郎の営団の東側が大宮盆栽村である。源太郎踏切を越すといきなり緑が増え、大きな家が増える。
盆栽村は関東大震災によって打撃を受けた東京の駒込周辺の盆栽職人たちが1924年に移住してできたものであり、全盛期には40もの盆栽業者がいた。
盆栽村の移転事業の中心人物は清水園の清水利太郎であった。先ほどの住宅地名の清水園はそれにちなんでいるものと思われる。
利太郎は当時の盆栽業者としては極めて異例だが学習院大学を出ており、盆栽技術が優れていたことはもちろんだが、理路整然とした考え、説得力のある弁舌、自己に拘泥しないさっぱりした性格などで人望を得ていた。
盆栽業は震災前から景気があまりよくなかった。洋風化志向の高まりの中で盆栽は古くさいと思われていたからだった。駒込から千駄木は江戸時代から園芸業者が集まり栄えていたが、都市化が進んで空気も汚染し、せっかくの盆栽も煤煙に黒ずむほどだった。蝦夷松が突然枯れることもあった。
そこでこの際、集団で移住しようと利太郎は盆栽業者たちに提案したのである。利太郎は、武者小路の「新しき村」に最前から注目していた。自分も新しい盆栽村、盆栽のユートピアをつくろうと考えたのだった。
土地を探し、氷川神社の北側に位置する山林こそが、源太郎山と呼ばれる山林だった。盆栽に適する赤土、質・量とも恵まれた地下水、澄んだ空気などから盆栽づくりに最適だったからである。
開発に当たっては、22年に駒込の六義園隣に三菱の岩崎久彌が私有地を開発分譲した住宅地・大和郷(やまとむら)の区画整理事業を参考にした。大和郷の設計は東大教授の佐野利器(としかた)。
佐野は大和郷の中央に幅7間の道路を通し、その他に四間の道路を碁盤の目状に通し、電線地下埋設も行った。住民による組合を結成し、住民自身による住民規約の作成を行うなど、運営面でも都市計画の最先端だった。
そこで盆栽村もそれにならって街づくりをする計画だった。計画を聞いた地主の小島善作は感服し、3万坪の土地を10年間無償で貸すとまで申し出た。結局破格の安値で5年契約の賃貸契約が交わされ、土地にある立木は地主の所有とされた。そして契約のスムーズな履行のために、大宮神社の宮司が盆栽村の事務職として雇われた。このように盆栽村は東京の盆栽業者の熱意と計画に地元地主や宮司たちの協力があって実現した。
28年には盆栽村組合ができ、盆栽村に住む条件として、盆栽を10鉢以上持つこと、門戸を開放すること、2階建てにしないこと、生け垣にすることという条件を設け、良好な田園住宅地の形成が目指されたのである。
大宮公園はかつて歓楽街だった
盆栽村から東武鉄道の南側に行くと、大宮公園である。大宮駅開設は商工業の発展にも大きく寄与し、旅館、料理店、運送店、馬車発着所などが駅周辺にでき、各種の問屋も増えたが、観光客も多く、料亭、待合、その他の風俗営業もにぎわった。1900年(明治33年)には大宮三業組合が設立され、全盛期には置屋31軒、芸者85人だった。
また1884年(明治17年)の開設の氷川公園(現在の大宮公園)も、当初は旅館、料亭などの業者に貸し出されていた。園内には旅館料亭のほか、飲食店、玉突場、大弓場、射的場、パノラマ、産物・盆栽類陳列場、動物園、図書館、博物館、美術館があったそうで、なかでも万松楼は大規模で有名だった。公園というより料亭街のようだったのだ。
しかし1929年(昭和4年)になると、公園内でのこうした営業は廃止された。公園が行楽地から、子どものいる家族のための健康、スポーツのための場所へと整備されたためである。
さいたま市も埼玉県もスポーツ振興に熱心な自治体であるが、その背景にはこうした歴史もあるのだろう。
他方、大宮駅周辺は今も歓楽街の要素が非常に色濃い。昭和の雰囲気の小料理屋、大衆食堂、大衆酒場、喫茶店なども多く、これが大宮の大きな魅力である。
氷川神社参道東側の良好な住宅地
だがこの繁華街、歓楽街の印象の強さが大宮のイメージに偏りをもたらす。これまで見てきたように、良好な田園住宅地としての大宮をもっとアピールしたほうがいいのだ。
大宮公園から南下しながら、その東側の氷川神社参道東側、見沼代用水沿い西側の一帯を歩いてみると、地形的には、名もないような川沿いの低地と台地が入り組んでいる。この辺は原則として川が北から南に流れるので、東から西へ歩くとアップダウンが繰り返される。
しかしここがまさに冒頭で述べた戦後すぐに開発された地域で、地名は堀之内、天沼などであり、一帯の住宅地はとてもよく整備されている。
地主たちによると思われるシェア農園や建築的にも素晴らしい保育園や学童保育所もあり、市民意識の高さも感じられるのだ。
リモートワークが定着すると駅近のマンションに住む必要は減るので、駅からバスであったとしても、こうした大宮の良好な住宅地に住みたいという人が増えるかもしれない。
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