中越地震を機にまちの景観、建物を見直す機運
新潟県第二の都市・長岡市に摂田屋(せったや)という地域がある。長岡市の地方創生推進部が作っているホームページによると語源は接待屋(せったいや)。現在、最寄り駅である信越本線・上越線の宮内駅がある場所に神社があり、参詣する人や旅人を接待する場所として名づけられたそうで、室町時代から文献に登場しているという古い地名だ。
江戸時代には上野の寛永寺に寄贈されて江戸幕府の直轄領(天領)となり、御領地として醤油・味噌、清酒の醸造業が発達した。
長岡市中心部は幕末の戊辰戦争、その後の第二次世界大戦(長岡空襲)で壊滅的な被害を受けたが、摂田屋はそうした被害に遭わなかったため、今でも歴史を感じる建物が多く残されている。長岡市内に40件ある国の登録有形文化財のうち、17件が摂田屋エリアに集まっていると聞けば、古い建物好きはわくわくするのではなかろうか。
だが、保存の動きが起こり始めたのは意外に新しく、きっかけとなったのは2004年の中越地震。摂田屋も被災し、蔵の壁にひびが入るなどしたのだが、そこからの復興のシンボルとなったのが現在、摂田屋の観光の目玉となっている旧機那サフラン酒製造本舗(以下機那サフラン酒)の「鏝絵蔵」である。
地元の人たちは震災後に「NPO法人醸造の町摂田屋町おこしの会」を設立、地区に残る歴史的な建造物をはじめとする景観の保護保存活動を始めるのだが、そのひとつに機那サフラン酒の建物、敷地があった。そのうちでも目を惹く鏝絵蔵は2006年に登録有形文化財に登録され、地震から4年後に全国から寄せられた復興基金で修復された。
その後も同会は建物内の清掃、敷地内の草取りなどを続け、2013年には「機那サフラン酒本舗保存を願う市民の会」を設立、同年には一般公開を始めている。
ここにしかない、盛り盛りの鏝絵
「長岡市内はもちろん、広く関心を持っていただきたいと作家の荒俣宏さん、建築家で近代建築史が専門の藤森照信さんもこの存在をメディアでご紹介され、そうした活動の結果、2018年に長岡市が敷地を購入、建物の寄贈を受けて市の所有となり、少しずつ手が入るようになりました」と登録有形文化財建造物修理にかかる設計監理の技術指導資格をもつ、長岡造形大学造形学部建築・環境デザイン学科の津村泰範准教授。
摂田屋の歴史の中では機那サフラン酒は比較的新しい事業者。かつ醸造とは多少離れた分野なのだが、分かりやすいシンボルということで取り上げられるようになったのである。
サフラン酒は明治から昭和にかけて一世を風靡した薬用酒。アルコール度数14%の、今でいえば甘いリキュールである。製造を始めたのは文久3(1863)年に古志郡(現在は長岡市)に生まれた農家の次男坊、吉澤仁太郎。長岡の薬種屋で働いて漢方を学んだ後に明治20(1887)年に薬用酒を造り始め、明治27(1894)年に摂田屋に移転。約9,000m2の敷地に屋敷を構え、今に残る邸宅群の建造をスタートしている。
「敷地内には10棟の建造物があり、石垣も含めて11件の文化財として登録されています。これだけの数の建物が残されていたこと自体が希少ですが、特徴はとにかく自分の好きなものばかりを集めて作った型にはまらない、自由闊達な伸びやかさ、勢い。整然と統一された美しさとは別の、ここにしかない生き生きした風景があります。たとえば庭を見ると溶岩を使ったり、中国風の彫刻があったり、奇岩、自作という灯篭が混在していたり。
特に唯一無二なのが鏝絵です。ここの鏝絵はいわば一発芸。そもそも、鏝絵の専門家が作ったものではありません」。
大分県宇佐市安心院(あじむ)、富山県射水市小杉、静岡県松崎町の伊豆の長八など他に知られる場所の鏝絵は左官職人が手掛けており、摂田屋に比べると平坦で日本画的。ところが、摂田屋の鏝絵は「凸凹で攻めており、陰影が強い」と津村さん。鏝絵蔵を彩る十二支をはじめとする17種の動物・霊獣や9種の植物は近寄って眺めてみると確かに他にないほどボリュームたっぷり、盛り盛りである。
フレンチトラスの小屋組が目を惹く吉乃川「醸蔵」
作ったのは近所に住む商人で、吉澤仁太郎の友人でもあった河上伊吉。富山県に修行に行き、まずは大正5(1916)年に建てられた主屋の隣にある衣装蔵で腕試しをし、それでOKとなったのだろう、続いて大正15(1926)年完成の鏝絵蔵を手がけている。この蔵は店舗、事務室に使われていたそうだが、玄関前の目立つ建物でもあり、主屋入り口の看板とともに宣伝効果も狙った建物といえそうである。
派手な鏝絵蔵をはじめとする機那サフラン酒以外にも摂田屋には見るべき建物が多数ある。たとえば道を挟んだ向かいには日本酒吉乃川の「酒ミュージアム醸蔵」がある。
これは関東大震災のあった大正12(1923)年に建てられた常蔵を改装したもので、かつては酒の瓶詰作業が行われていた場所。燃えない、地震に強い建物にしたいものの、柱は立てない大空間をできるだけコスト、期間もかけずに建てることを模索した結果生まれた鉄骨によるフレンチトラスの小屋組が見ものだ。伝統的な薄暗く、圧迫感のある蔵を想像して入ると圧倒的なボリュームの空間にびっくりすることになる。
SAKEバーや売店の他、映像やデジタル技術で酒造りや歴史について紹介する展示スペースなどがあり、日本酒だけでなく、クラフトビールも提供されている。飲む人にはもちろん、飲めない人にも楽しい空間である。
木造のクラシカルな醤油蔵・越のむらさき
摂田屋のその昔の姿を今に伝えるのは天保2(1831)年創業の醤油蔵、越のむらさきのある一画。明治10(1877)年に建てられた木造2階建ての主屋、やはり2階建ての土蔵、煉瓦の煙突にお地蔵さんがあり、時代ものの映画やドラマの舞台を思わせる雰囲気がある。工場が稼働している平日に訪れるとあたりには醤油の香りが漂ってもおり、このまちらしさを感じる。
煉瓦の煙突はかつてはもっと高かったそうだが、中越地震時に上部が損壊、現在は建設当初の2/3ほどの高さになっている。当時から煉瓦の煙突は使っていなかったそうだが、それでも残されているのは醸造業のシンボルとしてということだろう。建物内には昭和10(1935)年の見事な看板も残されており、事前に予約しておけば工場見学もできる。
面白いのは越のむらさきと向かいのお稲荷さんとの間の旧三国街道が市道だということ。建物、タンクが両脇に並び空中にパイプラインが通る市道というのも珍しいのではないかと津村さん。絵になる市道である。
それ以外では少し離れたところに1886(明治19)年に建てられた木造2階建ての主屋、大正時代に建てられた煉瓦の麹室がある長谷川酒造、1882(明治15)年に建てられた土蔵造り3階建ての味噌蔵星野本店、星野本店から明治後期に曳家されたという味噌蔵星六の土蔵などがあり、いずれも文化財に登録されている。星野本店の前には昭和30年代まで実際に使われていたという木の醤油桶が置かれてもいる。
もうひとつ、建物という意味での見どころとは違うが、戊辰戦争時に長岡城が落城するまで藩の本陣が置かれたという光福寺も近くにある。長岡藩といえば幕末期に活躍し、小説や映画でも知られる河井継之助が有名だが、彼は新政府軍との交渉決裂後、この寺で戦いを宣言したのだとか。長岡の歴史を知る人であれば興味を惹かれる場所だろう。
こうした場所をのんびり歩いて回っても所要時間は1時間ほど。もちろん、途中で味噌や酒などを買っているともう少しかかるが、それでも歩いて回るにはちょうどよいコンパクトなまちで、途中にはすばらしい木造住宅などもある。
発酵文化を軸に食で地域振興「宮内摂田屋method」
さて、この摂田屋で新しい動きがある。それが「宮内摂田屋method」という発酵のまちならではの歴史、文化を活かし、食で地域を変えようという活動だ。
「新潟県で30~40代女性1,200人を対象に、あらゆる酒の種類の中でふだん、食事中にどの酒を飲んでいますかというアンケートが行われました。新潟は日本酒王国です、だから日本酒を飲む人が多いと思いたいところですが、食中に日本酒を飲んでいる人はわずか3%だけでした。
一方で1位になったのは缶チューハイ、2位は果実酒。どちらも甘い酒です。それが何を意味しているか。こういった甘い酒に合うのは唐揚げやフライドポテトなどしょっぱい、油っこい食べ物です。つまり、食生活が乱れているから甘い酒が選ばれるのではないかと考えました。
だとしたら食を変えていくことで食中酒として日本酒を見直し、再発見してもらおう。発酵食品の存在を意識してもらおう。それが宮内摂田屋method。醸造を通じた文化で地域振興を考えています」とミライ発酵本舗株式会社の統括マネジャー・斎藤篤さん。
ミライ発酵本舗は冒頭で紹介した機那サフラン酒を本拠地に活動するまちづくり会社。地元の高田建築事務所の会長・高田清太郎さんが代表を引き受け、蔵元、商店主その他多くの賛同する人たちが集まって動き始めており、現在は摂田屋6番街発酵ミュージアム・米蔵の管理運営、観光情報発信をしながら、地域に食の新しい体験ができる場を少しずつ増やしている。
その第一弾が拠点となっている米蔵。吉澤仁太郎は摂田屋に移り住んで以降近隣の田畑や宅地を購入して大地主になっており、米蔵はその田畑で収穫された米などを貯蔵するために使われていた。昭和初期頃には2,300俵もの米が貯えられていたとか。
そこに長岡市が手を入れて2020年10月にオープン。米や味噌などの地元食材を生かしたメニューを出すカフェ6SUBI SETTYA(むすび摂田屋)、発酵について学べるラボ、長岡出身の絵本作家・松岡達英さんの絵本コーナーがあるほか、コンサートやお茶会などのイベントも定期的に開催されている。
和菓子カフェ、カジュアルフレンチと飲食店増加中
続いて2022年7月に越のむらさきの前経営者の自宅を改装した江口だんご摂田屋店がオープンした。江口だんごは明治35(1902)年に創業した老舗団子店で、新潟といえば多くの人が想起する笹だんごを中心に各種だんご、和洋菓子を扱っており、本店も古民家を改装した風情あるもの。
摂田屋では古民家をカフェに、蔵を地元の産品その他を扱うショップにしており、店頭ではその場で作りたてのみたらしだんごをテイクアウトすることもできる。カフェは広い庭を眺めながらのんびりできると評判で、すでに新しい名所になっている。ショップには地元を中心とした産品が一堂に集められており、これまでの摂田屋に無かった土産物店として希少な存在。
「ここを目的に来ていただくためにはちょっと休める、落ち着いて時間を過ごせる場所を作るのは大事なこと。レストランもそうですが、滞在時間を延ばす施設を作ることが来ていただいた方の満足度を上げます」と斎藤さん。
そして、同年10月には機那サフラン酒のすぐ隣にカジュアルフレンチレストラン5en(ゴエン)が誕生した。シェフは中澤壮一さん。長岡市の旧島田小学校をリノベーションして2012年にオープンした「和島トゥー・ル・モンド」のレストランBague(バーグ)で、2020年にミシュランガイドでビブグルマンを獲得している。普通のフレンチでは味噌や醤油などといった和の発酵食材はあまり使わないものだが、この店では地元の食材と合わせて使われる。
斎藤さんたちが考える日頃の食生活を見直すところから発酵に目を向け、このまちの文化に共感してもらうという流れが確実に生まれつつあるのである。
実際、摂田屋を訪れる人は増えている。この4年間で来街者は年間8,000人から5万人ほどに増え、コロナ禍明けの2023年4月には前年の2割増、5月は3割増、ゴールデンウィークに至っては6割増だったという。
観光地化ではない地域振興、建物の残し方にも課題
確実に来街者が増えている摂田屋だが、観光地化することが目的ではないと斎藤さん。
「観光は手段であって目的ではありません。観光地化には反対する人もいますし、摂田屋は実際にここで醸造などの営みが行われている場所です。
ただ、たとえば冬場の雪を溶かすためには道路に湧水を流すのですが、その費用は通りに住んでいる人の人数で分担します。これまで10人住んでいた通りが5人になると負担は2倍に。そうならないためには発酵を軸に若い人たちに入ってきてもらう必要があります。実際、古民家、空き店舗、空き地はたくさんあるのです」
取材の最後にピアノを弾いてくださった斎藤さん。このピアノ、実は長らく放置されていたもので、最初はひどい音だったという。だが、弾いているうちに少しずつ音が変化してきたという。手を入れることで価値は変わるということであるまた、文化財も含めて古民家の活用にはどこまでやるかという問題があると津村さん。特に今後の摂田屋を活性化していくためには機那サフラン酒の未整備の建物をどうしていくかがポイントになる。だが、近代の文化財改修に明るい人は少ないという。
「重要文化財である神社仏閣を中心に研究、実際の修復などを手がけている人は多いのですが、そうした建物は保存すればよく、用途変更はあり得ません。ところが、民家の再生、特に登録有形文化財の場合は保存だけではなく、活用を考えて改修、用途が変わるのは当たり前です。その場合、どこまで歴史を残して使えるようにするか、バランスが大事です」
官あるいはお金のある民が入るとやり過ぎることがある。特に官の場合は安全性を重視するあまり、せっかくの趣ある建物を壊して作り替えたようにつるつるぴかぴかにしてしまいがち。そこまで安全にこだわり過ぎずとも、やりようはある。
「主屋、離れのような大きな建物の場合、たとえば内側にもうひとつ骨格を作れば外壁を大きくいじらずに安全を担保できますし、現在鏝絵蔵と屋根でつながっている主屋もほんの少し離せば大規模建築物にはならず、改修しやすくなります。昨今活用にも寛容になってきた重要文化財に指定され、より適切に補助を受けるという手もあるはずです」。
長岡市中心部では重なる戦災で失われてしまった土地の歴史をかろうじて伝える摂田屋エリア。その魅力をより高めるためには何をどうするべきか。関係者も多いだけにどれが正解かはすぐには分からないが、より多くの人の知恵が混ざり合うことで継続性の高い、良い結果が生まれてくることを祈りたい。
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