一時的なUターンのはずが、人との出会いで大転換

ブックカフェの外観は元の呉服店のままだブックカフェの外観は元の呉服店のままだ

茨城県大洗町の商店街に不思議なブックカフェがある。ブックカフェにもかかわらず店の看板には「婦人ファッション・呉服」とあり、営業日数も月に数える程度だ。しかし、その営業日を狙って近隣からたくさんの客がやって来るという。イベント実施日など、多い日は約100名が来店することもある。看板は呉服店だが、店内に入ると本がたくさん並んでいる。

この店のオーナーは、株式会社Coelacanth(シーラカンス)の代表・佐藤穂奈美さんだ。不動産関連の業務も行っていて、普段はそちらの仕事に追われているそうだ。親族の介護のためコロナ禍直前の2020年に大洗町へUターンし、2021年からブックカフェを運営することにもなった。もともとは大洗町で生まれ育ち、大学進学を機に東京に出て、そのまま就職していた。「Uターンする前は、まさか自分が本屋を経営することになるとは思いませんでした」と佐藤さん。

Uターン直前まで佐藤さんが働いていた職場は、神奈川県鎌倉市にある株式会社エンジョイワークスという不動産会社だ。「みんなで一緒にまちづくりを」をテーマに顧客とスタッフが共に自分事として不動産・建築の分野で事業を展開している。当初は、親族の介護施設入所が決まれば落ち着くだろうと考え、数年後には復職する相談もしていたそうだ。

ところが茨城県に暮らして地元の人たちと出会うなかで、考えが変わったという。魅力的な人が多く、一緒に何かしたいと考えるようになったからだと佐藤さん。「30歳を過ぎるといろいろな年代の人と話すことができて、地域の魅力が理解できるようになりました」と言う。彼女の知っていた大洗町や茨城県は高校生までのもので、多世代の大人たちとじっくり話したことがなかったのだ。

ブックカフェの外観は元の呉服店のままだブックカフェで佐藤さんがにこやかに出迎える

自分の好きなものをテーマにイベントを開催

佐藤さんは「コミュニティづくりは手数が多く遠回りでしたが、結果的に、人脈が広がり、仕事につながっていきました」と自身の会社を立ち上げた当初を振り返る。営業スタッフがいなくても仕事が順調に入り、優秀な外部ブレインも集まってきたそうだ。

大学でまちづくりを学び、卒業後はUR(独立行政法人都市再生機構)に就職した佐藤さん。佐藤さんの業務は都市開発から建てるまでで、運営にまで携わることはなかった。しかし佐藤さんは、運営にも責任を持ってこそ建築だと考えるようになり、エンジョイワークスに転職。同社の川上から川下までの実務を担い、コミュニティづくりの重要性を学んだ。

大洗町へのUターンは、コミュニティの事業化について試す場でもあったと佐藤さんは言う。しかし、高校卒業後に地元を離れてしまったため、当初は地域とのつながりがない現実に直面した。

そこで最初に取り組んだのは、自分が好きなことをすることだった。それは、焚き火をしながらの読書会。当時、ジャック・ロンドンの『火を熾す』という小説を読んだのがきっかけで、焚き火に興味を持ったからだそうだ。コロナ禍でオンラインミーティングが増え、物足りなさを佐藤さんは感じていた。余白がないのだ。焚き火のそばで食事をして語らい、沈黙を含めてのコミュニケーションのほうが、五感を使って人と知り合える。また読書会は、本を通して婉曲的に相手を知ることができ、そういう距離感を大事にしたいと佐藤さんは考えた。

佐藤さんはコロナ禍に大洗サンビーチのボランティアに何度か参加した。写真は「風にころがるTシャツ展」のプロジェクト佐藤さんはコロナ禍に大洗サンビーチのボランティアに何度か参加した。写真は「風にころがるTシャツ展」のプロジェクト

2020年の夏、時間に余裕のあるときには、大洗サンビーチでボランティアに取り組んだ佐藤さん。
「コロナ禍で海水浴が禁止されたビーチで、図書館をやろうという企画がありました。そこでの設営作業の傍ら、地域の人に私がやりたい焚き火と読書会のイベントコンセプトを伝えました。すると大洗町観光協会の会長のご紹介で、元酒蔵の場所を借してもらえることになったのです」と興奮気味に語る。

さらに一緒にやろうという人も現れた。その人は本の出版もするぐらい本が好きな人。急に都会から帰って、コロナ禍で友達もできないだろうからと、ボランティア先の人たちも告知の拡散を助けてくれた。
焚き火と本のイベントは、豊かな時間になったと佐藤さんは振り返る。参加者との心の距離が心地よく、また結果として、木こりの若い男性が参加するなど、新しい人脈が広がるきっかけにもなったそうだ。

佐藤さんはコロナ禍に大洗サンビーチのボランティアに何度か参加した。写真は「風にころがるTシャツ展」のプロジェクト本を持ち寄って、焚き火をしながら読書する

ブックカフェをつくることで起業を決意した

箱を組み合わせたレイアウト。いつでも変更できるメリットがあるそう箱を組み合わせたレイアウト。いつでも変更できるメリットがあるそう

焚き火と本のイベントは回を重ね、コンセプトに共感した人から「常設の場をつくろうよ」と提案があった。佐藤さんは、大洗町に根を張ると決意して、母親のつながりで、現在の物件を見つけた。「かつては呉服屋さんで、学校指定のジャージや制服もここで購入しました。まさにUターン者のアドバンテージでした」と佐藤さんは笑顔で語る。シャッター通りとなった商店街でも、オーナーは知らないよそ者には貸したくないというケースも多い。今回はお母さまの紹介が決め手だったようだ。

さて佐藤さんは、物件が見つかったのを機に起業した。目指すは、地方でチャレンジする人をサポートする会社だ。茨城県の地域課題解決補助金に採択され、その資金で製材所からたくさんの板を買い、店舗のリノベーションに充てた。移動もできる収納箱のようなボックスをいくつも作り、空間に自由に配置できるようにした。そして2021年4月22日にブックカフェ「BOOK & GEAR 焚火と本」がオープンした。

「事業計画を作った時点で不動産業もやることを想定していたので、実際はプレオープンでしたが…」と佐藤さん。
「本屋のイベント自体は、手間がかかり、あまり稼ぐことはできません。しかし自分のコンセプトと世界観を伝えられ、結果として不動産関連の仕事につながっていきました」と続ける。
自分の好きなものをアウトプットした事務所にしようと考えた結果、ブックカフェになったそうだ。

箱を組み合わせたレイアウト。いつでも変更できるメリットがあるそう自分の好きな書籍をそろえることで、佐藤さんを知ってもらえる機会になっているとか
好きな焚き火セットを置くことで、アウトドアの話で盛り上がるそう好きな焚き火セットを置くことで、アウトドアの話で盛り上がるそう

ブックカフェという場ができたことで、佐藤さんの周りには人が集まるようになった。

茨城県は県外からの移住者も多く、大手電機メーカーやその関連会社などのエンジニアが転勤でやって来る。エンジョイワークス時代の知り合いから、友人が茨城に転勤になるので会ってくれないかという話もあったそうだ。転勤で来た人は、人とのつながりを求める人も少なくないという。会社と家のほかにサードプレイスを求めているのだろう。
ブックカフェということもあり、入りやすく、営業日には1日平均10人以上がやって来る。イベントの内容よりも、とりあえず行ってみると、いろいろな人とつながれると期待を持って集まって来るそうだ。

箱を組み合わせたレイアウト。いつでも変更できるメリットがあるそうクラフト作りなどのイベントも開催する

コミュニティがあるから、仕事もやってくる

案件は、大洗町だけではなく茨城県の全域に及ぶ。こちらは県内の結城市のプロジェクトにて案件は、大洗町だけではなく茨城県の全域に及ぶ。こちらは県内の結城市のプロジェクトにて

ホームページだけだと人柄が伝わりにくいので、不動産の相談をするには躊躇する人もいるかもしれない。しかしブックカフェであれば、とりあえず行ってみると、佐藤さんのフランクな姿に安心できて、気軽に何でも相談もできると好評だ。ユニークな不動産案件が持ち込まれることも。

「なかには、私の名刺を数枚持っている地元の電器屋さんのおじさんがいて、空き家で困っていそうな方にその名刺を渡してくれています。『相談に行ってみたら?』と勧めてくれるのです」と佐藤さん。
「地方では、知らない人には不動産を貸したくないという人も多いです。だから私を知ってもらうために開かれた場を設けました。結果、域外の人ともマッチングできるようになりました」

佐藤さんへの依頼案件は、不動産だけではなく、その周辺領域へと広がっている。例えば行政から、「地域と接続をしてほしい」という依頼もある。その意味は、「箱モノ行政」と言われて久しいが、現在はいかに建物を地域に運用してもらうかのソフト面も重要視されており、そのノウハウを提供してほしいということである。佐藤さんの会社、シーラカンスの事業ドメインは、不動産やブックカフェのほかに、移住定住、まちづくり、空き家再生、暮らし体験コンテンツ制作、起業支援と多岐にわたる。不動産を軸にニーズが広がっていて、直近では茨城県結城市での宿泊事業のプロデュースも担っているそうだ。

案件は、大洗町だけではなく茨城県の全域に及ぶ。こちらは県内の結城市のプロジェクトにてプロデュースを担っている結城市の宿プロジェクトのイメージイラスト

カスタマイズした空き家再生で、付加価値をつくりだす

サーファー向けの賃貸住宅に向けて改修工事中サーファー向けの賃貸住宅に向けて改修工事中

佐藤さんは次のフェーズに向かおうとしている。会社の新しい事業として、不動産のサブリースを進めている。「茨城カスタマイズ賃貸」といって、オーナーから空き家を借り受け、佐藤さんの会社で修繕工事をしたうえで、客付けと管理もするというものだ。

現在は、大洗町の浜辺近くの民宿だった建物の修繕に取り組む。週末、東京から来るサーファーが前泊・後泊するために転貸する。サーファーにとって魅力的なものをヒアリングして、寄り添うリノベーションが進んでいて、例えば、屋内にサーフボードを置けるスペースを設けたり、2拠点生活になるのでワンルームのシンプルな設備にとどめて家賃を抑えている。借りたい人のニーズを吸い上げ、設計に落とし込んでいるのだ。

これらの事業は、会社の安定収入につながり、外部ブレインを正社員として迎えることが可能になった。また、エンジョイワークスが手がけるような不動産ファンド事業をやりたい人とも出会い、新しいプロジェクトになりそうだと佐藤さんは期待する。

サーファー向けの賃貸住宅に向けて改修工事中ゴミ屋敷になっていた空き家をリノベーションして、壁を取っ払い広くした。床も無垢にしてナチュラルな雰囲気に
海に近い漁師が多く暮らす一角は、今後空き家が増えていきそうだとか海に近い漁師が多く暮らす一角は、今後空き家が増えていきそうだとか

「今後は、空き家を世界の人にも使ってもらわないと先はありません。日本が世界の中でどういう位置づけかという国際感覚が必要です。日本は安くて近くて面白いアジアですから」と佐藤さん。

茨城県は東京からのアクセスが良い。だから手軽にできるローカル体験とリトリートスポットに適していると佐藤さんは続ける。大洗町の空き家を借り上げて民家として貸すだけでなく、将来的には海外からのゲストが長期滞在できる宿泊施設にもしていきたいと抱負を語る。

一度故郷を離れて帰って来るUターン者がいることは、地域に新たな知見をもたらし、地域の活性化につながる。佐藤さんのようなUターン者をいかに取り込むかが、今後は地域の重要なファクターの一つになるかもしれない。

公開日:

ホームズ君

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