7月は鬼月、1日になると常世の蓋が開き、15日の中元節に閉じる

東山如意ヶ嶽に焚かれる「大」の文字の送り火。賀茂川に架かる上賀茂橋からの眺めが絶景東山如意ヶ嶽に焚かれる「大」の文字の送り火。賀茂川に架かる上賀茂橋からの眺めが絶景

夏の京都の大イベントと言えば、五山の送り火だ。毎年8月16日の夜に「大」「妙法」「左大文字」「舟形」「鳥居」の5つの文字や図形が、京都の東、北、西に位置する五山(実際には妙と法が分かれて6つの山)に炎で描かれる。これは日本の民間信仰である「お盆」の行事の一つとして行われるもので、これらの文字というか図形の配列や点火の順番に特に意味は無く、「五山の送り火」と称されてはいるが、元々はそれぞれが独立した村落の1行事であった。

京都の五山の送り火は、古くはもっと多くの場所で行われていたという。しかし現在は5つに減り、大文字保存会(旧浄土寺村旧家52戸)、松ヶ崎妙法保存会(旧松ヶ崎村79戸)、舟形万灯籠保存会(西方寺檀家地域旧家55戸)、左大文字保存会(旧大北山村旧家65名)、鳥居形松明保存会(旧大北山村旧家若者組45名)によって主催されている。また村落の単独イベントとしてではなく、行政上の観光イベント「五山の送り火」として連携、開催されるようになったため、それぞれの祭りの独自性は若干薄れ、各々のしきたりや手順が伝統として残されているに留まっている。

お盆には五山の送り火だけでなく、日本各地で様々なイベントが開催される。例えば青森のねぷた祭り、秋田の竿燈祭り、長崎の精霊流し、春日大社の中元万灯籠など、その多くが火祭りの特色を持つもので、直接的な火祭りではない盆踊り行事などでも灯籠や雪洞、花火と言った「火」に関するアイテムが使われている。

なぜお盆に火の祭りなのか?その謎を解く鍵は、お盆という風習の起源にある。お盆とは簡単に言えば、常世から一時的に我が家に帰ってきたご先祖様をもてなすという風習で、仏教と陰陽道と祖霊信仰がミックスして出来上がったものである。そして更にその起源をたどると、中国の道教に行き着く。

道教とは、中国の神話に出てくる王「黄帝」を始祖とする思想のことで、後に哲学者である老子(李耳)を介して、民間宗教になるまでに広まった。老子は「太上老君」という最高神として崇められてきたほど道教ではとても神聖視されていて、歴史の教科書にも必ず登場する人物なのでご存知の方も多いことだろう。

道教では7月を「鬼月」と呼び、7月1日になると常世の蓋が開き、15日の中元節になると閉じる、そしてその間に「鬼(キ)」が現世に帰ってくると信じられてきた。「鬼」とは中国では先祖の霊のことを指し、この思想が日本に輸入され、お盆になるとご先祖様が帰ってくるという風習に繋がっていった。

五山の送り火が8月に開催されるのは、現在のグレゴリオ暦(新暦)と旧暦との時差が約30日程あるため、昔の7月はだいたい今の8月に当たるためである。そこで日本では、7月に行うお盆を「新暦のお盆」、8月を「旧暦のお盆」と呼んで区別している。東京近郊では新歴のお盆を採用しているところが多いため、7月15日前後をイメージする人が多いことだろう。しかし実は7月に七夕やお盆をする地域は、沖縄と東京を中心にした関東地方、金沢と函館くらいと少数派で、五山の送り火をはじめ、先述のねぷた祭り、竿燈祭り、精霊流しなど多くの祭りは旧盆に行われている。

火は現世と常世を繋ぐ、天上界へ送り届けるエレベーター

さて、なぜ鬼月のお盆に火の祭りが行われるのかに戻ろう。先ほどご紹介したように、日本のお盆は仏教と陰陽道と祖霊信仰がミックスして出来上がったものである。この仏教思想の中に火に関する信仰があり、そこから火の祭りへとつながっていったと考えられる。

そもそも火を神聖視する宗教思想はそれほど多くない。これを火炎崇拝と呼び、日本には古くから竈神(かまどがみ)信仰があったが、他の地域では中東のゾロアスター教、ヴェーダ宗教、そしてインドのヒンドゥー教に仏教くらいなものである。

では仏教思想の火炎信仰とはどういうものか。護摩(ごま)を焚くという言葉をご存知の方も多いことだろう。仏教の儀式に、「護摩」という焚火の中に供物を投げ込み、煩悩や業を焼き、身にまとう穢れを祓うというものがある。

護摩は、密教だけが行う儀式で、目的別に息災・増益・調伏・敬愛・鉤召の五種類に分類される。ちなみに山岳信仰である修験道でも野外で護摩を行う儀式があるが、これは密教の影響と考えられている。その他、現在では多くの神社仏閣で、「お焚き上げ」と呼ばれる祭祀や供養・法要が営まれているが、これらも起源は密教の護摩に始まっていると考えられている。

仏教には、護摩以外にも「火天」という火を信仰の対象として神格化した仏法の守護者が存在する。火天は、十二天という仏法を守護する12の善神、例えば帝釈天や毘沙門天、火天、水天、風天と言う名前の総勢十二神の中の一人で、特に密教では火天が非常に重要視されている。十二天とは、四方(東西南北)、四元素(火水気土)に、天地と日月を意味している。

火天の起源を探ってみると、古代インドの神話まで遡る。古代インドでは火天と同じ属性を持った火の神をアグニと呼び、赤色の体に炎の衣をまとった姿で描かれている。このアグニの役割は、神々を祭場に誘い、供物を祭火で焼いて天に届けるというものであった。

つまり仏教における火炎信仰とは、業火によって穢れを焼き尽くすということと、現世と常世を繋ぐ橋渡しと、2つの意味を内包している。お盆の送り火はその橋渡しの力で、お盆に帰ってきたご先祖様たちを無事に浄土へ送り届けようと考えたものなのである。7月15日に常世の蓋が閉まり、門限に遅れて帰り損なったご先祖様を16日の送り火で帰って頂きましょうという仕組みだと考えると面白い。お盆の風習には、精霊馬キュウリの馬にナスの牛を用意して、ご先祖様が疲れないようにともてなすのだが、送り火というエレベーターがあればさらに完璧というわけだ。

護摩の焚き上げ行は、真密台密の修法。護摩の語源はサンスクリット語のホーマ(生贄)から来ている護摩の焚き上げ行は、真密台密の修法。護摩の語源はサンスクリット語のホーマ(生贄)から来ている

無数の燈篭が連なるマントウロウから、大きな炎で描かれた文字や図形へ

五山の送り火に関して言えば、その成立についての詳細は未だ明らかになっていない。このような風習の成立については正式な記録が残されていることが少なく、口伝や個人の日記などでその片鱗を見ることしかできないため、明確な年代を特定することは歴史学的にも民俗学的にも大変に難しいことである。

そこで、この行事の特徴である①京都盆地の周辺地域の各村で行われる。②盆の精霊送りの行事である。③遠望されるほどの大きな火祭りである。この3点の特徴を満たす出来事の記録を探してみると「マントウロウ」というものに行き当たる。

まず、室町時代の公家の日記である「言國卿記(ときくにきょうき)」の中で、文明八年(1476)七月十五日の条を見ると、「夜に罷出、所々のマントウロウ見了、小輔・左衛門・掃部共也」、「燈籠見物すべしとてさそわるるなり」、つまりみんなで誘い合ってマントウロウと言う燈篭を見物しに行ったという記述があり、当時すでに有名なイベントであったことが窺われる。

ここに書かれている燈籠とは、仏教の儀式である盂蘭盆会(うらぼんえ)に使うもので、マントウロウと呼ばれるほどに数多くの燈篭が飾られていたと推察される。また、この日記には、禁裏への進物用として、後土御門天皇へは瓜模様の燈篭を、勝仁親王用の柳の枝模様の燈篭を作って送ったとの記録も残されている。

この言國卿記にある「マントウロウ」なるものは、他の資料にも散見されており、臨済宗相国寺の僧侶の公用日記である「蔭涼軒日録」の文明十九年七月十七日の条にも「諸霊に向かい水を向け、屋上に登り四面の万燈をみる」と記されている。また他の年の記述にも「太頭痛あり、禮僧太多し、四山万燈これを見ず」とあり、マントウロウとは周囲の山で灯される多くの燈篭群を意味し、屋上に登って遠望し、鎮魂や祈願の対象となっていたことがわかる。

ではこのような精霊送りが、燈籠群や行灯、提灯のようなものから、巨大な炎の文字や図形に変化したのは、いつ頃のことだろうか。江戸時代初期の地誌類「洛陽名所集」にその記述を見ることができる。それによると「そのかみより七月十六日の夜、四方の山に松明にて妙法大の三文字、或いは船の形などをつくる事也」とあり、「大」「妙法」「舟形」の3つはこの当時に既にあったことがわかる。

この大の文字を書いたのは、弘法大師説、青蓮院門跡説、足利義光説、近衛信尹説など多数存在し、その意味についても所説あるが、実際のところは全く分からない。

妙法という文字については、仏法の教えを意味している。「南無妙法蓮華経」にも含まれるが、これを分解すると「南無」「妙法蓮華経」となり、後に法華宗では法華経のことを「妙法」と呼ぶようになった。

舟形は、精霊送りの一つとして「船送り」と言うものがあり、お盆の供物などを藁や茅で作った船に乗せて、川や海に流す風習から来ているのではないかと考えられている。

無数の燈籠の連なりが、遠望する山肌に連なる姿は、それはそれで何やら神々しくもあり、美しい眺めであったろうと思われる。それが、大きな炎で書かれた文字や図形へと変化するのにさして時間はかからなかったのかもしれない。夜空の空中に浮かぶ炎の「妙法」の文字は、民衆の心を仏法の世界観へと誘ったことであろう。

火祭りに相応しく盛大に花火や爆竹が、夜空を焦がす長崎の精霊流し火祭りに相応しく盛大に花火や爆竹が、夜空を焦がす長崎の精霊流し

送り火だけでなく迎え火もある、現世と常世の境界と言われる六道の辻

さて、ここまで五山の送り火について検証してきたが、送るということは迎える必要もあり、お盆の風習では「迎え火」も存在する。迎え火は、7月13日に屋敷の門口辺りで、麻の茎を折り重ねて火を燃やす。しかし江戸期に入ると、都市部では火災を防ぐために、迎え火を焚くのをやめ、盆提灯が多く用いられるようになった。いずれの精霊迎えであれ、その目的は祖霊が迷わず我が家へ帰ってこれますようにという道標である。

しかし、京都ではちょっと変わった精霊迎えの盆行事があり、それが東山の珍皇寺の六道参りである。京都では祖霊が自ら帰って来るのに任せるのではなく、自分たちで常世の出入り口まで出向いてお迎えに行く。その際は、自家の宗派に関係なく、常世の境界だとされた特定の寺に迎えに行くのが特色で、千本釈迦堂、千本閻魔堂、珍皇寺が有名である。中でも珍皇寺の六道参りはその規模で他を大きく凌いでいる。

六道参りは、毎年8月7日〜10日に行われ、この期間昼夜を問わず境内が参拝客で埋め尽くされる。精霊迎えの参拝手順は、①高野槙を買い求める②本堂前で戒名を水塔婆に書いてもらう③迎え鐘を撞く④地蔵尊前で水回向の後に納める⑤8月17日に水塔婆を納め盂蘭盆会施餓鬼法要を修めるというものである。

この六道参りの起源も五山の送り火同様、はっきりしたことは記録で残されてはいないが、江戸初期の医師であり歴史家でもある黒川道祐の「日次紀事」の7月9日の条に、「東山六道地蔵詣で、男女鐘を撞きて聖霊を迎ふ、各々槇の枝を買って携えて帰る」とあるため、この時期には現在のような六道参りの風習が確立していたと考えていいだろう。

この東山珍皇寺の周辺は、古くから「六道の辻」と呼ばれ、現世と常世の境界だと考えられていた。今昔物語巻第20に小野篁がこの珍皇寺の古井戸から冥府の閻魔庁へ通って、閻魔大王を補佐したという伝説が残されている。

他の地域における迎えの儀式は基本的に、迎え火を焚いたり、提灯や雪洞を灯したりして、我が家への道しるべを示すものだが、京都の人たちは古くから自ら六道の辻へ出向き、閻魔大王の補佐役の力を借りて、ご先祖様にお盆のひと時だけでも我が家に戻って寛いで頂きたいと願ってきた。

お盆の時期は、多くの地域で様々な行事が営まれている。盆踊り、花火大会、送り火と様々なイベントに一貫して流れるのは、死者に対しての追慕であり回向である。今は亡き故人を偲び、墓の掃除をし、お盆の設えを準備する。お盆とは祖霊に感謝し、天に供物を捧げ、現世での安寧と繁栄を祈る祭りなのである。一年に一度、ふと立ち止まり祖霊を回向しながら、自分の来し方行く末について思いをはせるのも、また必要なひと時かもしれない。

六道の辻珍皇寺の境内にある冥土通の井戸。小野篁がここを抜けて閻魔庁へ通った地獄の門六道の辻珍皇寺の境内にある冥土通の井戸。小野篁がここを抜けて閻魔庁へ通った地獄の門

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