大阪の盆踊りの唄、河内音頭の源流は「交野節」
お盆には、各地で盆踊りが開催される。
河内で生まれ育った筆者にとって、盆踊りといえば「河内音頭」がつきものだ。「河内音頭」は、八尾の河内音頭など大阪の各地の盆踊りで踊られる。
エレキギターやシンセサイザーなどのにぎやかな伴奏は、まったく「伝統的」ではないが、櫓の上で音頭取りが歌う河内音頭に合わせ、人々は「ずっとむかしっからこうしてきましたんやで」とでもいうように、賑やかに踊る。
河内音頭は「洋楽と浪花節が融合した語り芸」とも言われ、楽譜や歌詞は決まっていない。源流は江戸時代の中期から後期にかけて交野市あたりで歌われていた「交野節」とされる。
河内音頭の特徴は、その演目が少々物騒なところにもあるだろう。たとえば人気演目の「河内十人斬り」は、城戸熊太郎と、舎弟の谷弥五郎が起こした殺人事件を題材にしたものだ。事件の次第を音頭取りがセリフと歌で語るのだが、「人は斬ったが、斬れぬのは人情」などと、子どもに聞かせてよいのか首をかしげるセリフも少なくなく、幼心に「いったい何を聞かされているのだろう」と不思議に思ったものだ。
盆踊りで歌われる歌は、五七五、あるいは七七七五の短い小唄形式のものと、七七や七五調で長い、口説形式のものがある。
一般に近畿地方から西日本は小唄形式と口説形式が共存することが多く、中部地方から東日本は小唄形式で歌われることが多いとされ、河内音頭は口説形式だ。
佐賀県の唐津地方で歌われる「お花くどき」は、実際におきた心中事件を題材にする長い歌詞で、「口と口とは吸い花葛 臍と臍とはちゃごの仲 腿と腿とは摺り合わせ池」と、なまめかしい歌詞がちりばめられている。盆踊りは本来「大人のための祭」だったことがわかるだろう。
盆踊りの意味と由来、そして地域ごとの盆踊りをみていこう。
盆踊りのルーツは平安時代の空也上人の「踊念仏」
一説には、盆踊りのルーツは平安時代にまで遡る。
空也上人といえば、ただひたすらに南無阿弥陀仏を称える「称名念仏」を始めたことで知られるが、太鼓や鉦を打ち鳴らして、踊りながら念仏を唱える「踊念仏」も創始したとされる。これが時代とともに、盆踊りへと変化したというのだ。空也上人創建の六波羅蜜寺には、儀式としての踊躍念仏が伝わっており、国の重要文化財に指定されている。
さらに鎌倉時代の一遍上人は、全国を行脚して踊念仏を庶民にまで広めた。本来の踊念仏は宗教性の高いものだったが、これが民衆に受け入れられると、芸能性が重視され、太鼓と唄に合わせて踊るようになる。
本来の盆踊りには、死者や先祖を供養する意味があった。たとえば豊橋市の吉田神社の盆踊りのように、笹を手にして踊る場合は、笹は依り代。死者や先祖が降臨するための目印とされる。
しかし時間が流れ、人々がさまざまな解釈を加えるうちに、盆踊りの存在意義も変化した。
お祭りでお面をかぶるのは、踊りの輪に死者が混じっていても気づかれないためだとも説明されるが、森鴎外は『ヰタ・セクスアリス』の中で、「(盆踊りは)表向きは町のものばかりというのであるが、皆、頭巾で顔を隠して踊るのであるから、侍の子がたくさん踊りに行く。中には男で女装したものもある。女で男装したものもある」と書いているから、近年では、むしろ生者が正体を隠すために仮面をかぶったという方が、実態に近いと考えられる。
というのも前近代ごろまで、盆踊りの後は、集まった男女が入り乱れる場となることが多かったようなのだ。森鴎外はこの後に「あそこ(盆踊りの会場となった山)にゃぁ、朝行ってみると、いろいろな物が落ちておるげな」と笑い合う男たちの会話を聞き、「穢い物に障ったような心持ちがした」と表現している。
民俗学者の折口信夫は、櫓を中心に、円を描くように踊るのは、記紀神話の「天の御柱廻り」の形式が遺存しているのだとする。神話では、最古の夫婦であったイザナギとイザナミが天の御柱を廻ったあとに契りを結ぶのだ。この説もまた、盆踊りの「後のこと」からの発想だろう。
しかし、限られた面積の中で踊り続けようとすれば、円を描くのがもっとも効率的だから、この形に深い意味を考えるのは無意味かもしれない。
現代に至ると、盆踊りは夏休みの子どもたちの楽しみ、あるいは町内の親ぼくを深めるための行事という一面が強い。
日本三大盆踊り「阿波踊り」、「西馬音内盆踊り」、「郡上おどり」。諸説ありで、もうひとつ「姫島の盆踊り」
日本三大盆踊りは、秋田県羽後町の「西馬音内盆踊り」岐阜県郡上市の「郡上おどり」徳島市の「阿波踊り」あるいは大分県姫島村の「姫島の盆踊り」とされる。
毎年8月16~18日に開催される「西馬音内盆踊り」は、「音頭」と「がんけ」から構成される。
「音頭」は優雅で抑揚のある踊りで、1番と2番を交互に繰り返して踊るもの、「がんけ」はテンポが速く、輪を描くように回転する動きが特徴的だ。がんけの回転は輪廻転生を意味するともされ、「亡者踊り」と称される。
踊り子たちは4~5種類の絹布を左右対称に組み合わせた「端縫い」か、男女兼用の「藍染め」の着物を身に着けるが、「端縫い」は格式が高く、踊りが上手になったと認められるまで着用を許されない。
しかし、着物以上に特徴的なのが、頭にかぶる編み笠と、彦三頭巾だろう。編み笠は半月型で、前後の端が大きく反っている。彦三頭巾は袋状の覆面で、目の部分に穴を開けたもの。これをかぶるときは藍染の着物を着用し、鉢巻をして頭巾を留める。
西馬音内盆踊りのお囃子は、寄せ太鼓、音頭、とり音頭、がんけの4種類ある。寄せ太鼓はその名の通り、集合を呼びかけるもので、太鼓が連打され、早いリズムで笛が吹かれる。踊りには「音頭」と「とり音頭」が演奏されるが、地口と呼ばれる唄とともに演奏される音頭に対し、とり音頭は笛が主役で、哀調のあるメロディだ。音頭からとり音頭へ、とり音頭から音頭へと何度も移行する。そして祭の最後は、がんけだ。がんけの囃子は「甚句」が唄われる。
郡上おどりでまず踊られる「かわさき」は、「郡上の八幡 出ていく時は 雨も降らぬに 袖しぼる」の歌い出しで有名。伊勢市の「河崎音頭」が郡上市に移入したのが始まりとされる。7月中旬から9月上旬にかけて30夜以上にわたって続く、盛大な祭りだ。
「春駒」や「三百」「やっちく」「げんげんばらばら」「さわぎ」など10種類の踊りがあり、衣装は決まっていないが、下駄を鳴らして調子を高めるのが特徴とされる。上半身はTシャツでも構わない。とにかく「足には下駄」なのだ。
徳島の阿波踊りは「えらいやっちゃ、えらいやっちゃ、よいよいよいよい」の掛け声で知られる。
この踊りには、400年以上の歴史があり、二拍子の伴奏が、三味線、太鼓、鉦鼓、篠笛などによって演奏され、「連」と呼ばれる踊り手たちが町内を踊り歩く。
男踊りは着流しスタイルと法被スタイルがあるが、着流しでも法被でも、下半身は短パンで、鉢巻をしめて足袋を履く。女踊りはゆかたの上にすそよけを巻き、手には白い「手甲」をつける。そして頭には編み笠をつけ、帯は黒、足には利休下駄を履く。
毎年8月12日から15日の4日間、徳島市中心街に設けられた演舞場で開かれ、近年はインバウンドの外国人観光客も増えたようだ。
姫島の盆踊りは、念仏踊りの名残があるとされ、伝統踊りと創作踊りがある。伝統踊りはキツネ踊り、アヤ踊り、銭太鼓、猿丸大夫などがあるが、とくに有名なのはキツネ踊りだろう。
子どもたちが顔を白塗りにしてヒゲを描き、ユーモラスな仕草で踊る。
「おわら風の盆」、「綾渡の夜念仏」、「有東木の盆踊り」、「白石踊り」、「中山いさい踊り」、「中野駅前大盆踊り大会」
富山県の「おわら風の盆」もよく知られている。始まりは元禄時代に。長らく失っていた「町建御墨付文書」が戻ったことを喜んで、三日三晩踊ったことが起源とされるが、哀調を帯びた気品のある踊りだ。
愛知県の「綾渡の夜念仏」は、平勝寺を中心に行われる盆の行事で、新仏の出た家を訪れて、月明かりの中で鉦の音とともに念仏を唱和し、手踊りを披露するもの。本来の「先祖供養」の意識が強く残った盆踊りといえるだろう。
静岡県「有東木の盆踊り」は、男踊りと女踊りがあり、交互に踊られる。伴奏は太鼓のみ。踊り手はササラやコキリコと呼ばれる楽器を鳴らしながら踊る。国の重要無形民俗文化財にもなっている
岡山の「白石踊り」は、源平水島合戦の戦死者を弔うために始まったとされる歴史のある踊りだ。男踊り・女踊り・娘踊り・笠踊り・奴踊りなど、13種の踊りがあり、一つの音頭にそれぞれの踊りがあてられる。
明治時代に帰化したラフカディオ・ハーンこと小泉八雲は、来日して間もなく、鳥取県中山町の「中山いさい踊り」に遭遇する。八雲が「言葉などではとうてい描写することのできない、何か想像を絶した夢幻的な舞踊」とまで絶賛したいさい踊りは、太鼓を中心に、囃子に合わせて静かに、優雅に踊るのが特徴だ。月の下で輪になって踊る様をみて「自然の心に近い心をもった人たち」と書いている。
東京では「中野駅前大盆踊り大会」が知られている。有名歌手がゲストとして招かれ、たくさんの人が集まる。地元・中野区の「中野音頭」を始め、日本全国の民謡盆踊りを、中野区民謡連盟の生演奏で踊ることができるようだ。
それぞれの土地の文化が垣間見える盆踊りは、いわばお盆行事のクライマックス。
各地の有名な盆踊りを見物に、あるいは踊りに行くのもよいが、地元で盆踊りが開催されているなら、覗いてみてはいかがだろう。
■参考資料
桜楓社『盆踊くどき』成田守著 昭和50年7月発行
作品社『盆踊り 乱行の民俗学』下川 耿史 著 2011年8月発行
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