築110年を超える歴史ある邸宅建築。見学会も実施されている

関東一円に未曽有の被害を及ぼした関東大震災(1923年)。そんな大震災の被害、さらには第2次世界大戦の戦禍を逃れ、今もなお、東京都心に残る木造の邸宅がある。文京区小石川の旧磯野家住宅である。主屋の屋根が銅板葺きで、外壁にも銅板を張りめぐらされていることから「銅(あかがね)御殿」とも呼ばれている。

明治末期の1909(明治42)年に着工し、4年間かけて1912(大正元)年に完成。建築面積547.08m2、車寄せ玄関を備えた平屋建ての書院棟、3階建ての応接棟、平屋建ての旧台所棟からなる近代和風建築の住宅である。東京に残る築110年の邸宅建築として貴重な建物であることはもちろんのこと、材料・意匠・技法・構成など、伝統的な木造建築の技術と明治以降の大工技術・創意工夫が結集された建築作品として高い価値がある。

現在、表門と主屋は国の重要文化財となっており、普段は一般に公開されていないが、不定的ながらも年に複数回、特別見学会が開かれ、スタッフによるガイド付きで内部を見学することができる。筆者はそんな貴重な機会に参加することができた。

なお、見学会では門や館内の写真撮影は自由に行って構わないが、SNSなどに公開することは原則、禁止となっている。この記事は、旧磯野家住宅を所有・管理する公益財団法人大谷美術館に許可を得て、取材・撮影を行ったものである。

文京区小石川の湯立坂に面し、風格あるたたずまいを見せている旧磯野家住宅(銅御殿)文京区小石川の湯立坂に面し、風格あるたたずまいを見せている旧磯野家住宅(銅御殿)
文京区小石川の湯立坂に面し、風格あるたたずまいを見せている旧磯野家住宅(銅御殿)向かい側の文京区立窪町東公園から、銅御殿の3階が見える

施主・磯野敬の要望で地震にも強い家に

銅御殿の歴代当主(磯野敬、中野貫一、大谷哲平)。写真は、見学時に見せていただいた資料(『銅御殿 大谷邸写真集』の誌面の一部</BR>※画像提供/公益財団法人大谷美術館銅御殿の歴代当主(磯野敬、中野貫一、大谷哲平)。写真は、見学時に見せていただいた資料(『銅御殿 大谷邸写真集』の誌面の一部
※画像提供/公益財団法人大谷美術館

旧磯野家住宅の施主は、磯野敬(1868~1925年)。磯野は樺太、台湾、朝鮮半島に至るまで多くの山林を所有し、山林王と呼ばれた実業家で、大正期には衆議院議員を務めた。山林育成事業を手がけていただけに木材、建築に造詣が深く、友人知人が家を建てる際には助言を求められることも多かったという。

そんな磯野が自身の邸宅を建てるとなったとき、設計・施工の棟梁として白羽の矢を立てたのは、北見米造(1883~1964年)だった。北見は彫刻家・高村光雲の弟子となって仏師を目指し、のちに建築家となった。「宗国」という茶名の茶人としても活動し、戦後、茶道文化振興会を設立して初代理事長に就任。1950(昭和25)年には茶道会館(東京都新宿区)を完成させた。

そうした経歴のなかで北見が旧磯野家住宅の棟梁になったのは、20代前半のとき。当時、工業学校夜間部で建築を学んでいた学生で、それまでに茶室を3棟ほど建てた経験がある程度だったというから大抜擢だろう。

見学会では、建築時に棟梁をつとめた北見米造についての解説を聞くこともできた。写真は、見学時に見せていただいた資料(『銅御殿 大谷邸写真集』)の誌面の一部</BR>※画像提供/公益財団法人大谷美術館見学会では、建築時に棟梁をつとめた北見米造についての解説を聞くこともできた。写真は、見学時に見せていただいた資料(『銅御殿 大谷邸写真集』)の誌面の一部
※画像提供/公益財団法人大谷美術館

磯野は北見に対し、3つの要望を出した。それは、「寺と仏像が好きなので、それに合うような家にすること」「火事で燃え広がらない家」、そして「地震が起きても倒れない家」だった。地震に強い家を建てるという耐震建築の必要性が広まったのは、関東大震災の教訓を経てのことだ。そう考えると、明治期の末期に自らの邸宅を建てる際に「地震に強い家を」という要望を出した磯野は、慧眼の持ち主だったともいえる。

さらに磯野は「費用も工期も無制限」という破格の条件を出し、唯一無二の邸宅建築に力を注いだ。そうした施主・磯野の期待に応え、若き棟梁・北見は京都の寺院を見て回って耐震・耐火の研究に取り組んだ。施工に際しては木曽のヒノキをひと山ごと買い付けるなど、吟味された木材をふんだんに使い、技術と創意を投入したのだった。

良質の木材、卓越した大工技術が結集された表門

見学会は大門(表門)からスタート。この門が完成したのは、主屋が完成した翌年の1913年。京都・大徳寺龍光院の兜門(江戸時代前期の建築)を参考にしてつくられたという四脚門で、主屋とともに国の重要文化財に指定されている。四脚門は2本の本柱の前後に2本ずつ、計4本のそで柱を配した形式の門で、柱には日本三大美林のひとつとされる尾州ヒノキ(木曽ヒノキ)の太い丸太材が使われている。

門の扉には、厚さ約7cmのクスノキの一枚板が施されている。これほどに大きな一枚板だと、経年などによって反りが出やすいのだが、この大門の一枚扉には反りが見られない。これは、じっくりと時間をかけて木材を十分に乾燥させるといった緻密な処理をしているからだという。この一枚板の扉は左右対称の木目の風合いも美しく、山林王の邸宅にふさわしく、木材の表情を楽しめるつくりになっている。

節くれだったそで柱も目を引く。北見があえて節の多いものを探し求めたといい、自然がつくり出した節の模様が特徴的なのだが、そで柱の取り付けにも精緻な技術が施されている。礎石の部分に見られるのは、「光付け(ひかりつけ)」という技術だ。礎石の凹凸(おうとつ)に合わせて木を削り、隙間なくぴたりと取り付けるという高度な技術で、日本建築の伝統的な大工技術のひとつ。また、そで柱から礎石には「ホゾ」(※)が一尺(約30.3cm)ほど通されていて、地震でも倒れにくいような構造になっていると、スタッフが解説してくれた。

※ホゾ:木材や石材などの2つの部材を接合するために、一方の材の端に作られる突起のこと

国の重要文化財に指定されている表門。銅板葺きの屋根の両端には、寺院建築でよく見られる鴟尾(しび)という飾りがつけられている国の重要文化財に指定されている表門。銅板葺きの屋根の両端には、寺院建築でよく見られる鴟尾(しび)という飾りがつけられている
国の重要文化財に指定されている表門。銅板葺きの屋根の両端には、寺院建築でよく見られる鴟尾(しび)という飾りがつけられているそで柱の礎石部分。「光付け」という高度な技術で、木材をぴたりと取り付けている

屋根裏に目をやると、均一な太さの丸太が垂木としてぎっしりと組み込まれているが、垂木を支える軒桁などの水平材がない。それなのに垂木が落下してこないのはなぜなのか。資料が残されていないため理由は明らかではないが、垂木を組み上げた職人は棟梁の北見自身という。わずかであっても狂いが出ないよう、一人で組み上げたといい、北見の卓越した大工技術をうかがい知ることができる。

ちなみにこの垂木に用いられた木材は、東京・高井戸(現在の杉並区高井戸)周辺で産出されたスギ丸太材の「四谷丸太」。現在、東京産の木材というと多摩産材が知られているが、江戸時代から大正期にかけては「四谷丸太」が良質のスギ材として名を馳せていたと知った。

そうした屋根裏の丸太のカーブに合わせ、ゆるやかな曲線を描いた切妻屋根 が作られている。屋根材は、銅板。軽くて地震、火災に強く、耐久性があるという特徴がある。

国の重要文化財に指定されている表門。銅板葺きの屋根の両端には、寺院建築でよく見られる鴟尾(しび)という飾りがつけられている吟味された木材をふんだに使い、職人の高い技術で仕上げられた表門。外側はいつでも鑑賞することができる
国の重要文化財に指定されている表門。銅板葺きの屋根の両端には、寺院建築でよく見られる鴟尾(しび)という飾りがつけられている屋根裏には、垂木が緻密に組み込まれている

書院棟の車寄せ玄関は、天井の意匠も見どころ

表門の緻密な構造、意匠を見学した後は、門をくぐって邸宅の敷地内へ。全国各地の銘石が配された庭園を進んでいくと、ほどなく、主屋の建物が目に入る。表門と同じく、屋根は銅板葺き、外壁を覆い尽くしているのも銅板だ。建設当初は赤褐色に輝いていたことから、「銅(あかがね)御殿」の名前で呼ばれるようになったという。その色は長い年月を経て変化し、現在は重厚感のある緑青色を見せている。

銅御殿は長い歴史のなかで当主も変わっていく。山林王・磯野敬の邸宅だった時代を経て、2代目当主になったのは、明治期に新潟の油田開発で功をなした石油王・中野貫一。その後、大谷重工業・ホテルニューオータニの創業者・大谷米太郎の長男・大谷哲平が3代目当主となり、大谷哲平が死去した後、(公財)大谷美術館の所有・管理となっている。

110年を超える歳月を耐え抜いた、風格あるたたずまいに見惚れてしまうのだが、玄関の屋根がおりなす曲線美も外観の重要ポイント。前方、車寄せの屋根は面が反っている「反り」屋根で、その後方の屋根は中央部が丸みを帯びている「起り(むくり)」屋根。ともに日本の伝統的な建築様式の屋根で、「反り」と「起り」の対比が美しい。

銅御殿の全景銅御殿の全景
銅御殿の全景照明も印象的な車寄せ玄関。この車寄せ玄関をはじめ、旧磯野家住宅の照明の多くは大正時代からのものという

書院棟の車寄せ玄関は来客を出迎える場所とあって、さまざま意匠が施されている。まず、柱に目を向けてみると、胴部にふくらみをつけた「エンタシス」の柱になっていることに気づかされる。エンタシスの柱は、古代ギリシアのパルテノン宮殿の柱がよく知られており、日本でも法隆寺の金堂・五重塔・中門などに見られる。この旧磯野家住宅も、法隆寺金堂の円柱を意識したものという。

天井部分も、寺院建築によく見られる格天井(ごうてんじょう)と鏡板の意匠、軒裏に放射状に規則正しく並べられた垂木など、見どころが多い。

銅御殿の全景車寄せの「エンタシス」の柱と天井まわりの意匠
銅御殿の全景車寄せの軒先。軒の全長を放射状に並べている扇垂木が特徴的

庭園、窓枠、窓ガラス、欄間など、どこを切り取っても絵になる

いよいよ建物の内部の見学へと進んでいく。この邸宅は、中央に3階建ての応接棟、東側の平屋建ての書院棟、北側の平屋建ての旧台所棟という構成となっている。書院棟と応接棟は、旧台所棟から切り離されているというつくりなのだが、万一、地震が発生した際に被災が広がりにくいよう、建物の全壊を防ぐという意図があるという。

見学会で公開されるのは、平屋の書院棟と、3階建ての応接棟。家族が出入りする内玄関から入り、書院棟の畳廊下を進んでいくと、目に飛び込んでくるのは、窓の向こうに広がる庭園の景色だ。この邸宅を訪れた人たちが庭園の景観を楽しめるよう、建物の敷地部分よりも低く掘り下げて高低差をつけていると、スタッフからの解説があった。外回りの軒下の柱が細いのは、柱が目立ちすぎることなく、庭園を見る人の景色をさえぎらないようにとの意図があるという。

かつては茶室もあったという庭園だが、今も深々と緑が広がっている趣のある景観を見せている。大正時代、この邸宅の施主であった磯野にとって、自慢の庭園であったことだろう。

窓越しには、緑豊かな庭園の景色が広がる。庭園の眺めを楽しみながら1階の座敷を見学窓越しには、緑豊かな庭園の景色が広がる。庭園の眺めを楽しみながら1階の座敷を見学
窓越しには、緑豊かな庭園の景色が広がる。庭園の眺めを楽しみながら1階の座敷を見学床の間、違い棚、付書院を設けた奥書院

書院棟には座敷が東西に一列に配置され、奥から奥書院、次の間、押入れと続き、さらに会議室が配されている。奥書院はお客をもてなすための部屋で、床の間、違い棚(床の間の横の床脇に段違いに取り付けた飾り棚)、付書院(床の間と縁側の間に設けられる座敷飾り)を備えた格式のある書院造りの客間だ。庭園の樹木を、東側と北側の両方向から眺めることができるのも、この邸宅の奥書院の特徴となっている。伊豆諸島の御蔵島産のクワなど、そこかしこに使われている銘木の風合いも目を楽しませてくれる。

また、この邸宅の壁は左官職人が11層も塗り重ねたという緻密な施工で、関東大震災でもヒビが入らなかったという。

このほか、書院棟ではベルギー製の揺らぎのある窓ガラスや、なめらかな曲線にデザインされた窓枠、木を縦や横など縦横無尽に組んで模様を細かな模様を表現している緻密な欄間、障子の桟の意匠なども興味をそそられる。木目を使って市松に見立てた天井も印象的。

どこをとっても施主・磯野敬のこだわりと、北見米造の創意工夫、技術力を感じ取ることができるのだが、欄間、桟は、「奪天工(だってんこう)」という江戸時代の書物に掲載されている図案を基に考案されていると解説があった。磯野敬がこの書物を所有していて北見米造に参考にするようにと助言したという。

興味深いのは、会議室のつくり。両側に板戸の押入れを配しているのだが、その結果として、柱を増やすことができ、地震対策になっている。ちなみに現在、旧磯野家住宅に住んでいる人はいないが、この会議室は使用されているという。

窓越しには、緑豊かな庭園の景色が広がる。庭園の眺めを楽しみながら1階の座敷を見学欄間、障子など、細部にわたって意匠が凝らされている。障子の桟や欄間は、部屋ごとにデザインが異なっている
写真右下/スタッフが、「奪天工」の一部を示しながら、図案についての解説をしてくれた
窓越しには、緑豊かな庭園の景色が広がる。庭園の眺めを楽しみながら1階の座敷を見学幾何学模様の建具がアクセントになっている会議室。両側には、奥行きのある押入れが取り付けられている

2階の床の間に飾られているのは、渋沢栄一から磯野敬に贈られた掛け軸

次は応接棟の2階、3階を見学する。内玄関の場所まで戻り、正面の板扉を開けると階段が現れる。階段の踏み板は中央部にゆるいカーブが施され、上りやすい。

2階は、明るく開放的な雰囲気。窓からの庭園の樹木の眺めと、鋼の緑青を帯びた屋根の眺めが素晴らしく、見学会参加者の間からも歓声が沸き起こった。

板扉を開けると階段板扉を開けると階段
板扉を開けると階段階段を上がり、2階の板の間へ。窓には、法隆寺の卍崩しの意匠を模したという高欄が設けられている。窓の向こうに見えるのは、1階の銅屋根

応接棟の2階、3階もお客を迎えることができる空間としてつくられており、両方の階にはそれぞれ趣の異なる床の間が設けられている。

2階の床の間に飾られている掛け軸は、「近代日本経済の父」と呼ばれる実業家・渋沢栄一から磯野敬に贈られたものという。

このほか、頂部が花弁状になっている花頭窓(かとうまど)のデザインや、障子の桟の意匠にも目を見張る。また、庭を見下ろす窓にある高欄(低い手すり部分)は、法隆寺の卍崩し(まんじくずし)といわれている意匠を模したものといい、こうした細かなところにも寺院建築に高い関心を持つ施主・磯野敬の嗜好が反映されている。ちなみに2階は、3代目当主の大谷家の時代には、子ども部屋として使われていたという。

板扉を開けると階段渋沢栄一から贈られた掛け軸が目を引く、2階床の間。明かり取りの窓は、斬新な幾何学模様が施された花頭窓
板扉を開けると階段2階の部屋でも、障子の桟や欄間のデザインが目を楽しませてくれる。写真は上部の欄間で、途中で切れてしまったようなあしらいが独創的

モダンで独創的な書院風の空間

最上階の3階も、四方向に窓が設けられているという開放的で贅沢な空間で、物見の間と名付けられていた。かつては富士山も見えたといい、富士見の間とも呼ばれていたという。今は、富士山の雄姿を眺めることはできなくなったが、窓越しに迫る、庭の木々の眺めは壮観でもある。

3階の和室に設けられた床の間は、茶道・表千家の茶室「残月亭」(京都)の書院をモデルにしてつくられた空間で、モダンで独創性のある空間になっている。明かり取りの窓も、緻密にデザインされた丸窓。この丸窓も奪天工に掲載されていたものを参考にして考案されたものだと、解説があった。

3階の板の間から眺める庭園の緑の景観が素晴らしい。晩秋には紅葉の景色を楽しめる3階の板の間から眺める庭園の緑の景観が素晴らしい。晩秋には紅葉の景色を楽しめる
3階の板の間から眺める庭園の緑の景観が素晴らしい。晩秋には紅葉の景色を楽しめる床の間の横に配された明かり取りは、モダンな雰囲気を醸し出している丸窓

3階は、大谷家が書斎として使っていたスペースで、大谷利勝(大谷哲平の長男)の机が残されている。椅子の背後の壁だけが崩れていることに気づくが、これは2011年の東日本大震災で崩れてしまったものという。しかし、大正期の建物が、東日本大震災に遭っても、被害を受けたのはこの壁の部分だけだったことを考えると、地震対策がなされた家であることにあらためて気づかされる。

施工にあたった北見米造は、晩年期の1961年にここを訪れ、関東大震災や戦災にも耐え抜いた旧磯野家住宅の姿を見て、「この家は、およそ50年後には国の重要文化財になると信じている」と話していたという。その言葉どおり、旧磯野家住宅は2005年に国の重要文化財に指定された。以後、(公財)大谷美術館が維持・保存にあたり、今に至っている。

大正、昭和、平成、令和と時代は移り変わっても、堂々としたたたずまいを見せている銅御殿。こうした歴史的建造物は、実際に内部を見ることで、価値を体感できるということを実感できた見学会だった。

特別見学会は所要約1時間、3,000円。見学は事前予約制(1回につき、8名まで受け付け)。
見学会の日時などについては、下記サイトより、確認できる。
https://www.city.bunkyo.lg.jp/bunka/kanko/spot/shiseki/akaganegoten.html
https://peatix.com/group/11663012/events

3階の板の間から眺める庭園の緑の景観が素晴らしい。晩秋には紅葉の景色を楽しめる3階の和室上部の欄間。木を立体的に組み上げて空間に彩りを添えている
3階の板の間から眺める庭園の緑の景観が素晴らしい。晩秋には紅葉の景色を楽しめる3階は、大谷家の書斎だった部屋。机の背後の壁だけが、東日本大震災で崩れてしまっている

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