北九州市門司区の馬寄団地を舞台に、九州産業大学の学生が展示空間を構成
2018年8月、北九州市門司区で「馬寄(まいそう)団地解剖ミュージアム」と題した団地見学会が開かれた。主催は九州産業大学住居・インテリア学科。実在の団地を舞台に、建物の構造や間取り、その背景にある住まいや暮らしの歴史を学ぶ展示空間を構成し、一般公開するイベントだ。
馬寄団地は、終戦から間もない1954年に、福岡県住宅供給公社の前身である福岡県住宅協会によって建設された。もとは3棟の団地だったが、今は1棟が残るのみで、それも解体が決まっている。老朽化が進み、時代にそぐわなくなった建物だが、戦後の住宅事情や日本の住居史を知る上で貴重な史料だ。
九州産業大学住居・インテリア学科は、2年生の実践的授業の対象としてこの団地を選んだ。総勢72人の学生たちは3度にわたって団地に足を運び、手分けして建物を実測し、調査のための解体計画を立て、プロに教わりながら解体作業も行った。作業指導に当たったのは、門司区内に本社を置く福屋建設だ。
馬寄団地は4階建てで、3つの階段室を挟んで各階2戸ずつ向かい合う構成になっている。学生たちはこのうち1つの階段室に沿った8戸を使い、階ごとにテーマを決め、チームに分かれて展示空間を作成した。
日本初のダイニングキッチンを生み出した団地用の標準間取り「51C」
(上)現地見学会と同日に開催されたセミナーで講義する福山秀親教授(下)学生の展示による「51C」の説明。51Cは今でいう「2DK」。約35m2の床面積の中で“食寝分離”と“寝室分解”を両立させるために台所と食事室を兼ねた。これが「ダイニングキッチン」の始まりとなった馬寄団地が誕生した1954年は戦後復興のただ中で、大量の住宅供給が必要とされていた時期だ。そのために当時の建設省が主導してつくった公営住宅の標準設計のひとつが「51C型」である。馬寄団地の間取りも、この「51C型」を踏まえてつくられた。
「51C型」とは「1951年度公営住宅標準設計C型」の略称。面積に応じてA、B、Cの3タイプあったうち、最も小さい約35m2の案だ。そして、その小ささゆえに、全国の公営住宅で広く採用されていった。
「51C型」が画期的だったのは、日本で初めて「ダイニングキッチン」を導入したこと。そして、夫婦の寝室を独立させたことだ。
「51C型」の原案を作成したのは、東京大学の吉武泰水研究室である。吉武はのちに九州芸術工科大学で学長を務めた。その当時、九州芸術工科大学に在籍し、吉武の講義を聴いた九州産業大学の福山秀親教授が、「ミュージアム」と同日開催のセミナーに登壇した。
福山教授は語る。「51C誕生の背景にあったのは、“食寝分離”と“寝室分解”です。“食寝分離”は、もともと戦前に京都大学の西山夘三が提唱したもので、寝室から食事室を分離する考え方です。西山は庶民の住まいを徹底的に調査した結果、長屋のような狭い住宅でも、住み手はなんとか食事専用の場所を確保しようとすることを確かめたのです。吉武先生の研究はこれを踏まえ、さらに発展させたものでした」。
いっぽう、“寝室分解”の目的は、夫婦のプライバシーを守ることだ。「51Cは、核家族を対象とした住宅でもありました」。
同時に団地は、主にサラリーマンを対象とした住宅でもある。「かつての日本では、町家でも農村でも漁村でも、暮らしと仕事が混在する“併用住宅”が当たり前でした。対して51Cは“専用住宅”であり、住まいから“生産”を切り離し、“消費”だけの場にしたともいえます」。
団地内の住戸は、それぞれ鉄の玄関扉に閉ざされた。団地は、日本の住宅に“セキュリティー”と“プライバシー”を確立した。その半面、従来は“公共空間”と“私有空間”の間にあった、コミュニティーの“共用空間”は形成されにくくなった。このことへの反省から、その後の団地では、住棟配置の工夫などによる共用空間づくりも模索されている。
「51Cはよくも悪くも、その後の日本の住宅と都市に、多大な影響を与えたといえます」。
「51C」が目指した“寝室分解”が徹底されなかった馬寄団地の改変
さて、馬寄団地に戻ろう。
馬寄団地の間取りは51Cに基づいているが、いくつか改変が加えられている。中でも重要なのは、“寝室分解”が徹底されなかったことだ。51Cでは2つの居室(寝室)の間が壁ではっきりと仕切られているが、馬寄団地では襖で開閉する続き間になっている。
また、51Cのバルコニーは、洗面・洗濯室からのみ出入りする、物干し場として想定されている。対して馬寄団地では、洗面・洗濯室を浴室に変更し、出口をふさいだ一方で、バルコニーを拡げ、居室から掃き出し窓で出入りできるようにしている。
51Cはシャワーのみで浴槽を置くことは想定されていないが、馬寄団地では浴槽が置けるようになっている。トイレの位置も、洗面・洗濯室の一角から玄関北側に変更されている。こう見てくると、51Cが想定した住まい方と馬寄団地での実生活は、かなり乖離したものだったのではないだろうか。
建設から64年のうちに、各住戸にはそれぞれ手が加えられ、差異も生まれている。変色した畳には家具を置いた痕跡が見られ、かつてここで営まれた暮らしをしのばせた。「ミュージアム」2階の1室には、50〜60年代の団地の生活風景を撮影した写真の数々も展示されていた。
外観は近代的な鉄筋コンクリートでも、基礎と内装は木造住宅の技術を踏襲
今回のイベントは「解剖ミュージアム」と銘打っているだけあって、床や壁の一部を解体し、内部の構造を表した展示も見どころだった。
1階の構造体験室では、建物の基礎が覗ける。現在であれば、鉄筋コンクリートの建物は地盤面全体にコンクリートを打つのが一般的だが、1950年代の馬寄団地の床下は、地面がむき出しで、束石の上に、木の束と大引が組まれている。九州産業大学の信濃康博准教授は「外観こそ近代的ですが、内部は日本の伝統技術がそのまま使われている部分が少なくありません」と解説する。
間仕切り壁は木の下地の上にモルタルを塗り、漆喰で仕上げている。居室も、コンクリートスラブの上に木の根太を組んで荒板を張り、その上に畳を載せている。いずれも、昔ながらの木造住宅の技術を踏襲するものだ。
歴史を経た建物の見学を通して、これからつくる建物の未来を考える
最近まで人が住んでいた馬寄団地に甚だしい損傷はないが、よく見ると窓まわりなどあちこちに補修の痕跡がある。南側に回ってみると、ベランダの手すりも傷みが激しい。
「60年の時を経ると建物はどうなるか、じっくり見て欲しい。それは未来を考えることにもつながります」と信濃准教授は語る。風雪や経年による劣化、補修などのハード面に加え、生活や環境の変化、技術の進歩にも対応できなければ建物は生き残れない。昭和から平成へ、激変の生活史を刻んだ馬寄団地に学ぶべきことは多い。
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