かつて地域一の大きさだった酒蔵が復活
愛知県半田市とその周辺の地域は、醸造のまちとして知られる。酒、酢、味噌、たまり醤油、みりん。海に面した土地柄により、江戸時代にそれらは船で運ばれて販路を拡大し、大きく発展するきっかけにもなった。
そんな特色を持つ半田市で、江戸時代後期にあたる1788(天明8)年に創業した伊東家が営む酒蔵。地域随一の大きさだった酒蔵で造られる「敷嶋(しきしま)」という名の日本酒が多くの人々に愛されていた。しかし、近年の清酒需要の低下などから、日本酒ファンから惜しむ声が上がるなか2000年に酒造免許を返納することに。酒が造られていた建物も一部が売却された。
ところが、その酒蔵が2021年に復活することになった。
“9代目”としてゼロからのスタート
酒蔵復活に動いたのは、伊東家“9代目”の伊東優(まさる)さんだ。
8代目だった父が酒蔵を閉じたときには高校一年生。両親は名古屋で結婚生活を送っており、そこから酒蔵に通っていたので、正月、GW、お盆の帰省時期に酒蔵の敷地内にある家に住む7代目の祖父たちに会いに来てはいたものの、優さんは「実感がなかった」という。
そのまま大学まで進学し、東京で就職した。そんななか2014年、祖父が他界。その通夜の前夜、保管されていた「敷嶋」を飲んだ。「しっかりしたおいしい酒だなと驚き、もったいないなと思ったんです。そう思うと同時に、残していきたいとも」
代々受け継がれ、祖父や父も携わった酒造り。多くの人に“おいしい”という記憶を残してきた。そこで「このままだと僕自身が死んだときには何も残らない」という思いがよぎったのだという。
「何か残せるのかなと考えているときにまず思い浮かんだのが古い家があるなと。祖父や幼少期の父が暮らし、自分も年末年始などに訪ねてきた家。古民家カフェにするという考えもありましたが、この亀崎という地域は観光地ではないので、カフェを目的に来てもらうのも少し難しいと思いました。そんなときになぜこの家が建ったのかを考えたら、酒を造るために蔵を建て、その隣に居を構えたわけです。だったら、僕は酒を造るべきなんじゃないかなって」
おいしい酒に感動したことがきっかけになりつつ、懐かしい思い出もある家を残したいという思いから巡って、酒蔵復興への道がスタートした。
だが、就職先はまったくの異業種で、祖父の元へ遊びに来ていたときも酒蔵への立ち入りは禁止で、GWや夏休みは醸造のオンシーズンではなく、酒造りに触れたことはなかった。まったくのゼロから学ばなければならなかったのだ。
木造建築の酒蔵の歴史的価値を残すこと、食が豊かな地域の情報を発信すること
会社員を続けながら、2016年と2017年の冬に1週間ずつ、父と付き合いのあった山形県の鯉川酒造で酒造りを体験させてもらった優さん。返納してしまった清酒の酒造免許を新たに取得することは難しいと分かり、譲渡を検討する酒蔵の情報を集めたりもしたが、希望に合うものはなかなか見つからなかった。それでも2018年6月に思い切って会社を辞め、その冬に愛知県津島市の長珍酒造で蔵人として働いて酒造りを学んだ。その後、委託醸造という手段があることを知り、三重県名張市の福持酒造場に依頼。2020年に19年ぶりの「敷嶋」ができ、「敷嶋0歩目」と命名した。
その間も清酒酒造免許取得は難航したが、「敷嶋0歩目」を飲んだ人から製造免許を譲ってもいいという酒蔵があるという情報が。手続きをしながら、福持酒造場での2度目の委託醸造で「敷嶋 半歩目」も完成。そして2021年3月に製造免許を得ることができ、その直前の1月に買い戻した酒蔵のあった土地で酒造りを始めることになった。
もともとの酒蔵の半分以上の敷地が人の手に渡っていたが、幸いにもというべきか、建物が壊されることはなく、そのままの形で倉庫として使用されていた。「大きな建物なので取り壊すのに莫大な費用がかかるというのがあったかもしれませんが、僕が古い家に惹かれたように、歴史的な価値を感じられてそのままだったかもしれないのではとも思いました」
「(建物を買い戻すための)初期費用がかかってしまったので、正直なところ壊されていたほうがよかったかもという気持ちもあったのですが」と優さんは苦笑したが、「この広さで木造建築というのは日本の他の地域にもあまり残っていない」と、その価値を残していくことを選択した。
酒造りは昔ながらの酒蔵ではなく、1993(平成5)年に建てられた工場を活用している。では、もともとの建物をどうするか。そのままにしておくだけではもったいない。
実は、優さんの酒蔵のすぐ隣に別の酒造会社の酒蔵がある。かつて醸造業がピークだったときには酒蔵が何十軒とあった地域だが、2軒の酒蔵が隣合っているのは珍しかったかもしれない。でも、それを“特色”として“酒のまち”であった歴史を伝えるきっかけになる。そこで、隣の酒蔵と隣接する建物を酒などの物販店舗に、そして中庭が見える建物でカフェ、蔵を活用してレストランと、まずは3つの店舗が集まった複合施設として「伊東合資」をオープンすることにした。
「目的としては、建物を残していくためにお金を回さなくてはいけないというのが根本にあります。それに加えて、この酒蔵がある知多半島は本当に食が豊かな地域で、これだけ醸造のものがそろっている地域は日本でも珍しいですし、近くの海で漁業が行われ、自然豊かで野菜もたくさん採れて、畜産業も盛んで、食に本当に恵まれている地域なんです。でも地元の方は当たり前すぎてあまり意識していない。このままだと内需はどんどんなくなっていくので、名古屋や東京など国内、さらに海外から“外貨”を獲得していく必要があると思いました。ただ、その情報を発信する場所もありませんでしたので、ここから発信していこうと。この地域を支えてきた古くからある建物で、またそこで生産しているメーカーがやるということが大事なことだと思うんです」
酒蔵の中で異なる表情を見せる3つの店舗
伊東合資の3つの店舗を紹介しよう。
まず、敷嶋をはじめとする日本酒や味噌といった醸造ものほか地元の食を集めた販売店「蔵の店 かめくち」。ここは、かつて銀行の事務所だった。大きな酒蔵だけに、銀行や郵便局もあったのだという。その歴史と地元の食が融合した店。日本建築の優美な雰囲気に包まれながら買い物するのは特別感がある。
「Sake Cafe にじみ」では、敷嶋と地元の食材などから作る料理を合わせて楽しんでもらえるメニューを用意。デザートに敷嶋を使ったパフェ、羊羹、アイスもあり、可能性を追求している。
「Restaurant gnaw(ノー)」は、優さんのコンセプトに賛同してくれた料理人の店。“食べたい食材や使いたい食材”を買うのではなく、“目の前にある収穫できる食材”だけで作るというのがここの特長。知多半島のリアルな旬が反映された一皿を堪能できるという。外装はそのまま、内装も扉や太い梁など極力昔のまま残しており、伝統的な建築技術の見応えがある。
本質として酒造りを大切にしながら、地域発展のためチャレンジを続ける
「お酒が本当においしくないと、ファッションにとらえられてしまう」と懸念する優さん。「お酒はおいしくないけれど、建物が立派だから成り立っている、というのではなくて、お酒がおいしくなければ意味がない。どんな企業も一緒だと思うのですが、広告はいいけれど本質のプロダクトが悪かったら、少しはなんとかやっていけるかもしれないですけれど、100年続くかといったら多分難しいかなって」
古い建物を残すことに価値観を見出しつつ、その本質として酒造りを大切にする。伝統と歴史を、長く残していくために。
実は酒蔵の敷地は3000坪ほどあるのだが、活用できていない建物もある。一番古いもので創業から50年ほど経った1830年代のころのものではと推測され、現在の建築基準法に即していないので施設として常時活用することはできないのだ。それを整えるにはやはり資金が必要になり、個人では難しいかもしれないので手段をいろいろと考えていきたいと言う。
伊東合資がスタートして、酒が好きで敷嶋を最近知ったという人、古い建物をキーにして見学に来たという人とさまざまな人に利用してもらっている。そのなかで「敷嶋が復活した、昔好きだったという方もいて、一番多いのは親がよく飲んでいたのを覚えているという層の方がいらっしゃることが印象的で」と優さん。
「そういった意味でも時代をつなぐというか、文化をつむいでいくことが少しでもできているのかなと思います。また、ここに来るために亀崎という地に初めて降り立ったという方も多いです。観光地ではなかった亀崎が前より間口が広がって、この地域を知ってくれた方がたくさんいらっしゃるのは、やってよかったなと思うことの一つです」と喜ぶ。
歴史的なことをひもとくと、江戸時代、伊東合資がある亀崎のほか3つの地区が、50km以上離れた犬山藩の飛び地だったそうだ。そういったことも含めて半田市は今も10の地区に分かれていて、文化的にもそれぞれ個性があるという。また、亀崎地区は地形から半田のなかで最も栄えた港町でもあった。その誇りがある亀崎住民にとって伊東合資となった酒蔵の建物はまちの象徴のひとつだった。9代目ではあるがここで育ってはいない優さんだが、古くからの住人からの熱い思いを受け取ってもいる。だからこそ、亀崎の地域発展を願い、積極的にチャレンジを続けていきたいという。
祖父たちが暮らした家を民泊活用できたら、また酒造り、魚釣り、農業といった“体験”をプラスした観光ツーリズムが実現できないか…。優さんのアイデアが実現すればますます訪れて楽しい地域になっていきそうだ。
取材協力:伊東合資 https://ito-goshi.com/
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