日本人と富士山の関係

日本一の山、富士山。
標高3776.12 メートルと日本一の高さであるだけでなく、優美な円錐形の独立峰で、日本の象徴ともされている。その美しさから古来信仰の対象とされており、浅間信仰が生まれた。

富士山の麓には富士山本宮浅間大社や北口本宮冨士浅間神社のほか、多くの浅間神社が鎮座し、コノハナサクヤヒメを祭神としている。富士山本宮浅間大社は、富士山の噴火を鎮めたという神徳により祀られ、富士山信仰の広まりと共に全国に祀られる1300余の浅間神社の総本宮と称される。
コノハナサクヤヒメは桜の女神でもあり、アマテラス神の孫(天孫)であるニニギ神に嫁いで皇室の祖となる子を生んだ「国母」だから、日本の象徴富士山の祭神としてこれ以上ふさわしい女神はいないだろう。しかし、浅間信仰の初期からコノハナサクヤヒメが富士山の女神とされていたわけではない。

『常陸国風土記』には富士山と筑波山を比較したエピソードがある。
親神が子神たちを訪ねてまわったとき、富士山に来たところで日が暮れてしまった。そこで富士山に宿を貸してくれるよう頼んだところ「今は精進中なので泊めることはできません」と冷たく断られてしまう。そこで親神は「私はおまえの親なのになんて薄情なのだ。これから富士山は夏も寒く、人が登らず、誰もお供えをしない山になるだろう」と呪いの言葉を吐いた。しかし筑波山は快く宿を貸したため、人々が集まる山となったのだという。この神話の中で富士山は「福慈の岳」と表記されており、必ずしも悪いイメージではないが、筑波山の引き立て役をさせられている。また、この話の中にコノハナサクヤヒメの名前は一切出てこない。

富士山本宮浅間大社富士山本宮浅間大社

かぐや姫と富士山

南北朝時代中期に成立したとされる『神道集』には「富士浅間大菩薩の事」という物語が収められている。

雄略天皇の時代、子どものいない老夫婦が嘆いていると、竹林から美しい女の子が現れたので「赫野(かくや)姫」と名付けた。
赫野姫は美しく成長し、時の国司と恋仲になる。しかし、あるとき赫野姫は、「私は富士山の仙女ですが、老夫婦とは前世で縁があったので娘となりました。お返しも済んだので富士山に戻ります」と姿を消してしまう。
恋仲だった国司は、悲しみ、富士山の頂上に登り自殺するのだが、その後、赫野姫とともに神として現れて、富士浅間大菩薩と呼ばれたという。

富士山本宮浅間大社の主祭神は木花之佐久夜毘売命(コノハナサクヤヒメノミコト)(別称:浅間大神 あさまのおおかみ)富士山本宮浅間大社の主祭神は木花之佐久夜毘売命(コノハナサクヤヒメノミコト)(別称:浅間大神 あさまのおおかみ)
竹取物語にある「不死の山」には、富士山とのつながりがみえる竹取物語にある「不死の山」には、富士山とのつながりがみえる

私たちがよく知る、かぐや姫物語ともいえる『竹取物語』が成立したのは平安時代前期で、かぐや姫が富士山に登ったというくだりはない。
しかしかぐや姫が月に帰る時、不死の薬を贈られた帝が、「かぐや姫を失っては、不死の薬などなんにもならない」と、月に一番近い……つまり日本で一番高い山の上で不死の薬を焼かせるシーンがある。そこでその山を「不死(ふし)山」と呼ぶようになった、とある。

富士山は、かぐや姫ともつながりがあるようだ。

富士山の女神とされる「コノハナサクヤヒメ」

コノハナサクヤヒメが富士山の女神とされるようになったのがいつからかはわからない。
静岡県富士山世界遺産センター准教授の大高康正氏は、著書『富士山信仰と修験道』の中で「富士山の祭神を赫夜(野)姫としていた中世の富士山縁起に、木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)が登場するものはない」と明言している。また、富士山信仰の神社がコノハナサクヤヒメを祭神とするようになったのは江戸時代に入ってからだとし、江戸時代の儒学者・林羅山が『丙辰紀行』の中で、オオヤマヅミを祭る三島大社と富士は父子の神であるという言い伝えが古くからあることを考えれば、富士山の祭神はオオヤマヅミの娘であるコノハナサクヤヒメだろうと書いていることをあげている。

林羅山の『本朝神社考』で富士山は、美女が時の天皇の求婚を逃れて隠れた場所として登場する。天皇が富士山頂の巌崛を訪れると美女は微笑んで迎え入れ、共に巌崛に入った。天皇はここに住みたいと願い、浅間大神として信仰されるようになった。「巌崛」は「いわや」と読み、岩場にできた洞窟だと考えられる。『神道集』『本朝神社考』共に、富士山にゆかりの深い美女が貴人と共に神となったとしているが、林羅山は美女の名を特定していないのだ。

コノハナサクヤヒメは火の中で出産したという逸話があるので、富士山の噴火を鎮めるとする考えもあったようだ。火の中で出産したのは、夫であるニニギから「たった一晩で妊娠するのはおかしいから、お腹の子は不義の子だろう」と疑われたからだ。そこでコノハナサクヤヒメは戸のない小屋を作って火を放ち、「もし本当に不義の子であれば私も子どもも焼死するでしょう。もし天孫の子であれば無事でしょう」と予言し、無事に皇子を生む。このような予言を「誓約(うけひ)」と呼び、古代では効力があるとされた。

富士山信仰を浅間信仰と呼ぶ理由も諸説あってはっきりしないが、火山を意味する古語やアイヌ語が語源とも考えられている。

山岳信仰の誕生

富士山が信仰の対象となったのは、平安時代後期の修行僧・末代上人が深く関わっているとされる。
日本において、登山がスポーツとして認識されるようになったのは明治時代以降で、それ以前は修行の意味合いが強かった。末代上人は富士山に数百回も登頂し、頂上に大日寺を建立したとされる。現代のような装備がない時代、富士山への登頂は命がけだっただろう。

ただ、平安時代初期の仏教説話『日本霊異記』には、修験道の開祖である役行者が伊豆に流刑されたとき、夜は富士の嶺に登って修行をしたとあるから、末代上人以前から、富士山は修行の山であるという認識はあった。

考古学者の小林謙一氏が編纂した『考古学と歴史学』によれば、富士宮市にある浅間大社遺跡などの発掘調査では、平安時代前半に山岳修験などの活動跡が見られるが継続せず、12世紀ごろから施設などの建物が建ち始めたのがわかるとのことで、末代上人の伝説と合致する。
室町時代には、そんな活動は衰退するが、戦国時代になると大宮司であった富士家が武装化。戦国時代末期には富士山の宮司居館などが焼き討ちにあうが、徳川家康によって現在の景観に近い浅間大社が建立された。

静岡県富士宮市にある「富士淺間大神」の石碑静岡県富士宮市にある「富士淺間大神」の石碑

富士山信仰が庶民にも広がり生まれた「富士講」と「富士塚」

江戸時代になると、富士山への信仰は庶民にも広がり、修験道の行者である長谷川角行が、巡礼として定期的に富士山に登る「富士講」を開いたとされる。
角行は「御身抜(おみぬき)」と呼ばれる巻物を信徒に与え、これが富士講の教義となった。また、「風先侎(ふせぎ)」と呼ぶ護符は流行病治癒の霊験あらたかであるとして、もてはやされたという。その後吉田口や須走口などに住む「御師」と呼ばれる指導者が教えを説いて回り、巡礼の際は宿を提供し、登山道具も貸し出すようになった。

富士山が閉山中、あるいは富士山を登山する体力のない者のために、ミニチュアの富士山ともいえる「富士塚」が神社などに築かれた。富士山に模して造営された人工の山や塚である。富士塚の頂上からは富士山が遥拝でき、富士山のつもりで登れば、霊験あらたかであるとされる。

江戸には数多くの富士塚が造られたが、江戸七富士と呼ばれる品川神社「品川富士」、鳩森八幡神社「千駄ヶ谷富士」、茅原浅間神社「江古田富士」、十条冨士神社「十条富士」、護国寺「音羽富士」、高松富士浅間神社「高松富士」、小野照崎神社「下谷坂本富士」があり、七富士巡りも可能である。
興味のある方は、登ってみてはいかがだろうか。

小野照崎神社にある富士塚小野照崎神社にある富士塚
小野照崎神社にある富士塚白糸の滝から富士山をのぞむ

■参考
現代思潮社『続日本古典全集 本朝神社考 神社考詳節』林羅山著 石井恭二編 1980年7月発行
平凡社『日本霊異記』原田敏明・高橋貢訳 2000年1月発行
平凡社『神道集』貴志正造訳 1967年7月発行
中央大学出版部『考古学と歴史学』小林謙一編 2020年3月発行
岩田書院『富士山信仰と修験道』大高康正著 2013年12月発行

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