「鉄炮鍛冶屋敷(町家歴史館 井上関右衛門家住宅)」が2024年3月に一般公開

大阪・堺の鉄加工の歴史は古く、全長約 486m の巨大な仁徳天皇陵の造営において、鉄製の農工具が使われたと考えられる。戦国時代になると、織田信長をはじめとした武将に鉄炮を供給し、鉄炮の一大産地として栄えた。

その堺市に、江戸時代の鉄炮鍛冶の作業場兼住居として日本で唯一現存し、堺市の有形文化財に指定されている「鉄炮鍛冶屋敷(町家歴史館 井上関右衛門家住宅)」がある。元禄 2 年(1689年)『堺大絵図』によれば、現在の場所に井上関右衛門が住んでいたことがわかる。

鉄炮鍛冶屋敷は文化財の保存修理工事を終えて、2024年3月に一般公開された。耐震補強なども行っているが、雰囲気を損なうことがないように工夫したという。
鉄炮鍛冶屋敷の歴史を紐解きながら、堺市における鉄炮の歴史をみてみよう。

鉄炮鍛冶屋敷外観鉄炮鍛冶屋敷外観

2万点を超える資料からわかった井上家の歴史

これまで、江戸時代になって大きな戦乱がなくなると、鉄炮鍛冶は廃れたと考えられてきた。
しかし 2014 年に井上関右衛門家住宅の調査が始まり、道具蔵・俵倉と主屋の二階などから、江戸時代から近代までの約 270 年間に作成された 2 万点を超える古文書などをはじめとする資料が見つかった。そしてこれらの資料を調査すると、従来の説とは違う鉄炮生産の歴史が見えてきたのだ。

古文書によると井上家は、天保13(1842)年の段階で、北は陸奥国から南は薩摩国までの61家の大名・旗本と取引していた。特に需要が伸びたのは19世紀前半で、天保10(1839)年には、新調と修理をあわせて280挺を超える鉄炮注文を受注している。

江戸時代になっても、江戸幕府や各藩は有事のために一定量の鉄炮を備蓄していた。また、18世紀後半からは日本近海にも外国船が到来し、対外的な危機意識が高まっていた。こうしたなかで軍備を増強する動きが活発になり、鉄炮の需要も高まっていった。江戸時代を通じては、実戦用の鉄炮の他にも、鹿狩りや鷹狩りに用いるための装飾を凝らした鉄炮を求める大名たちも多かったようだ。

井上家は発注者の希望に叶う鉄炮をオーダーメイドで製造することで、信頼を得ていたと考えられる。

発掘調査から、従来の説とは違う鉄炮生産の歴史が見えてきた発掘調査から、従来の説とは違う鉄炮生産の歴史が見えてきた

井上家の家系図によれば、平安時代後期に武将の源頼季が井上姓を名乗ったのが、当家の始まりだと伝えられている。天正年間(1873~1592 年)に、甲斐国の領主だった加藤家(のちの伊予国大洲藩主)に奉公するようになり、慶長年間(1596~1615)加藤家が米子に移封された際、仕えていた井上家兄弟のうち、炮術家の弟が堺に来て鉄炮鍛冶になったのだという。

兄はそのまま加藤家に仕え、堺に移った弟も、加藤家と深い縁を持ち続けた。当初八兵衛を名乗っていたが、大洲藩二代藩主の加藤泰興から「関右衛門」の名をたまわり、それが通名となった。気ぜわしい性格(せっかち・急く性格)だから「関(せき)右衛門」だというのだ。

江戸時代を通じて、明治 4(1871)年まで、代々加藤家から棒禄を受けており、支給に関する「通」や、附属する木札などが残っている。お正月の挨拶や、藩主の代替わりや結婚に際しての祝詞、お目見えや拝領物に対するお礼など、大洲藩と交わした多くの書状も見つかった。さらに大洲藩からの鉄炮の注文に応えていたこともわかる。さらに、泰興以降の加藤家歴代藩主の位牌を井上家の仏壇に祀っていたことからも、そのつながりがいかに深かったかわかるだろう。

堺の町は、元和元(1615)年の大坂の陣で焼け野原となったが、その後、江戸幕府の地割奉行・風間六右衛門が碁盤の目状に整備し、環濠も掘り直され、一部新たな環濠も生まれた。このころは、徳川家に協力した有力な鉄炮鍛冶「五鍛冶」が中心となって堺の鉄炮鍛冶を統括しており、井上関右衛門はその下で鉄炮を製造する平鍛冶であった。

その後、三代関右衛門正次、四代為次、五代吉次の時代には、中浜一丁目の町年寄をつとめ、享和元(1801)年には吉次が鉄炮年寄に就任した。町年寄は町を統括する役目で、鉄炮年寄は堺の鉄炮鍛冶の代表だから、このころの井上家は、堺の鉄炮鍛冶のなかで大変重要な鉄炮鍛冶と目されていたのだろう。
井上家の敷地は、東側の「中浜筋」から西側の「浜六間筋」までを一区画とする広大なもので、敷地内には、主屋に隣接して座敷棟、敷地西側に道具蔵、俵倉、附属棟等が建ち並ぶ。
当初は表口六間(約 12m)ほどの屋敷だったが、鉄炮鍛冶としての地位が高まるにつれて増築され、江戸後期には現在の表口十七間半(約 35m)まで拡張した。仕上場や鍛冶場で、多くの鍛冶炉が確認されているほか、屋敷内には井戸があり、防火対策もしっかり考えられていたようだ。

明治になると、鉄炮の製造・販売のほかに、弾薬・火薬類の販売や小物金属製品の製造販売、醤油の製造なども手がけるようになった。8 代関右衛門の壽次(1824~1908)は、幕末から明治時代にかけての大きな時代の転換点を鉄炮鍛冶として生きただけでなく、初代堺県知事の小河一敏と交流したり、短歌や茶の湯をたしなんだりと、文化人としても活躍している。

発掘調査から、従来の説とは違う鉄炮生産の歴史が見えてきたみせの間。裕福な暮らしぶりが見てとれる

井上関右衛門家に伝わる展示物

井上関右衛門家に伝わった資料は、古文書などの文献資料以外に鍛冶道具や什器などがあり、実物資料の一部は屋敷内に展示され、テーマごとに年に2回程度企画展を開催している。

式台玄関を入って右手にある土間では、井上関右衛門家と堺の鉄炮製造の歴史に関する紹介映像が流れており、さらに進むと火縄銃の構造がわかる実物展示や、分業による鉄炮製造に関するパネルが並ぶ。商談の場であった「みせの間」では、帳場も再現されている。

床の間や庭、茶室は決して華美ではなく、質実剛健さを感じる。各部屋に展示されているパネルや QR コードを読みながら見学すれば、鉄炮鍛冶の暮らしが想像できるだろう。
鍛冶場では銃身の製造工程が、パネルと映像で紹介されている。

鉄の加工には鍛造と鋳造があり、鍛造は熱く熱した鉄板を叩いて鍛える方法であり、溶けた鉄を型に流し込んで、冷やして成型する鋳造より、一般に強度が高い。筒の中で火薬を爆発させる鉄炮の多くは、鍛鉄で作られている。「瓦金」と呼ばれる鉄板を「真金」という棒に巻き付けた後、継ぎ目がわからなくなるまで鍛える。この工程を「荒巻」と呼び、この作業のみで作られる銃身もあった。さらに頑丈な銃身をつくるときは、そのうえに「葛」と呼ばれる細長い鉄板を巻き付けて、さらに鍛える。この工程を「葛巻」といい、葛を二重に巻いたものもあったという。最後に銃身の内部を研削して、銃身の表面を整形するのだが、多くの場合は八角形に整えられた。銃身ができれば、樫の木などの硬い材木で作られた「銃床(台木)」と、主に真鍮でつくられる機関部の「カラクリ」を装着し、装飾が施された。

鍛冶場の展示はゲーム要素もあり、大人から子供まで楽しめる鍛冶場の展示はゲーム要素もあり、大人から子供まで楽しめる

堺の鉄炮鍛冶の特徴は、分業といえるだろう。鉄炮鍛冶が銃身をつくり、台師と金具師が部品を製造、象嵌師が装飾を行い、鋳形師が玉の鋳型をつくった。それぞれの専門分野で技術を高めたからこそ、堺の鉄炮品質が評価され続けたのだろう。

鍛冶場には、ふいごを押し引きして火の温度を上げたり、リズムに合わせて鉄を鍛えたりと、鍛冶の仕事をゲーム感覚で学べるコーナーもあるので、肩の力を抜いて見学できるのもうれしい。
時代劇で見る鉄炮が、どんな暮らしをしていた人たちに、どのように作られたのか、想像力を膨らませる縁として、鉄炮鍛冶屋敷を訪ねてみてはいかがだろう。

■取材協力
鉄炮鍛冶屋敷
https://www.sakai-machiyamuseums.com/teppoukaji/

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