江戸時代末期の深川にタイムスリップ!
今からおおよそ180年前の江戸時代末期。
現在の江東区西側の隅田川沿いは、「深川佐賀町」という町であった。(現在の佐賀一丁目・二丁目)
深川といえば、"江戸っ子"、"深川めし"が思い浮かぶ人も多いのではないだろうか。江東区にある深川江戸資料館は、まさにその江戸庶民の暮らしが再現されている。
もともと、深川江戸資料館のある土地には、江東区役所があった。今から約30年前、区役所の移転により、跡地をどう活用するかの検討がされたという。そのころ、今ほど江戸深川がどんな場所なのかがあまり知られていなかった。「深川の江戸の風景、暮らしを知ることが出来る場所にしたい」、という想いで深川江戸資料館はこの地につくられた。資料館は小劇場やレクホールなども併設し、地元の人のコミュニティの場としても活躍している。
ちなみに江戸東京博物館の開館は1993年。深川江戸資料館はそれよりも早い1986年に開館しており、江戸文化を学ぶ施設としては先駆け的な存在とも言える。
開館から30年ほどがたち、今は外国人観光客も多く訪れる深川江戸資料館。どういった点が人気を集めているのだろうか?
庶民の憧れだった大店、表通りの町並み
深川江戸資料館の大きな魅力は、展示されている実物大の長屋や大店に直接入れたり、部屋のなかにある生活用具に触れたりすることができる点である。
一般的な資料館と比べると、展示物を触ってもいいというのは珍しい。また、特徴的であるのが展示物の説明が一切ないことだ。
だが、見学していると、私たちが見たことがない道具や、部屋のしつらえなどが見つかる。質問がしたくなったら、ボランティアの方に解説をお願いすることもできる。あえて展示物の説明を置いていないのは、説明よりもまずは間近で見て、感じてほしいという意図があるそうだ。
展示スペースに行き最初に目に入るのが、左側にある大きな二階建ての建物だ。ここはいわゆる大店(おおだな)で、資料館のなかで唯一、実在した大商人の店である。看板には「深川佐賀町 干鰯魚〆粕魚油問屋 多田屋又兵衛」と書かれている。当時、干鰯(ほしか)というイワシを絞った油を庶民が行灯の灯りに利用していた。ここの大店は干鰯の油やそれを搾ったカスを肥料にして売っていたのだ。
ほかにも、深川の代表的な大店には、木場木材問屋がある。1641年に起こった江戸の大火は、江戸中を灰にする大惨事となったが、その原因とされたのが日本橋にあった材木町周辺に積まれていた材木だった。材木置き場の日本橋からの移転地としてまだ開拓半ばであった深川が選ばれ、その後、材木の町として栄えたのだ。
表通りに並ぶ店のひとつ、舂米屋は長屋の大家という設定になっている。大家は、今で言う管理人の役割を担っていたのだが、江戸時代の管理人と長屋に住む人たちの関係性は今よりもっと密接であった。大家は家賃の徴収・家の修理のほかに、出生や婚姻の届け出・喧嘩の仲裁など日常的な世話も担った。「大家は親も同然、店子は子も同然」と言われていたのも納得である。
5つの家族が住む長屋
八百屋と舂米屋の間にある木戸を通ると、長屋が並ぶ一角に入る。
大店のある表通り、その裏には庶民が日常生活を送る、裏長屋があるのだ。
二階建ての立派な表店とは異なり、長屋は一般的には一階建て。木造の長い家を、一枚の壁で仕切っただけでつくられた集合住宅である。深川江戸資料館では、5つの家族が住む部屋を再現している。
長屋を見て驚いたのは、ひと部屋ひと部屋が小さいこと。当時の人たちは4畳半~6畳の部屋に家族で住んでいた。子どもがいる家族でも、子どもは10歳ほどになれば奉公に出る。夫婦に子ども一人、もしくは二人ほどの核家族がワンルーム程度の広さに住んでいたのだ。トイレや井戸、ごみ溜めなどは住民同士で利用する共同スペースにあるとは言え、広さには限りがある。だからこそ無駄なものは置かずに必要最低限なものだけを大事に使って生活をしていた。
当時は、物を作るにも手間がかかる時代。使い捨てにするという発想はなかった。例えば着物であれば、着れなくなったら古着とてして売り、古着としても売れない着物は使える部分の布を古裂(こぎれ)として売る。さらに、古裂としても売れない布はお手玉にしたり、種火にしていた。狭いからこそ物を持ちすぎない暮らし方や、物が無いからこそのリサイクルの発達は、私たちが自分たちの生活を省みるひとつの参考になるかもしれない。
5つの部屋に設定されたシチュエーションのうち、一部をご紹介しよう。
22歳の棒手振、政助さんは、独身で一人暮らし。長屋の畳は住人が自分で用意しなければならなかった。政助さんは深川に引越してきたばかりで、まだ部屋には畳が無い。天秤棒で荷を担いで町を売り歩く棒手振は、特にあさりやしじみが仕入れにあまりお金がかからないということもあって、江戸に来たばかりの若い人が最初にはじめるのに選びやすい仕事であった。政助さんの部屋の前には桶に入った貝がら、部屋には天秤振がある。
もうひとつ、丸太から材木を製材する木挽き職人である大吉さんの住む部屋は、大きな大鋸(おが)が目に入る。よく見ると他にも商売道具があるので、じっくりと部屋を探してみると面白いだろう。
川と密接だった暮らしを感じる堀割
深川江戸資料館では、深川に油問屋が多くあったことにちなんで、油堀(あぶらぼり)と呼ばれた運河が再現されている。政助さんがあさりやしじみを売る棒手振であったように、深川は、水辺に関連した仕事を生業にしている人が多かった。
掘割あたりの展示では、船宿と猪牙舟(ちょきぶね)の水辺の風景を見ることが出来る。猪牙舟は、船宿が所有して営業する舟であり、江戸の足としてタクシーのように、また物を運ぶために利用された。船宿は、利用者が軽く食事をしながら待つ場所であって、「宿」とはあるが宿泊はできなかったそうだ。
船宿のすぐそばには、「火の見櫓」が見える。「火事と喧嘩は江戸の花」というほどに、江戸では頻繁に火事が発生していた。木造住宅が密集していたため、ひとたび火が付けば瞬く間に火事が燃え広る。火事の発生を早く見つけるためにつくられたのが火の見櫓だ。最上階には半鐘があって、見回りをする番人が火の手を見つけると、激しく打ち鳴らして火事を知らせるのだ。
火の見櫓の周辺に広場があるが、これも延焼対策のひとつ。火事の時に火が燃え移るのを防ぐため、火除け地として広場があったのだ。
面白いところでは、堀割周辺には、今で言うファーストフードの天ぷらやいなり鮓の屋台がある。いなり鮓は今とは少し違う食べ物であったようで、当時の形が再現されていた。
展示物に見る日本の四季
ちょうど取材に訪れた際は7月であったが、七夕飾りがされていた。こういった季節の演出が、資料館のあちこちで再現されている。
江戸時代には、エアコンも扇風機も当然なかったので、夏は戸を開けて過ごすことになる。必需品であったであろう、蚊遣りが長屋に置かれていた。八百屋の店先には谷中しょうがや枝豆、夏野菜などが並ぶ。軒先には朝顔が咲いていたり、耳を澄ますとあさり売りや虫売りの声が聞こえてきたり…。
現代の私たちも、季節に応じた花見や夏祭りなどのイベントを楽しんでいる。だが、江戸時代の人たちは、今よりももっと季節を感じ、楽しむ生活をしていたであろう。深川江戸資料館を訪れた際は、江戸の暮らしとともに、大切に執り行われていた年中行事や四季の移り変わりを感じてみてほしい。
深川江戸資料館
http://www.kcf.or.jp/fukagawa/
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