軍艦島の研究が未来への視座に繋がる

建築家の中村享一さんは長崎市飽の浦で生まれた。日本の近代をリードした三菱重工長崎造船所のある場所だ。軍艦島(正式名称は端島だが、以降軍艦島で統一する)は中村さんが大学生の頃に閉山、その当時のメディアのかわいそう一辺倒の報道に違和感を覚えたという。

「高校時代、高島高校(軍艦島を含む高島炭鉱の拠点となっていた島にあり、1989年に閉校)のバレー部は非常に強く、背の高い選手揃い。小さな島の中でもパワフルに育っていたのだろう。早くから家にテレビなどがあり、近代を早くに経験、都市レベルの高かったエリアで、それが離散する、廃墟化する、悲惨といわれているのが不思議でした」。

長崎港から望む三菱長崎造船所。中央に見えているのがジャイアント・カンチレバークレーン。100年以上現役で使い続けられている(2023年撮影)長崎港から望む三菱長崎造船所。中央に見えているのがジャイアント・カンチレバークレーン。100年以上現役で使い続けられている(2023年撮影)
長崎港から望む三菱長崎造船所。中央に見えているのがジャイアント・カンチレバークレーン。100年以上現役で使い続けられている(2023年撮影)かつての軍艦島の賑わい。スーパーもあれば、周辺からモノを売りに来る人達もいたそうだ 写真提供(一社)長崎県観光連盟

軍艦島に再会したのは1991年。中村さんはすでに建築家になっており、その年、JIA日本建築家協会のオープンデザインコンペに参加した。テーマは長崎の都市の再構築。中村さんは未来の長崎を考えるにあたり、過去の長崎を振り返った。

「長崎にある日本の近代化に寄与した場所をプロットしてみたところ、それらが一直線に並ぶことに気づいたのです」。

その場所とは出島、三菱重工長崎造船所のある飽の浦、三菱重工総合研究所があり、当時、世に先駆けて風力発電の実験が行われていた香焼(こうやぎ)、高島、軍艦島である。これらに共通するのはエネルギー。石炭、石油、風力である。

「エネルギーが都市を変えると考えています。高島、軍艦島の石炭から石油へ、そしていずれは風力へ。そう考えるとこの配置には長崎の再構築を考えるヒントがあると思ったのです。その頃は風力発電事業は夢物語、ビジネスにはならないと言われていましたが」。

中村さんは埋立てを行う代わりに石油掘削機能を除去した石油掘削船を港に浮かべて、掘削船の居住区等施設をコンベンションの核施設とし、長崎都心部に環境産業を起業することで都市の再構築を図るという提案を行い、銅賞を取得。その時から軍艦島を研究し、学ぶことで未来への視座が得られるのではないかと思うようになった。

長崎港から望む三菱長崎造船所。中央に見えているのがジャイアント・カンチレバークレーン。100年以上現役で使い続けられている(2023年撮影)島の西側、住宅が並んでいた側を船から見たところ。上陸するのはこの反対側からになる(2021年撮影)

電気、換気扇の無い時代に作られた、軍艦島の逆流しない給排気機能

もうひとつ、軍艦島の建築としてのレベルの高さへの驚きも研究を推進する力になった。

「今は崩壊の危険があって立ち入れなくなってしまった30号棟に入った時、建物中央の吹き抜けから7層を見上げ、この給排気システムは凄いと思ったのです」。

30号棟は鉄筋コンクリート造(RC造)の高層住宅として日本で最初に建てられたもので、当初は4階建ての計画だったものを最終的には7階建てにして1916(大正5)年に完成している。2023年時点で築107年である。

鉄筋コンクリート造自体は明治20年代半ばから日本に入り始めており、日本で最初にRC造で作られたのは琵琶湖疎水にかかる橋で1903(明治36)年のこと。その後、橋、船渠や倉庫などと広く使われるようになり、30号棟が作られた頃には東京都心のオフィス街丸ノ内でもRC造のオフィスビルが建てられるようになっている。丸ノ内の14号館は1913年、21号館(当時国内最大のRC建築)は1914年の竣工で、そのすぐ後に当時の最先端技術が炭鉱のために作られた離島、軍艦島で使われた。

上から見た30号棟。中央に吹き抜けがあるのが分かる。2023年11月にコンクリートの劣化調査を行う上陸に同行させていただいた折の写真で、長崎市の特別な許可を得て撮影。東京大学の野口貴文教授が屋上の劣化の状況を解説(2023年撮影)上から見た30号棟。中央に吹き抜けがあるのが分かる。2023年11月にコンクリートの劣化調査を行う上陸に同行させていただいた折の写真で、長崎市の特別な許可を得て撮影。東京大学の野口貴文教授が屋上の劣化の状況を解説(2023年撮影)

「コンクリートの技術も凄いのですが、同様に石炭産出と電灯以外に電気が使えない時代に同じところにキッチンがある住戸を縦に積み、煙突を利用して屋上から排気、逆流しないようにしていた。現代のように電気があり、換気扇を使ってでも難しいことをそれがない時代に実現していた。当時であればその技術はヨーロッパの共同住宅にしかないはず。軍艦島の建築技術は欧米に肩を並べるものだったと知ったのです」。

30号棟には図面がないとされており、誰が設計したかは分かっていない。ただ、炭鉱を経営していた三菱(途中で社名が変わるなどしているため、中村さんの著書では三菱で統一されている。ここではそれにならう)が直接設計、施工したことは確か。技術としてすごいことに加え、三菱の社内にはそれだけの技術、ノウハウが蓄積されていたのである。

「三菱には明治から大正期にかけ、曾禰達蔵、保岡勝也、本野精吾、内田祥三、桜井小太郎ら、綺羅星のごとき建築家が所属した」(「海の上の建築革命」より)

分業が進む今の時代とは全く違う時代だったのである。ちなみに30号棟の後、一般に日給社宅と呼ばれる住宅以降はほとんどを現在の清水建設が手掛けている。

上から見た30号棟。中央に吹き抜けがあるのが分かる。2023年11月にコンクリートの劣化調査を行う上陸に同行させていただいた折の写真で、長崎市の特別な許可を得て撮影。東京大学の野口貴文教授が屋上の劣化の状況を解説(2023年撮影)過酷な環境の中で近代的な生活を実現するために選択されたRC造だが、長年放置された結果、崩壊もあり得るほどに劣化している。長崎市の特別な許可を得て撮影(2023年撮影)

軍艦島には世界に先駆けた近代都市計画があった

コンクリート、給排気などの技術の高さという建築的な意義に加え、都市になるべく30号棟の建築が始まったという点も先進的だと中村さん。

「30号棟は計画当初、4階建ての計画でしたが、最終的にはその当時、ほとんどなかった7階建てになっています。これは土地の少ない軍艦島で建物を高くすることで平らな空地を作ろうとしたものと考えられます。そして、そうやって生み出した土地に児童公園、映画館、プールなどを作り、コンパクトながらも都市の機能を備えたまちにしていったのです」。

作られたのは建物、公園などだけではない。人の交流やコミュニティの活性化なども図られていた。

「1913年から高島炭坑長に就任した日下部義太郎は就任前に欧米を視察、ニューヨークやシカゴで多くの高層建築物を視察しています。それが軍艦島の高層、高密な都市設計に繋がっていますし、欧米で感じたまちの核に宗教があるという意味も理解して帰ってきました」。

そこで社長に依頼、禅宗の僧侶を軍艦島に派遣してもらい、労働者の生活を精神面から安定させる環境を整え、後日、寺院を建設しました。働いて稼ぐだけではまちは成立しないのです。さらに幼稚園や日曜学校などを開くなど教育面の充実を図る、婦人会などの交流や催事を積極的に行っています。物心両面からの環境整備を図ったわけです」

高層住宅の中庭に当たるところには子どもの遊び場なども作られた。写真提供(一社)長崎県観光連盟高層住宅の中庭に当たるところには子どもの遊び場なども作られた。写真提供(一社)長崎県観光連盟

「フランスのトニー・ガルニエが近代的都市計画に大きな影響を与えた働く場、生活する場や道路、鉄道、港湾施設その他からなる『工業都市』を提案したのは1904~1917年のこと。でも、それがリヨン市で実現するのは1934年。軍艦島での30号棟に始まるまちづくりはそれに先行しているのです」

島の生活を向上させることが生産を向上させた

住宅という意味では建物の躯体は当時の最先端のRC造ながら、その内部は普通の日本の住宅だったという点も興味深い。

「30号棟もそれ以外の住宅も、その昔木造で建てられていた炭鉱住宅と同じ間取りで、6畳間中心の日本の住宅。押入れがあり、かまどがありました。起居様式は労働者に合わせて、でも構造体だけを欧米からの技術で作っていたのです。

新たにインテリアを運んでくるより、それまで島にあった資材を中に入れてしまうほうが効率的、現実的だったということもありますが、建物に合わせて使い方も洋風にというオフィス、同潤会住宅に比べると違いは大きい。

軍艦島では建物は住む人に合わせて利用され、他では住む人が建物に会わせていた。軍艦島ではローカライズが進んでおり、それもまた、働く人にとっての暮らしやすい環境整備のひとつ。生活が成り立たないと離島での石炭採掘はなりたたない。生活と産業は表裏一体だったのです」

住宅内部。畳、木部は劣化していたものの、間取りには限られた面積を上手に使うための工夫もあった。長崎市の特別な許可を得て撮影(2023年撮影)住宅内部。畳、木部は劣化していたものの、間取りには限られた面積を上手に使うための工夫もあった。長崎市の特別な許可を得て撮影(2023年撮影)

軍艦島では働く人の生活をより良くするために住宅や暮らしだけでなく、働く仕組み自体も刷新された。それが納屋制度と呼ばれる間接雇用から直接雇用への転換である。

納屋制度では納屋頭、現在でいうところの人材派遣会社が労働者を集め、炭鉱から払われる給料から派遣手当、居住費、食費、革靴、衣類等の諸経費を差し引いて労働者に支給するという仕組みになっており、中間で大きな搾取が行われていた。住居も納屋頭の管理下に暮らす合宿形式で、狭い部屋に多人数が暮らす過酷なもの。

だが、その状況で生命の危険と隣り合わせの鉱山労働者の確保は容易ではなかった。軍艦島でも何度かのストライキが行われ、その結果、納屋制度は廃止され、三菱は直接労働者を雇用せざるを得ないことになった。その後も台風による浸水被害で死者が出るなど環境が厳しいことが知れ渡るにつれ、リクルーティングは難航。それが軍艦島の住環境、雇用環境の水準を大きく押し上げることになった。生活レベルを上げることが産業の振興に繋がったわけである。

住宅内部。畳、木部は劣化していたものの、間取りには限られた面積を上手に使うための工夫もあった。長崎市の特別な許可を得て撮影(2023年撮影)島の東側には石炭採掘に関わる施設がまとまって立地している(2023年撮影)

コンパクトシティづくりのお手本「軍艦島」

鉄筋が重量を支えられなくなり、ぐにゃりと曲がっている場所をしばしば見かけた。長崎市の特別の許可を得て撮影(2023年撮影)鉄筋が重量を支えられなくなり、ぐにゃりと曲がっている場所をしばしば見かけた。長崎市の特別の許可を得て撮影(2023年撮影)

軍艦島の過去を知った上で、中村さんはそこに学べることはたくさんあると考えている。

「たとえば、限られた土地を上手に使うためのノウハウに学ぶという観点があります。高低差のある土地を無駄なく使うため、軍艦島では住宅の共有廊下が外部斜面地の階段と繋がっており、外の通路を通って他の建物に移動することができました。土地と建物が一体になっていたのです。これを真似れば、建物間の空中に道を作り、それを路地とするというやり方があり得ます。軍艦島のように屋上に幼稚園、庭を作るという考え方も参考になるでしょう」。

もっと大きくは都市と建物、都市と建築家を切り離さないという観点もある。「海の上の建築革命」を読むと分かるのだが、軍艦島も含め、その昔の建築家という人たちが担当していた領域は今より遥かに広く、逆に土木専門の人達が建築を手掛けていたりもする。一部のデザインだけでなく、まち全体を見て建築を考えていたのだということが実感できるのだが、それに対して今はどうか。

「現在の建築という言葉は範囲が狭くなっているように思います。本来は建築家は都市を鳥瞰して構成を読み解くところから始める仕事でアーバンデザインのカテゴリも含まれると思っています。ところが、特に日本では建築の形に重きが置かれているような気がしています」

都市を見るだけではなく、社会の変化、将来を見ることも大事である。日本の建築は海外に比べて寿命が短いといわれるが、それでも何十年も存在するものである。であれば、今だけでなく、建物が建ち続ける何十年か先も考える必要がある。それだけの年数が経てば技術も進化するだろうし、まちや生活も変る。

1994年に竣工、2011年からシェアハウスとして使われている中村さんのかつての自邸・一宇邨(いちうそん。福岡市)は調湿機能や断熱性能に配慮した素材等の開発、使用やプライベートに配慮しつつもコミュニケーションの取れる可変性の高い間取り、将来を考えたエコシステムの導入などが特徴で、それらはいずれも建物が長く使われることを考えたもの。シェアハウスが一般的でなかった頃に建てられた住宅がシェアハウスとして使われ続けていること、国際的な交流が生まれていることなどを考えると、将来を見据えた建築であることの重要性が分かるというものである。

クロスリアリティで軍艦島の生活を残すという活動も

軍艦島ではコンクリートの劣化が進み、建物によっては崩壊の可能性も指摘されている。それをどう遺していくかの議論が行われているが、中村さんは10数年前ならいざ知らず、今の軍艦島は臨終状態と保存議論には距離を置く。

「遺せという声を多く聞きますが、保存が何を生むのか、真剣に考えていないように感じています。今の状態から保存するためには税金を大量に投入する必要がありますが、その投資をこれからの都市づくりに反映させる議論は行われていません。

観光に資するという人もいますが、フランスのように観光を文化レベルにまで押し上げられれば投資も回収できるかもしれませんが、見かけ倒しの観光では難しい。

それに役所が保全工事の発注者となった場合、事業費は高くなる。優秀な協力者を集めきれず、高い費用を投じて無駄なことになりかねません」

軍艦島ではコンクリートや塗膜などの強度などについての実験が続けられており、それがいずれより高強度のコンクリートに繋がっていくかもしれない。長崎市の特別な許可を得て撮影軍艦島ではコンクリートや塗膜などの強度などについての実験が続けられており、それがいずれより高強度のコンクリートに繋がっていくかもしれない。長崎市の特別な許可を得て撮影
軍艦島ではコンクリートや塗膜などの強度などについての実験が続けられており、それがいずれより高強度のコンクリートに繋がっていくかもしれない。長崎市の特別な許可を得て撮影30号棟。2021年に訪れた時よりも劣化が進んでいた。長崎市の特別な許可を得て撮影(2023年)
著書とともに中村さん。飽の浦のご実家を利用したゲストハウスで取材を行った著書とともに中村さん。飽の浦のご実家を利用したゲストハウスで取材を行った

現在、中村さんはリアルな軍艦島を残すのではなく、島での日常生活をクロスリアリティー(XR)で再現する国際プロジェクトに参加している。XRは仮想現実(VR)と拡張現実(AR)といった現実の世界と仮想空間を融合して新しい体験を作り出す技術の総称。ひと昔前はゲームなどエンターテインメント分野での活用が中心だったが、現在は他の分野でも実用化が進んでいる。

「The Hashima XR Project」は東京大やイギリスのケンブリッジ大、ロンドン大学の研究者のほか、VRのデザイナーや建築家などが参加。1970年代の軍艦島を再現しようとしている。それによって軍艦島を通じて日本の近代化を理解、立ち入りが制限される軍艦島に触れられるようにしようというのである。2023年11月には長崎市でシンポジウムも開かれた。

軍艦島の今後は今のところ、誰にも予測できていないが、少なくともXRが完成すれば、歴史を知り、それを未来に繋げるツールは生まれることになる。まずはそこに期待。その上で日本の近代を知るために重要な存在である軍艦島のこれからがどうなるか、やきもきしたいところである。

最後に中村さんの著書「海の上の建築革命」について。これは九州大学の博士論文がベースとなり、追記して書籍にしている。膨大な資料から軍艦島以前の長崎の建築技術の話から始まり、軍艦島の完成までが詳細に語られている。軍艦島関連の書籍のうちでは異色であり、建築や都市計画などに関心のある人には読み応えのある1冊。軍艦島を訪れる予定のある人、訪れたことのある人はもちろん、ない人にもお勧めしたい。


■端島XR
https://thehashimaxrproject.org/
■海の上の建築革命 近代の相克が産んだ超技師の未来都市<軍艦島> 亡羊社
https://bouyousha.com/archives/720

公開日: