「人の身に止む事を得ずして営む所」
「衣食住」が生活の基本であると教えられてきた。普通に考えても、なければ困るもので、なんの疑いも持っていない。住まい文化としての匂いもあまり感じない。
しかしこれも、兼好法師が『徒然草』に書いていたと知ると、住まい文化として考えたくもなる。それは第百二十三段に書かれている。
「第一に食ふ物、第二に着る物、第三に居る所なり 人間の大事この三つには過ぎず」
ちょっとだけ順序が違い「食衣住」だ。いやむしろ、この順のほうが分かりやすい。しかし3つでは収まらずに、その後に続く…。
「人皆病あり~医療を忘るべからず」
人には病があり、病に冒されれば、その心の憂いは耐えることもできない。薬を加えて「食・衣・住・医薬」の4つだという。800年前の記述とはいいながら、この4つ方が的を得ているような気がする。
兼好法師の説は続く。
この4つを求めなければならないのは、貧しい状況にある。
この4つに欠けがないことは、富める状況にある。
この4つ以外を求めることは、奢っている状況にある。
さてこの4つは、現在、いかようなものであろうか。
食・衣は、グルメ・ファッションと言い換え、欠かせないどころか贅沢なものとなった。「衣」は寒さを凌ぐものよりファッションによって薄着になり「住」に暖かさを求める原因にもなっている。グルメ・ファッションは、世界の中でも日本は最も富める国のひとつになった。住宅も空き家が増えて余っている。医薬も日本の評価は世界の中では高い。日本は富める国だ。
それどころか、他にも「インターネット」やら「SNS」が欠かせないものとなりつつある。「住」以上に大切と考える人も少なくない。日本は富める国から、今や奢っている国としか、兼好法師の目には映らないだろう。
かといって「住」には、グルメ・ファッションに通じるような言葉はない。住まいに性能などの快適性=アメニティを求める話しもあるが、食と衣に栄養や繊維の話しばかりをするのと変わらない。それではグルメ・ファッションとは呼ばれなかったであろうし、食文化・服飾文化も築かれなかっただろう。医薬で考えれば「QOL」だろうか。単なる治療法から「生活の質」が問われ、医療文化が生まれ始めていると考えられる。
それに比べれば、どうやら日本の住まい文化は、まだまだ途上と考えるしかない。
「家に鼠あり」
『徒然草』の中には、まだまだ住まいに関する記述はある。第九十七段を考えてみよう。
「其の物につきて その物を費し損ふもの 数を知らずあり」
読めば意味するところはなんとなくわかる。その答えに「身に虱あり 家に鼠あり」と書かれている。
虱は小さく身体に取り付いてもわからず、血を搾取され不愉快なものだ。
同じように、家には鼠が住みついて、大事な穀物どころか、柱や梁など家そのものをかじってしまう。げっ歯類は常に歯を研ぎ続けなければ生きていけない。この2つは、わかりやすい事例だ。
家への記述はたったこれだけだが、ちょっと偏屈な想像を広げよう。
家に対して、どうして鼠だったのだろうか?
現代の家の耐久では、鼠で家が潰れることは考えない。それよりも白蟻や腐朽菌の方がよっぽど大敵だ。顕微鏡もなく科学的な分析も知らない当時の人には、蟻や菌は目につかなかったのだろうか。
いや、当時の人は木が腐るものとは考えていなかったのかもしれない。さまざまな知恵を集めてヒバやスギなど白蟻が食べない樹種を選び、乾燥させ、柿渋や漆を塗り管理すれば、木材は朽ち果てないと考えていた。だからこそ、大事な社寺を石造りではなく、木材を使って建ててきた。やっぱり目に見える家の敵は鼠だったのだ。
鼠が家をかじらなくなった現今、家は白蟻や腐朽菌によって朽ち果てる消費財と考えられている。現代なら兼好法師は「家に鼠あり」とは書かず「菌あり」と書くことだろう。長持ちして文化を宿すと考えられてきた木材は、文明が進むと使い捨ての材料として扱われることになる。
しかも皮肉なことに、世界で一番古い木造建築物を残す国が、世界で一番木材の価値を信じていない。時間があれば、家の値段を調べてみたら良い。もっとも耐久性のあるはずの木材に、どの程度の費用しか払われていないかがわかるだろう。それどころか価値のなくなるものばかりに、金を払っている。日本で家の価値が無くなるのは当然のことだ。
空き家問題も、消費財として扱われて価値のないものが、路傍に捨て置かれているという現象に思えてくる。ゴミは、ゴミ箱に捨てるのが解決策だ。
家にとりついて費し損なっているのは、鼠ではなく、無見識と無文化と悪慣習だ。それは菌よりも、もっと怖いものだ。
「国に賊あり、小人に財あり」
さて本当に、国は民の豊かさを求めてきただろうか。
『徒然草』の語る豊かさは、「食・衣・住・医薬」が欠けないことだ。
年をとってから住宅ローンのために、住まいを追われるような、世界にも稀な国を作っていないだろうか。残念ながら一部の賊に、たぶらかされた政策がはびこってきたような気がする。単純に家の価値を、国が認めて保証をすればよい話しだ。アメリカがニューディール政策でやってきたように…。性能などと称して、いたずらに家の価格を高騰させる施策が正しいわけもない。誰でもが手に入れ、価値を失うことがない家のあり方は、もっと簡単なことであるはずだ。
地域発展のために身を粉にして働くのが大人だ。それが地元のホームビルダーの役割だと、アメリカ政府は発表し求めている。
郵便が届かない地域も、小学校に通えない地域も、医師にかかれない地域もあってはならない。同じようにホームビルダーのいない地域もあってはならない。
大人と小人の差は、企業規模の差ではない。儲かる地域に次々と進出し、儲からない地域から撤退するのが小人だ。そのような小人にいたずらな利を与えてはいけない。
このように読んでくると、あまりにも今の住宅業界には痛すぎる話しだ。
「君子に仁義あり、僧に法あり」
仁義を語るようであれば君子ではなく、法を語るようであれば法律家でもない。
兼好法師は『徒然草』の中で、ここまで迫る。
このような皮肉を語るということは、それはそれで800年前も大して社会は変わっていないという証拠なのかもしれない。
そんなことはどうでもよい。ここでは住まい文化を、どう扱うかの方が大事だ。
自分のビジョンも、誰が儲かるかも関係ない。世間離れした偉い人たちが語るデータ分析も、裏で利を求めた性能基準も、法律で定めようとしている世界標準も関係ない。
日本に来始めている海外の訪問者たちが、日本の住まい文化に触れて感動をする。そんな家が広まることが、重ね重ね大切だ。
2020年に向けて、兼好法師の『徒然草』を、このように読んでみた。
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