川床のある水の社「貴船神社」
暑い夏には、川風をあびながら涼しく食事ができる川床が人気だ。
鴨川はよく知られているが、近年は各地で川床が創設されているようだ。たとえば大阪府では北部にある箕面川だけでなく、オフィス街のど真ん中である北浜でも川床が実施されている。奈良の猿沢池でも2017年に「池床」が実験的に開催されている。
鴨川ほどの歴史はないようだが、洛北の高雄や貴船でも川床がおこなわれてきた。
貴船神社の祭神は川の神様だから、川床を楽しむにふさわしい地だといえるのかもしれない。鴨川より手ごろな価格で体験できるお店も多く、洛中より気候が冷涼なうえ、川のすぐ上に床が設けられているので涼しさは抜群だ。
さらに貴船の歴史を知れば、ただ涼しさを楽しむだけでなく、神社などでお参りしたくなるかもしれない。そこで、貴船の神話と神社と女性たちの祈りについて紹介したい。
命あるものが生きていくうえで特に不可欠なのは、大地、太陽、そして水。大地の上では動物たちが生活を営み、植物が成長する。そこに太陽がエネルギーを降り注ぎ、水が潤いを与えてくれる。この3つの要素のどれが欠けても生命は枯渇してしまう。それゆえ、世界各地の汎神教的神話のほぼすべてにおいて、この3つは神格化されている。
神話は、さまざまな部族の神話を集大成して出来上がっている。
たとえば現在語られる日本神話は、日本書紀や古事記をもとにしたものがほとんどだが、それ以前には、いろいろな部族が自らの神話を持っていたはずで、その名残の一部が忌部氏の古語拾遺や、物部氏の旧事本紀であると考えられる。だから、たとえば山の神の代表格であるオオヤマヅミは、あるところでは男性とされ、あるところでは女性とされたりするのだ。水の神にも同じことが言える。ミツハメ、タカオカミやクラオカミ、セオリツヒメなど、複数の水の神が存在し、地域ごとにさまざまな伝承が語られる。
「奈良時代、雨乞いの神として朝廷が重要視した神は」と尋ねられたら、神名ではなく、神社名で答えるべきかもしれない。『続日本紀』の天平宝字七年五月二十八日条には「奉幣を畿内四か国の諸社に奉った。そのうち丹生河上神には、奉幣の他に黒毛の馬を加えて奉った。日照りのためである」とある。この後も丹生河上神の名はしばしば登場し、朝廷が丹生河上神を水神として重く信仰していたことがわかる。のちに都が平安京に遷されたのち、丹生河上の役目を担ったのが、平安京の北方を鎮護する貴船神社だ。平安時代以降、貴船神社は水の神の社として深く信仰されてきた。
貴船神社は、復縁の神社
貴船神社は水の神の社としてだけでなく、復縁の社としても知られる。
鎌倉時代後期の僧侶である無住は、著書の『沙石集』の巻十に、藤原保昌(沙石集では「保政」)に捨てられた和泉式部が、復縁のために貴船神社を訪れたと書いている。「敬愛の祭祀」を執り行ってもらうのだが、儀式の後、巫女は着物の前を手繰り上げて陰部を叩き、三度廻った。そしてあろうことか、和泉式部にも同じことをせよと迫るのだ。実はこのとき、たまたま当の保昌が貴船神社に詣でており、面白がって陰から見ていたのだが、和泉式部が
「ちはやぶる神のみる目も恥づかしや
身を思ふとて身をやつすべき」
と詠んだので、その慎ましさが愛おしくなり、「私ならここにいるぞ」と呼びかけて、彼女を連れ帰ったという。
和泉式部が詠んだ歌を現代語訳すれば、「神様がご覧になっているのに恥ずかしい。自分のため(保昌との復縁)を願ってはいても、恥を捨てることもできません」とでもなろうか。
叡山電鉄の貴船口駅から貴船神社までの道程は、貴船川の清流とほぼ並走していて、秋は川面に映る紅葉が美しい。貴船川の岸にある大きな岩は「蛍岩」と呼ばれ、和泉式部と深いゆかりがある。和泉式部はこの場所で蛍が乱舞するのを見て、
「もの思へば沢の蛍もわが身より
あくがれ出づる魂かとぞ見る」
と詠んだというのだ。
「あくがれる」は、「あこがれる」の語源となった古語で、魂が体から離れることを意味する。つまり、魂が体から抜け出してしまいそうなほど保昌が恋しかったのだろう。沢に舞い飛ぶ蛍を見て、「愛しい人を思うあまり抜け出した、私の魂かと思ったわ」と驚いたわけだ。このあたりは現在でも蛍の名所として知られている。
能で演じられる「鉄輪(かなわ)」の物語
しかし、貴船で復縁を祈れば、必ずしも叶ったわけではないようだ。叶わなかった女性の物語も伝わっている。能で演じられる「鉄輪(かなわ)」だ。
貴船神社の社人に「丑の刻に都の女が詣でるから、神託を伝えよ」と、夢のお告げがあり、待っていると果たして一人の女が現れる。話を聞いてみると、自分を捨てた夫が新しい妻をもらったので、報いを受けさせるために毎夜参っていたのだと答えた。神託は、女が本当の鬼になるためにどうすればよいか教えるもので、鉄輪(五徳)の脚三本に火を灯して頭にかぶり、顔を赤く塗るのだという。女は言う通りにして夫を呪うが、安倍晴明の祈祷に邪魔されて、姿を消す。
一般的にこれが丑の刻参りの始まりとされ、鳥山石燕の絵にも描かれている。のちに藁人形に五寸釘を打ち込む儀式も加わるが、それがいつごろからなのかはよくわかっていない。
「必ず復縁したい」という強い思いは、「しかしもし叶わないのなら」と、呪いにつながるのかもしれない。
『太平記』などでは、この女性の名を「宇治の橋姫」としているが、「橋姫」の正体はよくわからない。日本最古橋の一つである宇治橋を架けた際、人柱として川に沈められた女性の魂だとも、川の女神だとも言われ、その性質は必ずしも鬼女ではない。たとえば『源氏物語』の「橋姫」は、宇治に隠れ棲む可憐な姉妹を女神に喩えたものだ。清らかな水は万物を潤してくれるが、大雨は川を氾濫させて生活を壊し、多くの命を奪う。川の女神と考えられる橋姫にも両面性がある。
貴船神社の中の宮という結社(ゆいのやしろ)
貴船神社の奥宮へ参る途中に、中の宮とも呼ばれる結社(ゆいのやしろ)がある。
詳しい由緒はわからないが、祭神のイワナガヒメが良縁を結んでくれると信仰され、参拝の人が絶えない小祠だ。イワナガヒメはオオヤマヅミの娘で、絶世の美女であった妹のコノハナサクヤヒメとは違い、岩のようにゴツゴツとした容姿だったとされる。ニニギがコノハナサクヤヒメに求婚したとき、オオヤマヅミは姉のイワナガヒメも一緒に嫁がせるが、ニニギは「私が妻にしたいのはコノハナサクヤヒメだけだ」と、イワナガヒメを拒絶した。それを悲しんだイワナガヒメは、「他の女性にこんな悲しい思いをさせたくない」と、良縁を授けてくれるのだそうだ。
このように、悲しい思いをした女性が、「こんなに悲しいのは私だけでたくさん」と、女性の守護神になったとする伝承は、日本各地に伝わっている。
悲しい思いを誰かにわかってほしいと願うのではなく、自分一人に留めておきたいという思いも美しいが、悲しい経験をした人にこそ力があるとする信仰にも優しさを感じる。明治時代、日本に帰化した小泉八雲は、「赤い婚礼」の中で、日本人が心中した恋人たちを恋の神として敬う理由について、「心中した二人はとても苦労したから」と解説している。開国の直後に日本へやってきた欧米人は、日本人の感性を不思議に感じたようだが、八雲は深い理解を示し、尊敬の念さえ抱いたようだ。結社の信仰は、きわめて日本人らしいものといえるかもしれない。
この夏は貴船川の川床で涼をとりながら、復縁を祈ってこの地を訪れた女性たちに思いを馳せてはいかがだろう。
むろん、自身の復縁を祈って神社にお参りするのも良い。ただし、かつての恋人には今の生活がある。復縁が叶わずとも鬼にならぬよう、相手を思う気持ちを忘れずにいたい。
■参考
岩波書店『沙石集』筑土鈴寛校訂 1988年4月発行
講談社『続日本紀』宇治谷孟訳 1992年6月発行
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