縁起物の破魔矢は「魔を破る」魔除け
破魔矢は、お正月に神社やお寺で授かる縁起物のひとつ。
「魔を破る」と書くが、江戸時代の旗本・伊勢貞丈が朝廷や貴族の儀式や風俗などについて著した「貞丈雑記」によれば、大和国や土佐国などで用いられた矢の的を「はま」と呼んだのが名の由来だという。縄を巻いてつくった輪に穴を開けたもので、正月に子どもたちが矢を射る際に使われた。
破魔矢を魔除けとする起源には諸説あるが、平安時代の一月十七日、建礼門の前で行われていた射礼(じゃらい)に使われた矢を模したともされる。射礼は弓競技による儀式で、射手は親王や、殿上人と呼ばれる位の高い貴族や役人らが務めた。天皇は豊楽院でご覧になり、上手な射手には褒賞が与えられる。最古の射礼の記録は日本書紀の天武天皇四(675)年一月十七日の記事で、「公卿大夫や百官の人々の、初位以上の者が、西門の庭で射礼の行事を行った」とある。
破魔矢の由来は、仏教における烏摩勒伽の持つ矢が発祥
仏教において、破魔矢は烏摩勒伽(うまろきゃ)の持つ矢が発祥ともされる。
烏摩勒伽は夜叉の一柱で、毘陀羅(びだら)、阿跋摩羅(あばつまら)、犍陀羅(けんだら)と合わせて「四夜叉」と呼ばれる。夜叉は青面金剛に従う護法神で善神ではあるが、インドのヤクシャが仏教に取り入れられたもので、半神半鬼とされる。半分は鬼なので、残忍さも持ち合わせており、人の肉を喰らうこともあった。日光にある輪王寺では四夜叉像を拝むことができ、破魔矢発祥の龍神破魔矢も授与されている。
インドで生まれた仏教は、バラモン僧たちの思想やインド神話の影響を受けた。
アスラが阿修羅として、ガルーダが迦楼羅として、ラクシュミーが吉祥天として、仏教に取り入れられている。中国を経由して日本に輸入された仏教は「北方仏教」とも呼ばれ、修行者自身の悟りより、衆生の救いに重点を置いた教えとされる。そんな中、本来インドで恐れられていた超自然的存在が、人間に近い存在でありながら、仏に仕える善神となった例は珍しくない。
たとえべ、観音菩薩の源流にはインドのドゥルガーとイメージが重なる。観音菩薩は三十三の姿で現れ、そのひとつが准胝観音だ。そして「准胝」が意味するのは、ドゥルガーの別名であるチャンディーだという。アスラ族が天を攻め、デーヴァ神族が追放されたので、シヴァとヴィシュヌらは光の中から女神を生み出す。それがドゥルガーだ。破壊と創造の神・シヴァ神の妃で、美しい容姿ながら十本以上ある手にそれぞれ武器を持つ勇ましい姿で表現される。シヴァからは三叉の槍を、ヴィシュヌからは円盤を、インドラからは雷を授かるなど、神々の力が凝縮されていたとはいえ、男神たちの手に負えなかったアスラ族を女神が平らげるのは興味深い。
この勇ましいドゥルガーが仏教に取り入れられたとき、人々を救う観音菩薩の一つの姿である准胝観音になったのだ。准胝観音が多くの腕を持ち、それぞれの手に武器や法具を手にしているのも、ドゥルガーの名残と考えれば納得できる。
神仏や縁起物が、時代とともに姿を変えるのは珍しいことではなく、破魔矢も時代とともにいろいろな意味が付け加わったのだろう。また、矢は敵を倒すためだけのものではない。愛染明王も弓矢を手にしているが、この矢は憎しみなどの悪い心を射抜くとされる。
破魔矢と日本の神話における弓矢の伝説
日本において、弓矢が使われるようになるのは縄文時代だ。
当初は食物を得るために獣を狩る道具だったが、時代が下ると戦にも使われるようになった。弥生時代の遺跡からは、矢の殺傷痕をもつ人骨が発見される。鳥取県の青谷上寺地遺跡からは、特に数多い人骨が発見されており、戦乱があったのではないかと推測されている。
神話においても、矢は重要なファクターとして登場する。日本書紀には「返し矢は恐ろしい」とあり、射た矢が敵の手に渡り、射返されると、必ず自分に当たると信じられた。
当時の世界はアマテラスが支配する高天原と、オオクニヌシが支配する葦原中国(あしはらなかつくに)があった。「葦原中国は高天原に属するのが本筋である」と考えたアマテラスは、葦原中国に偵察を遣わす。まずはアマテラスの子であるアメノホヒが葦原中国へやってくるが、オオクニヌシを慕い、高天原に帰ろうとしない。次いで遣わされたアメノワカヒコも、オオクニヌシの娘を妻に迎えると、自分が葦原中国の支配者になろうと考えた。
待ちくたびれたアマテラスは、雉の女神を遣わしてなぜ帰らないのか尋ねさせるが、アメノワカヒコをは彼女を射殺する。矢は雉の女神を射抜いて高天原まで届き、タカミムスビの手に渡った。そこでタカミムスビが「アメノワカヒコに悪い心がなければこの矢よ当たるな。アメノワカヒコに悪い心があるならこの矢よ当たれ」と唱えて矢を放つと、矢は見事にアメノワカヒコを射殺したという。
武神の象徴としての弓矢
時代が下がり、武士の世になると弓矢はさらに意味を成す。
源氏が信仰した八幡神は、応神天皇の別の姿であるとされ、弓矢と深い関係がある。
応神天皇が誉田(ほんだ)天皇とも呼ばれるのは、腕に鞆(ほむた)と似た形の肉がついていたからだ。鞆は矢を射るときに腕につける道具だから、誉田天皇は生まれながらの武神と見なされていたのだろう。
戦ではもっとも有効に使われたのは、石礫だったとされるが、鉄砲が登場するまで、弓矢が重要な武器であったことは間違いない。
破魔矢の飾り方。注意するべきは矢じりの方向
寺社で授かった破魔矢は、神棚や床の間など格の高い場所に飾るのが一番よいが、神棚や床の間がないなら、玄関などの清浄な場所の壁、目線より高い位置に飾るとよい。
飾り方は立てた状態でも、寝かせた状態でもかまわないが、矢じりが天に向かないようにしたい。矢じりを天に向けてしまうと、天の神様に矢が向いていることになる。また、床の間や神棚に飾る場合は神仏の像や絵などに向かないよう注意したい。 破魔矢には上下があり、矢羽根が付いている方が上になる。 立てて飾る場合は、矢羽根を上に、矢じりを下にして飾る。安定させて立てて飾りたい場合は、破魔矢立てもあるから使うとよい。
また、寝かせて飾る場合は(どの方角でも構わないとされるが)魔除けのご利益のために、矢じりの方向をその年の凶の方角に向けるという飾り方もある。凶の方角とは、その年の干支の方角の反対側の方角のことで、2023年は卯の反対の酉の方角で、270度の西の方角だという。
新しい年を迎えたら、昨年の破魔矢は授かった寺社に返すのが基本だ。
遠方の寺社で授かって返しにいけない場合は、郵送で返せないか尋ねてみよう。近所の寺社で受け入れてもらえる場合もあるので、確認してみてもよい。また、1月14日や15日に書初めや門松などを焚き上げるとんど(左義長:さぎちょう)を実施している地域なら、一緒に焚き上げてもらうのがよい。
■参考
講談社『日本書紀 上下』宇治谷孟訳 2001年2月発行
法藏館『アジアの仏教と神々』立川武蔵編 2012年6月発行
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