雪深い山越えの拠点だった駅の跡地。旅人が旅人が迎える

かつて複数の線区が分岐し、関係機関が集積していた、北海道北部にある鉄道のまち・名寄市。その中心部から車で10分ほど、野菜やブドウの畑に囲まれた地に「天塩弥生駅」という木造平屋の建物がある。冬に訪ねると、駅名標や踏切は顔を出すものの、レールは見当たらない。

「駅舎」の裏手にある鉄道設備の数々。レールがないことを除くと、今にも列車が来そうな雰囲気だ「駅舎」の裏手にある鉄道設備の数々。レールがないことを除くと、今にも列車が来そうな雰囲気だ

ここは駅という名前がつくものの、廃線跡だ。JR深名(しんめい)線という、深い山を抜けていく路線が1995年まで通っていた。赤い特殊なラッセル車が雪を豪快に跳ね飛ばす姿は、全国のファン垂涎だった。天塩弥生駅は山越えの拠点として駅員が寝泊まりしていた。

もともと駅があった土地を名寄市から買い取り、人と人がじっくり交わる「旅人宿」と食堂をつくったのは、「首席助役」の富岡達彦さんと、妻で「駅長」の由起子さん。2人ともベテランの旅人で、ユースホステルなどをめぐり、出会いを楽しんできた。

由起子さんは名寄の生まれで、達彦さんは北海道生まれの千葉県育ち。2人はあちこちでいろいろな経験を重ね、2016年3月から、旅人を迎える側になった。“鉄分”の多い宿は多くあれど、2人のこだわりは特別だ。

「駅舎」の裏手にある鉄道設備の数々。レールがないことを除くと、今にも列車が来そうな雰囲気だ受付・物販スペースの「キオスク」に立つ、富岡さん夫妻

“鉄分”であふれた宿。所狭しと並ぶ鉄道グッズ 

外から見た「駅舎」は2016年開業とは思えない、郷愁を誘う佇まい。木造らしい風情が漂い、落ち着いた赤茶色のトタン屋根がなじんでいる。玄関のドアや窓は、道内の別の駅から譲り受けたものを、建具職人に流用してもらった。建物の周りには「ハエタタキ」と呼ばれる、鉄道通信用の裸電信柱が7基が並ぶ。

雪が似合う木造の「駅舎」。懐かしい雰囲気が漂う雪が似合う木造の「駅舎」。懐かしい雰囲気が漂う

扉をガラガラと横に開けると、大きなテーブルが置かれた共用スペースがある。通称「食堂車」。数え切れないほどの鉄道用品やグッズが、壁に所狭しと飾られている。このスペースの真ん中には「ヨーロッパみたいなおしゃれなのは似合わないから」と、北国の駅の待合室にありそうな鉄板の薪ストーブが鎮座している。

会計や宿泊受付をするフロント部分は「kiosk(キオスク)」。オリジナルグッズが置かれるカウンターの板には、由起子さんの祖母の嫁入り道具があてがわれ。頭上には宿泊料金などが書かれた「運賃表」もある。

奥の廊下に連なる形で、二段ベッドが並ぶ「寝台車」2室がある。あえて個室化をしないドミトリー形式で、道産材で名寄に住むオルゴール職人が手作り。かつて全国に多く走っていた寝台列車の二段ベッドにあった雰囲気を再現した。

今でも国鉄OBらから多くの鉄道関連品が持ち込まれ、道内の鉄道用品店や雑品店から購入したものもある。唯一、現役時代の天塩弥生駅から引き継いだのは1脚のベンチ。「このベンチに一晩お世話になった」という宿泊者が、ベッドではなくベンチで夜を明かしたというエピソードも残る。

達彦さんは「お客さんからは『落ち着く』と言われます。宿泊は50~60代の、昔ユースホステルを回っていたような人が多く、懐かしんでもらえます。20~30代の若い人にとっては新鮮なようです」と言う。

まるで壁や天井に名刺がびっしり貼られた居酒屋のような、独特の雰囲気が全体に広がる。物が多いのに雑然としていないのが不思議なほど。柱時計の針の音が聞こえてきそうだ。北海道弁で「心地よい」を意味する、「あずましい」宿を目指しているというから納得だ。

雪が似合う木造の「駅舎」。懐かしい雰囲気が漂う存在感のある鉄板ストーブ。思わず手をかざして、のんびりしたくなる
雪が似合う木造の「駅舎」。懐かしい雰囲気が漂う「寝台車」と呼ばれるベッドルーム。かつての寝台列車を思わせる

関東で天職の車掌になり、Jターン。故郷・北海道への思い

車掌時代の富岡さん。小さな頃から思い描いた鉄道員の仕事は天職だった(富岡さん提供)車掌時代の富岡さん。小さな頃から思い描いた鉄道員の仕事は天職だった(富岡さん提供)

達彦さんは、炭鉱で栄えた北海道中部の三笠市生まれ。物心ついた時から石炭を運ぶ列車の引き込み線を眺めていた。「キュンキュンしていました。線路は続くよどこまでも、という感じで九州までこのレールがつながっていると想像して、壮大なロマンを抱いていました」と振り返る。

1972(昭和47)年に炭鉱は閉山し、一家で千葉県に。鉄道員を目指すのは自然なことだったといい、車掌になる夢を抱えて国鉄に入職。本来は転属で北海道に戻るつもりだったが、分割民営化で断念し、関東の私鉄に入社。「休んでも仕事がたまらないのが鉄道員のいいところ」と、数週間単位で休暇を取り、旅を重ねた。

車掌時代の富岡さん。小さな頃から思い描いた鉄道員の仕事は天職だった(富岡さん提供)バイクを駆って自然の中を走っていた富岡さん(富岡さん提供)

中学生のころは「チャリダー」として房総半島などを自転車で周り、高校生になると50ccのバイクにまたがって全国へ。生まれ育った三笠では裏の山で遊んでいたほど自然には親しみがあり、バイクで林道を走ったり、冬は鉄道で移動したり。ユースホステルも巡り、旅先での出会いを楽しんだ。「旅がなかったら今の自分はない。利害関係のない友人ができて、いろんな生き方があっていいんだと多くの先輩に教わりました」

もともと都会暮らしは肌に合っていなかった達彦さん。鉄道員は天職だったが、転機は国連地球サミットがあった1992年にやってきた。バブル経済、リゾート開発が活発に行われていた頃に自然保護への機運が高まり、「昔遊んだ故郷の山はどうなっているんだろう…」とふと、気にかかった。

自然保護運動にも参加するようになり、「都会で叫んでいてもダメだ。山に戻ろう」と思い立ち、1995年から職探しの旅に出かけた。道内の森林組合に掛け合ったものの、「経験のない都会の車掌には務まらない」と門前払いを食らい続けた。そんな中、移住者を受け入れていた、名寄から東へ20kmの下川町で受け入れが決まった。

50歳、「宿をやるなら今だ」と決意。廃線の駅跡地を思い出した

チェーンソーを手に丸太を切る富岡さん(右、富岡さん提供)
チェーンソーを手に丸太を切る富岡さん(右、富岡さん提供)

森林組合で職は得たが、誰も仕事を教えてくれず、見よう見まねで下積みの日々。半年弱で15kgも体重が減るほどの重労働だった。それでも10年たたず班長になり、移住してきた若手の面倒を見る場面もあった。

そんな中、「中山間地と都会を結ぶパイプ役に」と考え、移住者らとNPO「さーくる森人類」を立ち上げた。地元の人を交えた林業の体験プログラムを企画し、現在の後継団体「森の生活」も広く知られる存在になっている。

ただ、あまりにも森での仕事一色になり、体を壊した達彦さん。50歳のとき、ふと「宿をやるなら今だ」とスイッチが入った。

下川町でグリーンツーリズムの走りといえる活動をしてきたため、「林業と農業を体験できる滞在型の宿をやろう」と構想を練った。元鉄道員というだけあって、舞台は駅。ただ下川町では見つからず、天塩弥生駅の跡地がそのままになっていたことを思い出した。

道内各地を旅していた頃から、深名線は特別な存在だった。今でも冬には道内で最も低い気温を記録する地域を通る。「真冬の晴れた日の朝、ダイヤモンドダストが車内から見えるんです。広い北海道でも、ここだけは外せない。たまらん所でした」

由起子さんの父と弟も国鉄マン。その父は生前、「鉄道のまちにまつわる仕事をするなら応援する」という話をしていたといい、達彦さんは「きっとこれは遺言だ」と直感し、駅を再現しようと心を決めた。

チェーンソーを手に丸太を切る富岡さん(右、富岡さん提供)
「さーくる森人類」の体験プログラムで記念写真に収まる参加者たち(富岡さん提供)

木造駅舎を訪ね、当時の雰囲気までまとう施工を実現

ベテランの旅人として、駅には特別な思い入れがある。

「駅というのは、地域の寄合所でした。列車を待っていたら『お茶でも飲んでいきな』と駅長や助役に言われ、そのうち地域の人が井戸端会議を始め、キオスクのおばちゃんも交じってくるような」と達彦さん。地域の記憶を宿すコミュニティーだ。

名寄市に相談し、1万2,000m2以上の土地を一括で購入。「ここにあったものを建てるべや」と、資料集めからスタートした。工務店に相次いで断られる中、「おもしろそうだべ」と乗ってくれたのが、「さーくる森人類」の元メンバーで、現在は下川町で自然素材を生かした家づくりをする加藤滋さんだった。

達彦さんと加藤さんは道内の木造駅舎をいくつも訪問。どんな構造やデザインだったかを調べ、採寸して歩いた。達彦さんにとっては、新築といっても、真新しい雰囲気はご法度。板の粗さなど、年月を感じさせる質感にこだわり、「昭和40年代、どこにでもあったローカル線の中間駅を」と加藤さんにオーダーした。

達彦さんは森での経験を生かし、重機を自分で操って整地し、基礎工事を自前で手掛けた。職人には基礎や屋根にも断熱材をふき込んでもらい、マイナス20度以上に冷え込む真冬でも、薪ストーブ1台で間に合うスペックにした。

「天塩弥生駅」復元へ、多く見て回った木造駅舎(富岡さん提供)「天塩弥生駅」復元へ、多く見て回った木造駅舎(富岡さん提供)
「天塩弥生駅」復元へ、多く見て回った木造駅舎(富岡さん提供)富岡さん自ら重機を操り、整地していった(富岡さん提供)
名寄市内の解体される郵便局から譲り受けた扉名寄市内の解体される郵便局から譲り受けた扉

天井は漆喰のような仕上げの、格子状のデザインで。二枚はめた窓も格子状で、内側は二重の複層ガラス、外側はシングルの特注品。外張りも内壁にも道産材を使い、寺社仏閣に使われる古色塗料を使ってエイジング加工をした。

自然と経年感を醸しているのは、各所から譲り受けた建具や備品の役割も大きい。市内の郵便局が取り壊されると聞けばドアをもらうなど、欲しいと思っていたものが、驚くほどうまい具合に手元に来たという。「すべてがタイミング。ご縁に恵まれながら、追い風ばかり吹いていた感じです」と振り返る。

「天塩弥生駅」復元へ、多く見て回った木造駅舎(富岡さん提供)在りし日の天塩弥生駅(富岡さん提供)

食材へのこだわりは当然。「勢い」で始めた食堂の滋味深さ

移住者ながら地域に根を張り、次々と行動に移せるのは持ち前の「勢い」からだ。

コロナ禍で完全予約制となったが、宿泊者のいない昼間に食堂の営業を始めた理由も、達彦さんによれば「勢い」。食にかかわる仕事をしていた栄養士の由起子さんが腕を振るう。

コロナ前はユニークな「日替わらない定食」が名物だった。取材時にいただいたカレーライスは、大きい野菜がゴロゴロあり、マイルドな辛さ。オリジナルのドレッシングを絡めたサラダのヤーコンや、ホクホクの優しい甘さに煮た紫花豆は、近所の農家が丹精したもの。地域の特産の摘果メロンはあっさり漬物に。ジャガイモやニンジンをはじめ、地場産の野菜がふんだんに使われている。白米も近場の低農薬米にこだわっている。

ゴロゴロと豊富に入った野菜をはじめ地元の食材が楽しめるカレーライスゴロゴロと豊富に入った野菜をはじめ地元の食材が楽しめるカレーライス

「楽をしようと思えば、冷凍食品でもいいかもしれません。でも安全安心な、地元のものをおいしい状態で食べてもらいたいんです」と達彦さん。宿泊者にも夕食と朝食で、これでもかという量でもてなし、農家を紹介することもあるという。

食材へのこだわりは、道産材を建物やベッドに使うこだわりと変わらず、2人にとっては自然なこと。関東から緑豊かな下川町に移住し、「生きるわざが身についた」という生活がフィットしたように、自然にも人にも囲まれた今の暮らしも、変わらずあずましい。

ドミトリーはこだわり。昭和40年代から変わらない、旅の醍醐味

奥ゆかしい雰囲気が残る道北に達彦さんが移住して、25年が過ぎた。旅人が通過しがちな、旭川と稚内の間の「空白地」(達彦さん)が目的地になればと魅力を伝え続けるうちに、道北に移住したリピーターもいる。

宿泊者に手渡される硬券の見本。懐かしさを感じ、再訪への期待が高まる宿泊者に手渡される硬券の見本。懐かしさを感じ、再訪への期待が高まる

旅のスタイルは多様化しても、2人はドミトリーや、じっくり語らう「旅人宿」へのこだわりは変えない。一緒にテーブルを囲んで同じものを食べ、飲む。達彦さんは「時代が進んでドミトリーやこのスタイルが廃れても、需要がある限り、かたくなにやり通しますよ」。リアルで濃密な出会いのある旅の楽しみは、昭和40年代も今も変わっていない。

一から新しい「駅」をつくった夫婦は、取材後に車を動かした筆者に「いってらっしゃーい」と見えなくなるまで手を振ってくれた。実家に帰ったような安心感も、新しい出会いを予感させるワクワク感も、不思議な懐かしさも、同時にわいてきた。

宿泊者に手渡される硬券の見本。懐かしさを感じ、再訪への期待が高まる旅人との交流を楽しむ夕食の時間(富岡さん提供)
宿泊者に手渡される硬券の見本。懐かしさを感じ、再訪への期待が高まる「駅舎」の前でポーズを取る富岡さん夫婦

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