「わらべうた」には歌われる地域の風習がみえる

子どもたちの遊び歌は自然発生的なものが多く、だからこそ謎めいている。たとえば「かごめかごめ」は、その歌の内容が謎めいており、神秘性がいろいろと都市伝説も生んでいる。

かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀がすべった 後ろの正面だあれ

「夜明けの晩」「後ろの正面」といった反語をつなげた言葉や、「鶴と亀」という縁起の良い動物が「すべる」という表現から、何か怖い意味が籠められているというのだが、自然発生的な歌ゆえに、その意味は誰にもわからない。
「かごめ」とは、籠を六つ目編みで編んだときにできる網目のことで、「籠目紋」は、いわゆる六芒星のことだ。屋外で鶏の雛を飼育する際に「鶏籠(ひよこかご)」が使われていたから、ひよこが成鳥になるのはいつかという意味にもとれるが、『新講 わらべ唄風土記』の著者である浅野健二氏は、「かごめ」は「かがめ」が訛ったものだとする。「鶴と亀がすべった」も、輪になって鬼を取り囲んでいる子らすべてがしゃがむ、単なる合図の言葉というから、拍子抜けに感じる方もいらっしゃるかもしれない。

わらべうたは遊び歌や子守り歌、歳時の歌などがあり、歌詞からは、歌われた地域の歴史や風習が窺い知れる。この記事では、日本各地のわらべうたを見てみよう。

かごめかごめは、中央のオニが目をつむって、その周りを歌をうたいながらまわり、歌が終わると同時に後ろの相手をあてる遊び(写真はイメージ)かごめかごめは、中央のオニが目をつむって、その周りを歌をうたいながらまわり、歌が終わると同時に後ろの相手をあてる遊び(写真はイメージ)

日本中ある「かぞえ歌」

日本中にあるのが、手鞠つきやお手玉・羽根突きをするときなどに歌う、いわゆる「かぞえ歌」だ。
全国的に歌われているのは、

いちじく にんじん さんしょにしいたけ ごぼうにむくろじ
ななくさ はつたけ きゅうりにとうがん


むくろじ以外は料理に使われる身近な野菜で、子どもにも馴染みが深かったのだろう。
関西では、以下のようなてまり唄がある。

ひとめ ふため みやこし よめご いつやの むさし
ななやの やつし ここのや とおや


「みやこしよめご」は「都からやってきたお嫁さん」の意味だろう。「やつし」はおめかしすることで、語呂を数え数字に合わせているだけではあるが、なんとはなしに華やかな雰囲気がある。
これに対し、関東の数え歌はいなせに感じさせられる。

一人来な 二人来な 見て行きな 寄って来な いつ来て見ても 
ななこの帯を やの字に締めて ここのようで一丁よ


六がないように思えるのだが、「見ても」の「み」が「む」にかかるようだ。
そして岩手には人の一生をなぞらえた数え歌が伝わっている。

お手玉二十一 三十振り袖 四十島田 五十おばさん茶筅髷
六十爺さん長羽織 七十そめそめ 八十もみ出し 九十九かんの百貫づき


寒さが厳しい地方では、生きることそのものに関心が集まるのだろうか。未婚の若い女性が着る振り袖を、三十歳の女性が着るのは一般的ではないから皮肉めいた歌ともいえる。子どもたちがどんな思いで歌っていたのか、興味深い。

てまり唄には、数えも入る歌も多いてまり唄には、数えも入る歌も多い

もっとも土地柄を感じる歌のひとつは、徳島のてまり唄だろう。

一つかえ 柄杓に笈擦杖 巡礼姿で父母を 尋にょうかいな
二つかえ 補陀落岸うつ三熊野の 那智さん 小山は音高う 響こうかいな
三つかえ 見るよりお弓は立ち上がり 小盆に精の志 進上かいな
四つかえ ようこそ巡礼廻らんせ 定めし連れ衆は親御たち 同行かいな
五つかえ いえいえ私は一人旅 父さん母さん顔知らず 逢いたいわいな
六つかえ 無理に差し出す草鞋銭 少々ばかりの志 進上かいな
七つかえ 泣く泣く別れる我が娘 伸び上がりすり上がり見送って 去なそうかいな
八つかえ 山越え海越え谷を越え 艱難して来た我が娘 去なさりょかいな
九つかえ 九つなる子の手を引いて 十郎兵衛館の表口 連れ込もかいな
十かえ 徳島浄化の十郎兵衛は 我が子と知らずに巡礼を 送ろうかいな


数の後に続く言葉が「ひぃふぅみぃよぉ」となっており、韻が踏まれている。十郎兵衛は浄瑠璃節の「傾城阿波鳴門」に登場する徳島の浪人で、我が娘のお鶴が苦労して尋ねてきたときは親を名乗らずに帰す。しかしその後、道でお鶴と出会い、気付かずにこれを殺してしまったという。
このように、土地に伝わる伝説も、わらべ歌として伝わっている。

切なさのこもった「竹田の子守歌」「五木の子守歌」

子守歌も全国的に歌われた歌だ。
江戸時代から明治時代、貧しい家に生まれた子どもは、裕福な商家や豪農へ奉公に出た。丁稚や小僧として下働きをこなすのだが、少女は子守りに携わることも多かった。
そうした少女たちが、赤ん坊を寝かすために歌ったのが子守り歌で、親もとを離れて働く娘たちの、寂しくも切ない気持ちが籠められたものも多い。
中でも切なさがこもっているのが、合唱歌としても知られる「竹田の子守歌」だろう。

守もいやがる 盆から先にゃ
雪もちらつくし 子も泣くし
早も行きたい この在所越えて
向こうに見えるは 親のうち


京都市伏見区で歌われてきた歌で、親のうちに帰りたい子守り娘の気持ちが痛いほど伝わってくる。江戸時代から明治時代には、京都府南部でも盆過ぎから雪がちらついたのだろうか。それとも薄い着物を着せられた少女にとって秋以降の風は冷たく、雪が舞うかのように感じられたのだろうか。
五木の子守歌の歌詞も切ない。熊本県の人吉地方で歌われた歌だ。

おどま盆ぎり 盆ぎり 盆から先ゃおらんど
盆が早よくりゃ 早よもどる
おどまかんじん かんじん あん人たちゃよか衆
よか衆ゃよか帯 よか着物


奉公の子どもたちはお正月とお盆には親元に帰ってよかったので、「早くお盆が来ないかな」と歌っているのだ。またかんじんとは物乞いのことで、自分たちは物乞いのようだ、他の人はよい着物を着て、よい帯をしている、とうたっているのだから、子守娘たちの待遇が偲ばれる。竹田も五木も、生活の大変さと親元から離れる悲しさが歌われており、農村の厳しい暮らしが背景にあるのだろう。

奈良の子守歌は悲惨さを感じさせるほどではないが、まだ幼い娘にとって、子守りが大変な仕事であったと感じさせるものだ。

ねんねころいち 寝た子は可愛い
起きて泣く子は 面憎いョ


この後に、

面の憎い児はまな板に乗せて、切ってはやしてのの様へ

と続ける場合もあり、寝かしつける必死さが伝わってくる。「のの様」とは仏様のことで、「寝ないと仏様のお供え物にしてしまうよ」と脅している。

五木村の子守唄の少女像五木村の子守唄の少女像

もちろん切ない子守歌ばかりではなく、子守りと赤ん坊の絆を感じさせるものもある。
江戸で歌われた子守歌は、微笑ましい歌だ。

坊やはよい子だ ねんねしな
ねんねのお守りはどこへ行た
あの山越えて 里へ行た
里の土産に何もろた
でんでん太鼓に笙の笛
起き上がり小坊師に 振り鼓


子守り娘は里に帰っても赤ん坊のことを忘れず、お土産まで買ってきている。
世話する子を可愛いと思ってこそだろう。
暮らしぶりが安定していた江戸では、待遇の良い奉公先も少なくなかったようだ。

同じく暮らしぶりが悪くなかった大阪の船場にも、独特の子守歌が残っているのだが、江戸とはまったく趣が違う。

ねんねころいち 天満の市で
大根そろえて 船に積む
船に積んだら どこまで行きる
木津や難波の橋の下
橋の下には かもめがいやる
かもめ捕りたや 竹ほしや
竹がほしけりゃ たけやへござれ
竹はゆらゆら 由良のすけ


なぜこれが子守歌なのか、解説が必要だろう。
江戸時代、難波村は地元に市場を開くための広報活動をしていた。この歌は、難波村から子守り娘として船場に奉公した娘たちが歌ったもので、娘たちはコマーシャルソングを歌わされていたわけだ。竹田や五木と比べると、大阪の気質というか、文化というか、ある種の図々しさのようなものを感じないだろうか。

五木村の子守唄の少女像子守りのお土産として子守歌に歌われた「でんでん太鼓」。子どもをあやす玩具のひとつ

各地で歌われた「正月の歌」

歳時の歌の中でもっともめでたいのは、なんといっても正月の歌だろう。愛知では、

正月は ええもんだ
赤いべべ着て 羽根ついて
譲りの葉のよな 餅食って
雪のような まま食って
木片のような 魚添えて


などと歌われた。
京都では「正月来い来い」、島根では「正月さんはええもんだ」などと多少歌詞が違うが、ほぼ同じ内容の歌が伝わっており、日本人にとって正月は、とにかくめでたい日だったようだ。
ユニークなのは長崎の正月歌だ。

赤とバイ 金巾(かなきん)バイ
赤とバイ 金巾バイ
オランダさんから もろたとバーイバーイ


これは長崎の遊女が、オランダ人から異国の布をもらったという意味だとされ、異国人の多い長崎ならではのわらべうたといえる。

長崎新地中華街で中国の旧正月(春節)を祝う行事の春節祭が拡大した「長崎ランタンフェスティバル」長崎新地中華街で中国の旧正月(春節)を祝う行事の春節祭が拡大した「長崎ランタンフェスティバル」

日本書紀から登場する童謡(わざうた)

子どもが何気なく歌う歌に深い意味を感じるのは、昔の人も同じだったようだ。日本書紀にも不気味な童謡(わざうた)が登場する。崇神天皇が即位して10年目のこと。大彦が北陸に派遣され、現在の天理市あたりへやってきたとき、

御間城入彦(みまきいりひこ)はや 己が命を死せむと 窃(ぬす)まく知らぬに姫遊(ひめあそび)びすも

と、少女が歌うのを聞いた。御間城入彦は日本書紀における崇神天皇の呼称だから、「崇神天皇は命を狙われていることも知らず、姫と遊んでばかりだ」という意味になる。この歌を聞いた大彦は天皇のもとへ引き返し、何を意味しているのか占わせた結果、謀反が企まれているとわかったという。また、天智天皇が都を近江に遷したときも多くの火事が起こり、童謡が流行したと書かれている。子どもが何気なく歌う歌は、うわさ・予兆でもあったのだ。

子どもたちが無邪気に歌う童謡には、その土地の歴史や文化・風習などがひっそりとまぎれ込んでいる。
子どものころにどんな歌を歌っただろうか。思い返してみれば、自分の生まれ育った土地への愛着が、強まるかもしれない。

行燈山古墳の崇神天皇陵行燈山古墳の崇神天皇陵

■参考
柳原書店『新講わらべ唄風土記』浅野建二著 1988年5月発行
岩波書店『わらべうた』町田嘉章・浅野建二編 2003年5月発行

公開日:

ホームズ君

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