町家の起源は祭りの行列を見物するための「桟敷」?

「町家」の定義は、一般的には町人が住む家のことで、江戸や京都、大坂などの都市に建てられた家屋を指す。
しかし「京町家」はよく聞いても、「大坂町家」や「江戸町家」は、あまり耳にしないし、目にすることも多くはない。なぜなら東京も大阪も、戦災や震災その後の都市開発により、古い家屋がほとんど残っていないのだ。
京都は街自体が大きな被害を受けるような戦禍を免れた史実がある。そのため、数多くの町家が残っているのだ。

そもそも町家のルーツのひとつは、京都にあるとされている。
京都三大祭りの一つである葵祭りは、欽明天皇の時代の役1500年ほど前に始まったとされる歴史のある祭りだが、その祭り行列を見物するため、道路の両側に建てられた「桟敷」と呼ばれる仮設の建物が、町家の起源だという説があるのだ。
京都や大坂の町家について、少し調べてみた。

葵祭を見物するために道の両側に建てられた「桟敷」と呼ばれる仮設の建物が、町家の起源だという説がある葵祭を見物するために道の両側に建てられた「桟敷」と呼ばれる仮設の建物が、町家の起源だという説がある
葵祭を見物するために道の両側に建てられた「桟敷」と呼ばれる仮設の建物が、町家の起源だという説がある京都祇園の花見小路

江戸幕府は町人たちが2階建ての家屋を建てるのを禁じた

町家は町人の住む家だから、士農工商でいえば、工・商が暮らす家だ。
しかし、職人と商人では、必要とする家の間取りも設備も違う。商家は店舗にあたる「店の間」が必要だし、職人の家は作業場が必要だ。さらに、何を商う商人か、何をつくる職人かでも違うので、間取りなどに明確な決まりはない。

安土桃山時代までは、裕福な商人たちが豪華な家屋を建てることもあった。たとえば桃山時代の「洛中洛外図屏風」にも立派なうだつをもつ長屋が描かれており、庶民が家屋を装飾していたらしいとわかる。しかし、江戸幕府は町人が家を装飾することを禁じた。江戸時代にもうだつがあげられたが、隣家からの延焼を防ぐためで、装飾性は高くない。

さらに都市に家屋が集中して火事が頻発すると、大量の住宅を再建せねばならず、住宅の規格化と標準化が進んだ。だから、江戸時代の町家には統一感があるのだ。
庶民の長屋などを含めて一般に、出入り口には表土間があり、かまどが設置されている。居住空間はその奥にあるが、大きな商家などでは、玄関と奥をつなぐ「通り土間」があり、土足のまま玄関から奥に行けた。そういった広い土間には洗い場や、排水溝も設けられている。

大きな町家なら、居住空間も広い。家人が日常を過ごす「居間」のほかに、接客のための「客間」も設けられる。さらに大きな商家になれば、茶室がもうけられたり、客間と庭にたてる障子を雪見障子にしたり、住人の生活や好みが反映されていた。縁側は家の内と外をつなぐ場所で、庭を眺めて季節を感じたり、風を通したりできる。

「武士を見下ろさないように」と、江戸幕府により町人たちが2階建ての家屋を建てるのは禁じられたが、天井の低い「厨子二階(つしにかい)」がこっそりと設けられ、使用人が寝泊まりしたり、物置になっていたりした。明治時代に入って江戸幕府による取り締まりがなくなると、2階建て、3階建ての商家も数多く誕生する。

幕府が武家より上に立たないようにと取り締まったのに対抗したものとしては、錣屋根も挙げられる。屋根の途中に段差をもうけたものだが、幕府により屋根の長さを制限されたため、上段の屋根を短くし、「これは軒だ」と言い張って、下段の屋根をつけたのだそうだ。

江戸の街並み江戸の街並み

江戸時代の町家の構法は、伝統木造構法

江戸時代の町家は伝統木造構法で建築されていた。
現代においては、在来軸組工法で建てられた建築物が一般的だが、町家は「工法」ではなく「構法」、つまり、木の組み立ての構えにより、建築されていたのだ。

町家は「石場建て」と呼ばれるように、基礎となる石の上に柱が立てられており、基礎と構造部が一体ではない。柱や梁などには釘などを使わず、こみ栓や車知で材をつなぐ「仕口」、断面同士を合わせてつなぐ「継手」で接合されているので、外から加わった大きな力が逃がされて、耐久性がアップする。さらに木材の継ぎ目に細長い「車知」と呼ばれる木などを打ち込んで補強しているため、家の耐力が衰えてきても、これらを打ち直すだけで耐力が復旧するため、耐震性は高かったらしい。

壁は竹を組んでつくった下地に、土と藁を混ぜた壁土を塗り、漆喰などで仕上げていた。

町家の土間町家の土間

京都の京町家は「うなぎの寝床」

京都では、人通りの多い道に多くの商家が建てられるよう、宅地を細分化せねばならなかった。このため、道に面する間口が狭く、奥行きが深い「うなぎの寝床」式の家屋が数多くつくられたのだ。

後白河法皇の勅命で書かれた平安時代の『年中行事絵巻』は、民間の年中行事が記されたもので、町人が住む町家も描かれている。これによれば、町家の屋根は板葺きで、通りに面した出入り口は、屋根の「平」側にあたる。「平」とは、屋根の棟と並行する側のことで、屋根が道路側にずらりと並んで景観が美しく見えるため、近世までこの形式が受け継がれた。

室町時代には、中土間型の町屋もつくられた。土間を中央にし、その左右に居室をもうけたもので、主家の家ではなく、別筋の複数の家族が同居するために建てられたらしい。

間口が狭く奥に長くつくられた京町家間口が狭く奥に長くつくられた京町家
間口が狭く奥に長くつくられた京町家京町家は奥に長くつくられたため路地も多い

江戸時代の大坂の大店の町家、町人の町家

それに比べると、大商人たちが住んでいた大坂において、現在にまで残る残る町家は、規模の大きなものが多い。

たとえば薬種商・小西屋の社屋でもあった小西家住宅は、明治三十六年(1903)年に完成した建物だが、土地の面積は約1,060平方メートルもある。また、緒方洪庵が江戸時代末期に開いた蘭学の私塾である適塾も、敷地面積464平方メートルと、広々としている。

大阪がもっとも繁栄した「大大阪時代」に建てられた吉田家住宅は、主屋の建築面積だけでも116平方メートル。さらにその敷地内には、長屋建ての貸家が並び、主屋を取り囲んでいる。NHK朝の連続ドラマ小説「ごちそうさん」の主人公夫婦の家は、吉田家がモデルだ。

嘉永五(1852)年に松川半山が著した『二千年袖鑒(かがみ)』には、鴻池家、天王寺屋、加島屋、住友家、三井家、大丸家など、大坂の豪商たちの商家が描かれており、店舗が道に面していること、奥の住居の棟の間に中庭があり細い玄関棟でつながっていること、高い塀で囲まれていることがわかる。
これを「表屋造り」と呼び、京都にも多く見られる町家の形式だ。残された住宅絵図によれば、住友家の住宅は、間口が六十間、奥行き二十間という豪壮さで、蔵も四つあったようだ。また、大坂の商家は、風呂のある家が一般的だった。

大阪の道修町に今も残る商家・旧小西家住宅大阪の道修町に今も残る商家・旧小西家住宅

もっとも、庶民が住んだ町家は大きなものではない。
豊臣時代の大坂城を描いた「大坂城図屏風」や「大坂冬の陣図屏風」「大坂夏の陣図屏風」に描かれる庶民の町屋は、屋根は板葺き、平屋か中二階建ての、簡素なものだ。また、火災延焼を防ぐための袖うだつが設置されているのが、庶民の防災意識の高さをしのばせる。
江戸時代の「大坂市街図屏風」に描かれた町家は中二階建てが多く、瓦葺き屋根も散見されるほか、屋根の両側に立派なうだつがあげられているなど、都市らしい趣きが生まれている。

八割以上の町民が住んだのが借家だが、江戸と違うのは、裏長屋ではなく、表長屋に住む町民が多かったことだろう。表長屋とは通りに面した家屋で、日当たりもよい。
また、京都の借家と大きく違うのは畳などの建具は借家人が用意しなければならなかったこと。不便なようだが、そのおかげで模様替えも自由、さまざまな職種の人が住めたのだ。

借家人であれば町役として果たさなければならない義務やつきあいが増えるため、財産があっても借家に住む町人も少なくなかったらしく、町奉行は「金銀手廻り候者は、家屋敷所持致し候よう、心掛け然るべく候事」と触書を出している。見栄を重んじない大坂人らしさが面白い。

吉原妓楼の遊郭の建物は2階建て

町家とは離れるが、ついでに吉原の女郎たちの建物もみてみよう。
大河ドラマ「べらぼう」を見ている人は、「吉原の妓楼は2階建て?」と思われるだろう。

たしかに妓楼はほぼ2階建てで、1階の入り口を入ると、広い土間がある。ここでは煮炊きがされており、遊女たちの生活の場でもある。しかし、板の間にあがるとすぐに2階にあがる階段があるので、客はスッと通過するだけだ。
楼主は入口と階段が見通せる場所で遊女たちを見張りつつ、客の様子を観察していたのだが、この場所を「内所(ないしょ)」と呼ぶ。さらに奥には楼主の居住スペースがあり、奉公人の部屋や、病にかかって治る見込みのない遊女が運びこまれる「行灯部屋」などもあった。

もっとも妓楼らしいのが、通りに面した赤い格子の中の張見世(はりみせ)と呼ばれる座敷だろう。
男たちは、通りから格子ごしに居並ぶ遊女たちをながめ、相手を選ぶのだ。2階は遊女が客と過ごす部屋が並んでおり、食事をとる座敷、床入りする座敷、遊女たちの部屋などがある。

江戸時代の男女比は2対1で、男性が圧倒的に多く、売春も盛んにおこなわれていた。そんななか、男性集団である武士の統制をとるには、性産業を掌握すべしというわけで、幕府は吉原に売春業を営む特権を与えたわけだ。
吉原大火ののちに浅草千束村に移転した新吉原の別称を「ありんす国」と呼んだように、吉原大門の中は一種の外国のような、特別な場所だったようだ。そういったこともあり、2階建ても許可されたのだろう。

町家からは、日本人の防災意識や土地ごとの風土が見えてくる。町家を見る際は「どんな人が、何を考えて住んでいたのだろうか」と想像してみてはいかがだろうか。

張見世(はりみせ)。通りの赤い格子から遊女たちを選んだ張見世(はりみせ)。通りの赤い格子から遊女たちを選んだ
張見世(はりみせ)。通りの赤い格子から遊女たちを選んだ大和郡山に残る遊郭建築。大和郡山の町家物語館

■参考
学芸出版社『京都の町家に学ぶたしかな暮らし 改修のプロが伝える、木・土・紙・石の住宅論』松井薫著 令和5年11月発行
創元社「大阪まち物語」なにわ物語研究会編 2000年3月発行
大阪ガスエネルギー・文化研究所・大阪市立住まいのミュージアム『上方生活文化堂 大阪の今と昔と、これからと』2019年3月発行

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