五穀豊穣を祈る春祭り「予祝祭」のひとつ、「祈年祭(きねんさい、としごいのまつり)」

祭りは、神仏に働きかけて、生活の安寧を実現しようとするものだが、神仏に働きかける祭りの手法は一つではない。多くは、奉納するといった穏やかなものであるが、一部には雨を降らせたいときなどに、神の坐す神聖な淵に、牛馬の首を投げ込んで怒らせるといった乱暴なものもある。

毎年7月に行われる吉野山金峯山寺の「蛙飛び行事」は、白河天皇の時代、山伏を侮辱したことで鷲にさらわれた不心得者を金峯山寺僧侶が蛙の姿に変えてあげて救い出し、蔵王権現の前で人間に立ち返らせたという伝説を実際に演じたものである。この祭りのように、過去に起きた事柄を再現する祭りは、奇祭と呼ばれることも多い。これらは過去に神仏の恩恵を受けることがあった場合、同じことを繰り返すことで、再び祝福を得ようとするものだ。

秋の収穫のシーズンになれば、稔りに感謝を捧げる祭りが各地で開催される。収穫を感謝する秋祭と対をなすのが、豊作を祈る春祭りだろう。

春祭りは各地で斎行されるが、中でも御田植祭・田遊びと呼ばれるものは、牛による田作りから田植え、豊かな収穫までの作業を模した所作を伴うものが多い。豊作など期待する結果を所作で表現し、それが実現することを祈る祭りを「予祝祭」と呼ぶ。

毎年2月17日に各地の神社や宮中で斎行される「祈年祭(きねんさい)」も、五穀豊穣を祈る予祝祭といえる。春には祈年祭で豊作を祈り、秋には新嘗祭で収穫に感謝をするということだ。

御田植祭の様子御田植祭の様子

祈年祭の起源は飛鳥時代から

祈年祭の起源は、飛鳥時代にまで遡るとされる。

『日本書紀』には、天智天皇九(670)年に諸神の座を敷いて幣帛をわかったこと、天武天皇四(675)年正月に諸社に幣帛を祭ったこと、持統天皇四(690)年正月に畿内において天神地祇に幣帛をわかったことなどの記録があり、これらは実質的な祈年祭だったといわれてきた。

しかし、歴史学者であり皇學館大学の名誉教授を務めた田中卓氏は「造大幣司-『祈年祭』の成立-」と題する論文の中で、これらの記録は祈年祭ではないとしている。『続日本紀』の慶雲三(706)年二月に「始めて祈年の幣帛の例に入る」という記録があり、大宝元(701)年十一月の「造大幣司を始任」という記事が祈年祭の成立を意味しているのではないかというのだ。

『日本書紀』には、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が、高天原からこの地に降臨する際、「斎庭(ゆにわ)の稲穂」を授け、よく育てるようにと言いつけたとある。「斎庭(ゆにわ)」とは清浄な場のこと。
つまり、日本人にとって、日本の神々にとって、稲作は神聖なものであり、稲作に関する祭りは特に重要なものであった。

稲作は神聖なものであり、稲作に関する祭りは重要なものとされた稲作は神聖なものであり、稲作に関する祭りは重要なものとされた

平安時代の祈年祭

平安時代中期に編纂された『延喜式』巻九・十は「神名帳」と呼ばれ、当初の祈年祭では、朝廷から幣帛が奉られていた全国三千一百三十二座の神々が記載されており、各地に鎮座する神々が祈願の対象だったと考えられる。その後次第に、神祇官によりミトシ(御歳・御年)神を奉る祭祀となっていったようだ。

『延喜式』巻八には神祇官による祈年祭の祝詞が収められている。「御年の皇神等の前に白さく」から始まっており、御歳神(みとしのかみ)に奉る祭だったのだろう。また、「御年の皇神の前に、白き馬・白き猪・白き鶏、種々の色の物を備へ奉りて」と、供え物についても詳述している。

『古事記』によれば、御歳神(みとしのかみ)は素戔嗚尊(すさのおのかみ)との子どもだ。神大市比売(かむおおいちひめ)は大山津見神(おおつやまづのかみ)の娘で、市場の神様として信仰される女神である。それはそうと、御歳神(みとしのかみ)への捧げものが白馬・白猪・白鶏になった理由はなんだったのだろう。平安時代初期に、朝廷の祭祀を掌る斎部氏が編纂した『古語拾遺』には、祈年祭の起源と考えられるエピソードが記載されている。

大地主神の田植えの日に、田作りに携わる人々が牛肉を食べたため、御歳神(みとしのかみ)の怒りにふれてイナゴが大発生した。困った大地主神が、どうすればイナゴの害がなくなるか占わせたところ、「御歳神が祟を為す。白猪・白馬・白鶏を献りて、其の怒りを解くべし」と託宣があった。
そこでその通りにすると「実に吾が意ぞ。麻柄をもって桛(かせ)に作りて之に桛ひ、 すなわちその葉をもってこれを祓い、天押草(あめのおしくさ)を以てこれを押し、烏扇(からすおうぎ)を以てこれを扇ぐべし。もしかくのごとくして出で去らずば、牛の宍をもって溝口におきて、男茎形を作りて加え、薏子(つすだま)・蜀椒(なるはじかみ)・呉桃(くるみ)の葉、また塩をもってその畔に班ち置くべし」と重ねて託宣があり、その通りにすると、穀物が豊かに実ったという。桛は紡いだ糸を巻き取る器具で、イナゴを巻き取る意味があると考えられる。天押草はイナゴを押し出す、烏扇は扇ぎ出す意味があり、呪術的な所作だと考えられる。

天押草はゴマノハグサ、烏扇はヒオウギ、薏子はジュズダマ、蜀椒はサンショウの古名。名前だけ聞くとあまり馴染みなく感じるが、写真を見れば、どこかで見たことがあると感じるのではないだろうか。

神社の絵馬にも書かれる白い神馬(写真は寒川神社の絵馬)神社の絵馬にも書かれる白い神馬(写真は寒川神社の絵馬)

祈年祭の変遷

古来日本では、春になると豊穣をもたらす田の神が山から下りてきて田を守護し、秋に収穫が終わればまた山に戻り、山の神となると考えられてきた。

つまり、春祭りは神迎え、秋祭りは神送りの祭りでもあったと考えられる。田の神や山の神は、神道の神というより、先祖の霊が山に籠って村を見守ってくれていると信じる、ごく素朴で原始的な神だろう。日本古来の信仰が、「御歳神(みとしのかみ)」を対象にする祭りへと変化したといえる。

その後室町時代に起きた応仁の乱をきっかけに、祈年祭はいったん絶たれる。明治5(1872)年に国家神道の儀式として復活するが、太平洋戦争の後、GHQ(連合国最高司令官総司令部)により国家神道が廃止。現代では宮中三殿において、天皇の私的な祭典として毎年2月17日に斎行されている。

宮中での祈年祭と同じく重要視されるのは、伊勢神宮における祈年祭だろう。
伊勢市観光協会のサイトによれば、伊勢神宮の外宮・内宮において「大御饌(おおみけ)の儀」と「奉幣(ほうへい)の儀」が執り行われるという。
「大御饌の儀」は神饌(しんせん)を供えて豊作を祈願するもので、「奉幣の儀」は天皇陛下が勅使を遣わされて幣帛(へいはく)を奉られるもの。神饌(しんせん)とは神が召し上がる食べ物を指し、米や魚など生のままのものを生饌(せいせん)、調理したものを熟饌(じゅくせん)と呼ぶ。幣帛とは布帛類のことをいう。祈年祭で奉られる神饌の代表的なものとして鰒(あわび)があり、内宮正宮に運ばれる直前に、すぐ手前の御贄調舎(みにえちょうしゃ)で、神職が鰒(あわび)を調理する儀式があるのだ。幣帛は五色の絹など、だそうだ。

また、この時期、各地の神社でも祈年祭が行われる。
神社本庁の祈年祭の祝詞例文は「掛けまくも畏き某神社の大前に白さく」から始まっているから、おのおの神社の祭神に奉ることを前提にしているようだ。
2月17日は祈年祭。五穀豊穣と国家の安泰を祈る祭りに思いを馳せてみてはどうだろうか。

日本では春になると豊穣をもたらす田の神が山から下り、田を守護すると考えられてきた(写真は花尾神社の鳥居と稲穂)日本では春になると豊穣をもたらす田の神が山から下り、田を守護すると考えられてきた(写真は花尾神社の鳥居と稲穂)
日本では春になると豊穣をもたらす田の神が山から下り、田を守護すると考えられてきた(写真は花尾神社の鳥居と稲穂)伊勢神宮、祈年祭の様子[写真提供:神宮司庁]

■参考
国書刊行会『壬申の乱とその前後』田中卓著 1975年1985年9月発行
岩波書店『古語拾遺』斎部広成撰 2004年2月発行
桜楓社『祝詞』青木紀元編 1975年11月発行
神社新報社『神社本庁例文 祝詞例文集上巻 祝詞、祓詞及び祭詞』神社本庁編 1956年6月発行

伊勢市観光協会「伊勢神宮の祈年祭」
http://ise-kanko.com/blog/naiku/2016/02/15/553/

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