桃園川沿いの谷戸地形

城山から谷戸にかけては今も商店街がある城山から谷戸にかけては今も商店街がある

東中野に文化村があったという。
文化村とは、1920年代に流行った郊外住宅地のこと。1921年の平和記念東京博覧会に「文化村」という住宅展示場ができたのがきっかけで、堤康次郎が目白文化村をつくったのが最初で、洋風住宅が建ち並ぶ新興住宅地を文化村と呼んだのである。

東中野の文化村は正確には東中野駅と中野駅の中間くらい。やや東中野に近いあたりで、中央線の南側である。地名はかつて「谷戸」(やと)といわれたところである。
谷戸とは川の流れが少しよどんで池のようになった地形をいうが、中野の谷戸は桃園川沿いの低地である。

実際にこの辺に行ってみるとかなり山と谷が入り組んだ地形である。中野駅前からは想像しがたい。
谷戸の北側はかつて城山と言われた台地であり、南斜面の邸宅が並ぶ区域もある。
また城山から谷戸にかけては今も商店街があり、かつては多くの人が住んだことが感じられる。

東中野から新中野にかけての住宅地

中野坂上辺りにある邸宅中野坂上辺りにある邸宅

中野区の中心は今は中野駅だが、かつてはそうでもなかった。
東中野から谷戸を経て青梅街道の南側までの高台は、現町名は中野区中央だが、こここそが中野村の中心、本郷である。区立本郷中学もあり、中野村役場跡もある。
駅でいうと丸ノ内線・新中野あたりである。

本郷の神田川沿いは旧町名を小淀といい、斜面には幕末の剣豪、北辰一刀流の山岡鉄舟邸跡地がある。
また三井信託が戦前に開発分譲した小淀住宅地もあるなど、良好な住宅地が広がっている (ちなみに三井信託による分譲住宅地は、華洲園の西側の東中野四丁目と中野駅南西の桃園町にもあった)。

赤い屋根の洋風建築

松本恵子松本恵子

文化村をつくった松本恵子は翻訳家・随筆家の伊藤一隆(かずたか)の次女として生まれた。
子どもの頃からいたずら好きで、客の靴にカエルを入れたり、思ったままを口にして行動するので男勝りのため「ケイスケ」と呼ばれていた。サザエさんのカツオみたいだ。

当時は珍しい短髪だったというから、いわゆるモガ(モダン・ガール)である。大正10年の読売新聞に「断髪の松本夫人」と記事になったという。青山女学院に通うが、学生時代にイギリスに遊学した。
慶応大学で男子学生に囲まれながら詩の講義を受けており、「慶応義塾大学の紅一点」とこれも新聞に取り上げられたという。

恵子はロンドンで松本泰(たい)と出会う。泰は、慶応大学で『三田文学』に属していた。二人がロンドンで結婚して帰国後、周囲の勧めもあり『秘密探偵雑誌』という雑誌を出版することになった。
帰国後恵子は病気となり、療養のために東中野に住む。12年9月1日の震災後には出版業の資金のためという目的もあり、谷戸に貸家を十数軒建てた。赤い屋根の洋風建築が並んでいたという(トップの写真は赤い屋根の洋風建築の時代を彷彿とさせるが本文とは関係ない)。

当時の彼らの家はもうないはずだが、現地を歩くと、美術、音楽、文学などが好きそうな人が住んでいる気配がある。

イギリス留学、テニス好き、探偵小説雑誌をつくったが・・・

夫妻が赤坂に事務所を置いて起こした出版社が奎運社である。創刊号は大正12年5月であった。
関東大震災による中断を経て、大正14年3月に事務所を丸の内に移し、雑誌も『探偵文藝』として復活した。

だが第3号のときは事務所は丸の内から中野町大字中野字桐ケ谷 (現東中野一丁目)へと移っている。その後、字大塚 (現・東中野三丁目)に、そして谷戸の文化村へと移った。

谷戸の家には田河水泡、小林秀雄らも出入りしてにぎやかだったらしい。泰の書いた小説「眼鏡の男」の主人公は中野にある赤い屋根のコテージに住んでいるし、「嗣子」ではテニスコート付きの「中野文化村」が登場しているという。
また泰はテニス好きでイギリスに留学したのもテニスをするためだろうといわれるほどだったが、文化村にもテニスコートがあったらしい。

だが出版事業も貸家経営もあまりうまくいかず、谷戸の文化村は歴史から忘れ去られていく。もし事業が成功していたら、中野と東中野の間に有名な住宅地が今も残っていたかもしれない。

◆参考資料
中野区立図書館・中野アーカイブ「谷戸に文化村があったころ 探偵作家松本泰・松本恵子と文士たち  企画展示「中野区ゆかりの著作者紹介」第9回 地域の著作者紹介シリーズ」

街を歩くと音楽、美術、文学などの雰囲気が漂う家が多い街を歩くと音楽、美術、文学などの雰囲気が漂う家が多い

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