個性派ブルワリーが、タンチョウ舞う釧路湿原のそばに誕生

釧路湿原に囲まれた北海道東部の鶴居村。村中心部から車で約5分走った場所にある、旧茂雪裡(もせつり)小学校に、今日も地元住民や観光客がビールを求めて足を運んでいる。廃校の体育館をリノベーションした醸造所「ブラッスリー・ノット」だ。見た目は学校そのもの。今でも校庭や校舎からは子どもたちの声が聞こえてきそうだ。

今にも子どもの声が聞こえてきそうな旧校舎今にも子どもの声が聞こえてきそうな旧校舎
今にも子どもの声が聞こえてきそうな旧校舎かつての教室には、校訓や教育目標が貼られたままで、鹿のはく製も置かれている
醸造工場の中では教卓が活用されている醸造工場の中では教卓が活用されている

ブラッスリー・ノットの代表は、クラフトビール界で広く知られた醸造家の植竹大海さん。専門学校を出て埼玉県川越市の「コエドブルワリー」のメーカーに就職し、栃木県下野市の「うしとらブルワリー」や北海道上富良野町の「忽布古丹(ほっぷこたん)」のメーカーで経験を積み、カナダ・トロントでもヘッドブルワリーとして活躍した。

植竹さんが「造り手を育てたい」という思いを抱いて独立を模索していたところ、鶴居村が活用方法を模索している廃校と出会い、次世代にビール造りをつなぐ事業をスタートさせた。

2004年、81年の歴史に幕を閉じた旧茂雪裡小学校。校舎は基本的に当時のままで、体育館が工場として再整備され、2022年8月に「ビールの学校」として醸造がスタートした。

もともと体育館のステージだったスペースは直売所となり、かつてランドセルを入れていた教室の棚や机を活用している。タンクのそばで酵母の状態をチェックするテーブルには、教室にあった教卓が使われている。

今にも子どもの声が聞こえてきそうな旧校舎直売所の什器として使われる、かつてランドセルを入れていた棚

ブームから文化へ。最大の課題は「醸造家がいない」

カナダ・トロントでヘッドブルワーとしてビールを作っていた植竹さんカナダ・トロントでヘッドブルワーとしてビールを作っていた植竹さん

植竹さんは専門学校で微生物学や生化学を学び、科学的な分析を通してビールを造ることを得意としていた。各地のメーカーで醸造を任され、定番商品を丁寧に造り込むことや、新しいアイデアを次々と形にしていくこと、ホップなど国産原料の近くで仕込むことなどを、それぞれの場所で経験。製造だけでなく酒税管理や経理から、機器の設計、輸出、営業、栽培補助まで幅広い引き出しを手にしてきた。醸造では経験や勘に頼らないスタイルを確立。ゼロから立ち上げるノウハウも手にしたため、各地の醸造所や起業予定者らに重宝されてきた。現在はコンサルティング事業も手がけ、全国から相談が舞い込んでいる。

そんな中で課題に感じていたのは、ブームと言えるほどクラフトビールの醸造所は増えているのに、醸造家が不足して「文化」に発展させられていないことだった。「肝心の造り手の育成が追いついていない」と痛感した植竹さん。「工場新設の話の7割ほどは『醸造家を紹介してください』という要望があるほどです」

植竹さんの脳裏には、1990年代以降に起こった「地ビールブーム」がある。新しいご当地の土産物などとして注目されたが、醸造技術や造り手による説明と発信、理論的な土台、ターゲットの設定などが成熟しなかったことで、今ではブームとしては落ち着いたと植竹さんは見ている。それに代わり、今はクラフトビールが脚光を浴びている。だからこそクラフトビールを文化に昇華させたいという思いは強い。

「ブームは終わるもので、流行っているから飲むという側面があります。意識せずに続いている状態が文化だと捉えています」

そのためにも、ビール造りについて地に足をつけて学び、確かな技術と経験のある造り手を世に送り出すことが欠かせないと思ったという。各地のブルワリーを渡り歩き、相談を受けるにつれて、後進を指導することへの思いが募っていった。

カナダ・トロントでヘッドブルワーとしてビールを作っていた植竹さん醸造家を育てることへの思いを語る植竹さん

決め手の1つは湧き水。理想の体育館と、温かい地域との出合い

学びたい人を受け入れる場所をつくろう。そう考えたとき、頭に浮かんだのは新婚旅行で初めて訪れた北海道だった。もともとアウトドアや釣りが好きで、憧れがあったことも手伝った。道内を見渡すと太平洋側の道東地域が空白地帯で、大型倉庫などさまざま物件を見て回った。醸造タンクは重量物で高さがあるため、「体育館のようなものが一番いい」と周囲に語っていたところ、鶴居村から情報が寄せられ、運命的な出会いを果たした。

廃校という要素以外にも、ここを選んだ決め手はあった。都市部でブルワリーを造れば客足の心配は小さくなるが、地方だからこその利点も多くなるという。最大のポイントの1つは、製造の絶対条件である水が確保されること。茂雪裡地区では、阿寒湖周辺からの軟水の湧き水が安定して確保でき、造りたいビールに合わせた水質調整ができた。

鶴居村の人口は約2,500人。これまで植竹さんが暮らしたどの自治体よりも少ないため、不安はゼロではなかった。ただ人口が4,000人ほどの北海道北部の美深町でもブルワリーが誕生しており、その挑戦に背中を押されたという。

北海道美深町の、築90年の赤レンガ倉庫が日本最北のクラフトビール醸造所に。白樺樹液ビールがつなぐ、人と地域

改修前の体育館。天井までの高さがあり、大型の醸造機器を設置するのに最適だった改修前の体育館。天井までの高さがあり、大型の醸造機器を設置するのに最適だった
改修前の体育館。天井までの高さがあり、大型の醸造機器を設置するのに最適だった現在の醸造工場の様子。所々に体育館として使われていた当時の面影が残る

鶴居村は施設を無償で貸与して応援した。村発行のふるさと納税のカタログでは、数ある特産品のトップバッターとしてブラッスリー・ノットのクラフトビールが紹介されている。

植竹さんは、この茂雪裡地区で3回、村議会に向けて2回、村全体で1回の説明会を開き、ビールを通じて活気が生まれることを伝えた。地元の人たちにとって思い入れの深い学校を借りることから、地域との結び目になるように汗をかいた。

ブラッスリー・ノットの完成は地域に喜ばれ、自然と応援される関係になったという。敷地面積は約1万4,350m2と広大だが、大型の除雪機械は所有しておらず、冬は隅々まで除雪することはできない。そこで大雪が降ったときには近隣の農家のトラクターがやって来て、除雪をしてくれるという。

個性はあっても主張しない。初めてでも、観光客でも味わいやすく

「ノット(knot)」とは結び目を意味する。植竹さんはクラフトビールを主役にすることや、品質や味だけを主張することを望んでいない。例えばキャンプやスポーツ観戦といった他のカルチャーと結びつけて、手元にあると楽しくなるような嗜好品として位置づけている。そのためあえて個性を際立たせないよう、棘(とげ)を消した風味に仕上げているという。「クラフトビールを飲んだことがない方でも2杯目以降もストレスなく、飽きが来ずに飲めるようにしています」と話す。

かつての体育館は、醸造所にした際に新たな壁を設け、窓越しに見学できるようにした。植竹さんはこれまでの経験で、小規模ブルワリーでの見学対応は現実的に難しいものの、ニーズがあることを感じ取っていた。「どうやって造っているのか興味のある人は多いはずで、観光地としても注目されやすい。1人で来ても自由に見てもらえるよう、設計段階から見学通路を考えていました」。壁にはビール造りの工程などが分かる説明パネルを置いた。

醸造工場に接する通路に設けられた説明パネル醸造工場に接する通路に設けられた説明パネル

また、クラフトビールを楽しむ「文化」を意識して、瓶よりも手軽な缶で販売。車での持ち帰りを考慮して、ビールの運搬に適した水筒「グラウラー」に注ぐことで割安で購入できるようにした。

ブラッスリー・ノットでは首都圏へ大量に出荷することは目指しておらず、実際に小売店の売り上げは道東エリアで約5割を占めている。植竹さんは「道東の『地ビール』として、まずは地元の人に認知されて、地元で消費されるのが一番」と言う。

村内の多くの飲食店ではブラッスリー・ノットのビールが飲めるようになっていて、地元の鹿肉などと合わせて楽しめるという。また徒歩圏内に住む住民で、週に何度もグラウラーを手に買いに来る人もいる。「ここでは自然な感じで、地元の素材と地元のビールがあります。『クラフトビールだから』と意識せずに通ってくださる方もいる。だからあえて『地ビール』と言いたいです。足元では文化ができているのかもしれません」と植竹さんは笑う。

醸造工場に接する通路に設けられた説明パネル直売所に並んだ缶ビール。道東地域限定の「DOTO」もある

道東にほれ込んだ移住者たちと、どれだけ面白いことができるのか

ブラッスリー・ノットの直売所の売り上げは想定の倍ほどと好調で、根室市や知床方面からも足しげく通う常連客もいるなど人気が定着しつつある。ノットのスタッフは2023年4月現在で8人だが、全員が本州から移住した。アウトドアをはじめ、仕事以外の鶴居村でのライフスタイルに魅力を感じているという。

道東地域の雄大な自然のなか、釣りを楽しむブルワリーのスタッフ道東地域の雄大な自然のなか、釣りを楽しむブルワリーのスタッフ

そして2023年からは、1人目の研修生を受け入れ、ビールの学校として新たな一歩を踏み出した。植竹さんは「ビール造りだけではなく、経営のイロハや融資を受ける事業計画の作り方など包括的に伝えていきたいと思います」と意欲を見せる。

ただ、植竹さんが教えたいのは知識やノウハウだけではない。地域でビールを造り、その文化の担い手としての心構えも大切だという。「体調の悪いときに良い仕事ができないように、ストレスなく、気持ちよく働くことが何より大事です。ビール造りは、1人では何もできません。近隣や自治体の方々に応援してもらえるように、良い人間関係を築くことに労を惜しまない人に育ってほしいです」

植竹さんにとっての「地域活性化」は、人口や訪れる人の増加とは違う。「濃い人たちが集まってその場所をどう面白くするか、ということが重要だと思います。研修に来る人にも鶴居や道東を気に入ってもらい、ビールを取っ掛かりにして地域を面白くしていってほしいです」と言う。

旧茂雪裡小学校の広い校庭は今も使われないままで、近くに住む住民からは「ビアパーティーでもしたら?」という提案が寄せられているようだ。早くも地域に根差し、新しい文化を育んでいる「ビールの学校」。取材を終えてノットの地域限定ビール「DOTO」で喉を潤すと、次々に面白いことが起きそうな予感がした。

道東地域の雄大な自然のなか、釣りを楽しむブルワリーのスタッフ道東を拠点に、ビールを通して地域を面白くしたいという植竹さん

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