大阪中之島美術館「みんなのまち大阪の肖像 第2期」が開催

大阪中之島美術館の入り口でお出迎えしてくれる「シップス・キャット」。大航海時代の船乗り猫をモチーフにした「旅の守り神」のモニュメントである大阪中之島美術館の入り口でお出迎えしてくれる「シップス・キャット」。大航海時代の船乗り猫をモチーフにした「旅の守り神」のモニュメントである

2022年2月にオープンした大阪中之島美術館で、「みんなのまち大阪の肖像 第2期 『祝祭』との共鳴」が開催されている(2022年10月2日まで)。「みんなのまち大阪の肖像」とは、地元「大阪」をテーマに、明治時代から現代までの約1世紀半の大阪の歩みを第1期・第2期に分けて紹介する展覧会である。

4月~7月に開催された第1期では、明治維新から「大大阪」と呼ばれる近代都市へと発展していった大阪の歩みを、数多くの絵画や写真、ポスターなどの展示で紹介していた。今回の第2期は、戦後の復興から大阪の街が発展していく高度経済成長期の時代が中心。大阪大空襲で焼け野原と化した街の姿がわかる絵やポスター、再現された工業化住宅、当時の電化製品の実物などが展示されている。高度経済成長期の熱気を思い起こさせる資料も展示されていて、まさにこの時代を体験してきた筆者には、「懐かしいなあ」と思わず声が出てしまうものばかりであった。

大阪中之島美術館の入り口でお出迎えしてくれる「シップス・キャット」。大航海時代の船乗り猫をモチーフにした「旅の守り神」のモニュメントである水都大阪のシンボルともいえる、水と緑が豊かな中之島に誕生した「大阪中之島美術館」
戦後の広告文化がわかる百貨店などのポスター(早川良雄の作品)戦後の広告文化がわかる百貨店などのポスター(早川良雄の作品)

工業化住宅や電化製品などは、美術とはあまり縁がないように思っていたのだが、「美術館といえば、芸術文化という枠組みの中で仕事をする傾向にありますが、産業経済の中にも新しい創造性や文化があると考えると、工業化住宅や家電をはじめとするさまざまな工業デザインを見逃すことができません」(大阪中之島美術館 学芸課長 植木啓子さん)ということから、今回の展覧会が実現した。

数多くの展示物の中で筆者が注目したのは、実物大で再現した「みんなのおうち」である。
これは、積水ハウス株式会社と建材メーカーが協力し、1970年代の工業化住宅を再現したもので、外観や構造を見るだけでなく、モデルハウスのように建物内に入って各部屋を見ることができるのだ。さらに、内装や生活設備が忠実に再現されているだけでなく、当時の電化製品の実物が置いてあるので、リアルな暮らしぶりが伝わってくる。
今回、大阪中之島美術館の運営方針のひとつである「内部で完結するのではなく、外部のパートナーと連携していく」という攻めた考え方が、美術館の中に民間企業の協力で実際の家を建てるという、今までにない取組みにつながっている。

大阪中之島美術館ゲストキュレーターである、生活空間研究室 代表 中村孝之さんのお話も交えながら、工業化住宅の歩みと「みんなのおうち」を紹介しよう。

大阪中之島美術館の入り口でお出迎えしてくれる「シップス・キャット」。大航海時代の船乗り猫をモチーフにした「旅の守り神」のモニュメントである戦後の大阪の街の風景を、当時の絵画などで知ることができる。この作品は赤松麟作の「大阪三十六景」

工業化住宅(プレハブ住宅)の誕生

実物大の工業化住宅の玄関側の写真。ここで靴を脱いで中に入って見学することができる実物大の工業化住宅の玄関側の写真。ここで靴を脱いで中に入って見学することができる

工業化住宅というのは高度にプレハブ化した住宅のことで、誕生時には在来木造と同じような軸組みを、軽量鉄骨を用いてプレハブ工法でシステム化したものである。工場で建築資材が量産されるので、大工の力量による施工の差が少なく、全国どこでも同品質の建物が建てられるというメリットがある。このプレハブ住宅が誕生し、各地に広まっていく背景には、当時の主要産業である鉄鋼業界が大きく関わっている。

それまでの日本の家はほとんど木造住宅で、とにかく火に弱く火事になると広い範囲で燃えてしまうため、住宅の不燃化が大きな課題であった。
そこで、1950年代頃から鉄鋼業界が軽量鉄骨によるプレハブ化を推進し、日本軽量鉄骨建築協会をつくったことを機に、「積水ハウスをはじめとする住宅メーカーが、軽量鉄骨で不燃組み立て住宅をつくる流れに乗っていった」(中村さん)のである。そして、この「軽量鉄骨の躯体とフェノールボードの外壁パネルを組み合わせることで、燃えにくい家をつくる」(中村さん)という考えは、時代のニーズに合い全国に広がっていくことになった。

実物大の工業化住宅の玄関側の写真。ここで靴を脱いで中に入って見学することができる再現された工業化住宅は、一部壁を造っていないので、普段、壁の中に入っていて見ることができないプレハブの躯体構造がよくわかる。外部から室内の様子を見ることができるのも面白い

プレハブ住宅が人気だったのは、ハウスメーカーが洋風化による新しい生活スタイルを提案していたことも大きな要因である。

1950年代に、日本住宅公団が「食寝分離」プランである2DK(ダイニングキッチン)の団地を建設し、“憧れの暮らし”として人気を博したため、一戸建て住宅にも展開されることになった。「食寝分離」といわれても、何のことかわからない人がいるかもしれないが、戦後に大量につくられた家は狭く、食事をするときには「ちゃぶ台」を出し、寝るときには「ちゃぶ台」をたたんで布団を敷いて寝るというように、食寝が同じ空間で行われていた。これを、食事をする部屋と寝る部屋とに分けることが食寝分離である。

また、単に分けただけでなく、テーブルと椅子で食事をするというスタイルも浸透させた。当時の公団のモデルルームには、テーブルと椅子がセッティングしてあり、販売員が「ここに座って食事をしましょう」と、啓蒙活動をしていたと聞いたことがある。1960年代になると、各住宅メーカーが本格的にプレハブ住宅を販売するようになり、新しい生活スタイルがどんどん広がることになった。やがて、郊外の庭付き一戸建てという、「住宅すごろく」のゴールが設定され、多くの人がそこを目指すようになったのである。

実物大の工業化住宅の玄関側の写真。ここで靴を脱いで中に入って見学することができる戦前の日本の住宅にはなかった、ダイニングキッチンという新しい生活空間

実物大工業化住宅「温居さん」のおうち

この家に住む、当時の典型的な中流家庭の温居一家この家に住む、当時の典型的な中流家庭の温居一家

実物大の工業化住宅は2LDKの平屋住宅で、温居(ぬくい)一家が暮らしている設定になっている。
大手電機メーカーに勤める会社員の温井賢治(33歳)、音楽好きの専業主婦である小百合(30歳)、長男の学(5歳)と長女の恵子(3歳)の4人家族。長男の小学校入学を控えた1975年、開発真っ盛りの千里ニュータウンで、積水ハウスの新築平屋一戸建てを購入したというストーリになっているのだ。1975年の住宅を展示することになったのは、「各住宅メーカーで、工業化住宅の生活の質が整い始めた最初の時期」(中村さん)であり、戦後の住宅不足による大量生産の時代から、量から質へと変化し始めた年代だからだそうだ。

設定上の世帯年収は250万円。当時の会社員の年収が200万円ぐらいだと思われるので、エリートである。
建物の価格は800万円。「千里ニュータウンは、関西で戦後に新しく開発された団地として一番グレードの高い住宅地」(中村さん)とのことなので、当時のハイクラスの住宅と考えていいだろう。当時は郊外の広い一戸建てを購入するのが憧れであった。

この家に住む、当時の典型的な中流家庭の温居一家当時の図面から忠実に再現した部品で組み立てられたプレハブ構造を、真近で見ることができる

今回のプレハブ住宅がとてもリアルなのは、単に実物大ということだけでなく、「当時の図面を元に、ほとんどの部品を再現して作り上げた」(中村さん)からである。まさに、当時の本物の住宅を再現したというわけだ。さらに、建物の一部をスケルトンにして、プレハブ構造が見えるようになっている。
また、室内に置いてある家電製品も当時の現物なので、まさに昭和の時代にタイムトリップしたような、リアルな生活空間になっているのだ。ここからは、 1975年の昭和の暮らしを覗いてみよう。

「温居さんのおうち」を拝見

表札が掲げられ、木製の扉と袖ガラスのある玄関。当時としては、とても立派な玄関である表札が掲げられ、木製の扉と袖ガラスのある玄関。当時としては、とても立派な玄関である

玄関はどこか懐かしい、レトロ感が漂うデザイン。1960年代までは、ドアといえば木製の引き戸が主流で、スチール製の開き戸が登場してくるのは1970年代に入ってからだ。温井家の玄関扉は、木製のデコラティブタイプなので高級品である。袖ガラスが設えられているなど、当時ではモダンでおしゃれな玄関だっただろう。
玄関で靴を脱ぐのは日本独特の生活様式なので、大きな上がり框がある玄関空間は、世界でも珍しいのではないだろうか。そして、大きな下駄箱(玄関収納)が置いてあるが、当時は現在の分譲住宅のように備え付けではなかったので、自分で購入して土間におくのが普通だった。そういえば、筆者が不動産業界で仕事をし始めた30年ほど前でも、公団や公社の分譲マンションには下駄箱がついてなかった。
この頃から、室内扉が襖や障子などの引き戸から開き戸に変わっていったが、現在のように量産品はなかったので、地場の建具店が作っていたそうだ。

表札が掲げられ、木製の扉と袖ガラスのある玄関。当時としては、とても立派な玄関である広々とした玄関内部。ここで靴を脱いで家の中に入るという、日本独特の生活スタイルが生んだ空間である
足元や壁がタイル貼りのトイレ空間。当時、洋式トイレはまだ珍しかった足元や壁がタイル貼りのトイレ空間。当時、洋式トイレはまだ珍しかった

トイレは洋式トイレ。1970年代は水洗化が進んで和式便所から洋式トイレへと移行していた時代だが、一般の家や学校では、まだまだ和式トイレが主流であった。当時洋式トイレは、新興住宅地の広い家など、高級な住宅でしかみられなかった。床はタイル張りであるが、洋式化が進むにつれ、クッションフロアへと変化していった。

ユニットバスは、湯船につかる習慣がある日本が発祥である。もともとはホテル向けに開発されたものを、工期短縮や施工品質の安定を目的に住宅メーカーが積極的に導入することにより、広まっていったそうだ。街の銭湯に通う人が多い時代に、キャビネット付きの洗面所と一体となった空間はとてもおしゃれに感じたであろう。浴室前が脱衣所を兼ねるようになったのもこのスタイルになってからである。
また、現在は洗濯機置場も同じ空間にあることが多いが、排水の問題などもあり、当時洗濯機は勝手口のような外に近い場所に置かれていた。

表札が掲げられ、木製の扉と袖ガラスのある玄関。当時としては、とても立派な玄関である1970年代に入ってから誕生したキャビネット型の洗面台。お風呂の脱衣室を兼ねた洗面室が主流となっていった

日本人の生活スタイルを大きく変えたLDKの発想

木製の食器棚。ダイヤル式の黒電話がとても懐かしい木製の食器棚。ダイヤル式の黒電話がとても懐かしい

現在の住宅は、2LDKや3LDKというように、部屋数+リビング+ダイニング+キッチンという組み合わせで表記されているのが一般的であるが、これは日本独特の表記で、海外ではLDKという表現はしない。
このLDKという概念を定着させていったのも工業化住宅といえるだろう。

もともと日本の台所は家の裏側にあり、作った食事をお膳などで食事する部屋に運んでいた。DKというのは食事の場(ダイニング)と台所(キッチン)が一つの場に収まることであり、当時としては大きな生活スタイルの変化だった。ステンレス製の流し台やコンロを置くガス台、調理をする調理台など、当時としては最先端のものばかりで、このDKでの暮らしは憧れとなっていったのである。

また、1970年に大阪で開催された国際的イベントを機に冷凍食品の開発が進み、冷蔵室と冷凍庫が分割された2ドアの冷蔵庫が主流に。さらに、電子レンジ、電子ジャー、ハンドポットなどの最新の電化製品が、生活を楽しく豊かにしていったのである。

木製の食器棚。ダイヤル式の黒電話がとても懐かしい公団住宅から始まったダイニングキッチンは当時の憧れ。キッチンセットが量産され、ダイニングキッチンが主流となっていく
リビングの誕生とともに、木目の家具調デザインのテレビやステレオが造られるようになり、一世を風靡したリビングの誕生とともに、木目の家具調デザインのテレビやステレオが造られるようになり、一世を風靡した

次に生まれたのが、家族の公的な部屋(パブリック)と、個人の部屋(プライベート)を分離した「PP(公私室)分離」という発想である。
1960年代までは玄関横に応接間があり、主に来客を迎える場所として使われていた。住宅メーカーは、普段あまり使わない応接間を、家族団欒の場となるリビングルームとして提案していったのである。こうして、PP分離が実現した2LDKや3LDKという現在の住まいの流れができあがっていったのである。

西洋化が進むことで洋室が増えたものの、今までにない室内空間を作るための建材がなかった。そこで考え出されたのが企業の役員室や高級ホテルで使われていた銘木を壁材として使っていくことである。住宅でも使いやすいように規格化し、銘木化粧合板壁材として量産できるようにしたことで広がっていった。そうして、洋室に木目調のデザインを取り入れることが多くなり、天板に天然木を使用し、引き戸の扉でブラウン管を隠すような、家具調のテレビまで登場するようになったのだ。

「洋室の空間が増えることで、インテリアコーディネーションという概念が生まれ、インテリアデザインを考えた建材や設備などがどんどん開発されるようになりました」(中村さん)

椅子に座ることが一般化し、リビングにソファセットが置かれるようになると、次々と日本人の体形に合わせた国産の家具が生まれるようになった。

木製の食器棚。ダイヤル式の黒電話がとても懐かしい会社の応接間にあったようなテーブルと椅子、ソファが、リビングセットとして定着していった

工業化住宅が日本人の生活スタイルを大きく変えた

洗濯槽と脱水槽が分かれた二槽式洗濯機。洗いながら同時に脱水機で絞れるというのは、まさに当時としては画期的であった洗濯槽と脱水槽が分かれた二槽式洗濯機。洗いながら同時に脱水機で絞れるというのは、まさに当時としては画期的であった

日本の住宅の歴史を振り返ると、工業化住宅の誕生は、従来の日本人の暮らしを大きく変える大事件であり、特に1970年代の工業化住宅が、現在の生活スタイルの方向性を決めたといえるだろう。

「洋風化=近代化すること」という憧れが住まいの西洋化を進め、その結果、LDKという和洋折衷の日本独特の新しい生活洋式が生まれることになったのである。また、どんどん進化する家電などの工業製品が、日常生活をより快適にしていった。当時は、家の中に新しい家電が増えていくことが豊かさの象徴でもあった。
一方、襖や障子、畳、縁側など、日本の文化ともいえる建具や空間が、家の中からどんどん消えていくことになり、最近は和室のない家も多くなってきた。果たしてこの流れがよかったのかどうかは、一度じっくり考えてみる必要がありそうだ。
現在の生活スタイルが生み出されたのはわずか50年前である。当時を知る人も知らない人も、現在の暮らしにつながる昭和のレトロな住まいから、住まいの進化について少し考えてみてはいかがだろう。

洗濯槽と脱水槽が分かれた二槽式洗濯機。洗いながら同時に脱水機で絞れるというのは、まさに当時としては画期的であった1960年代~1970年代に発売されたテレビや冷蔵庫などの家電製品。各家電メーカーが所有している本物を見ることができるのはとても貴重である

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