不夜城の繁栄から衰退への30年余

東山ビルから見た宇野港。写真左手の赤い屋根の建物の奥に駅があり、そこから1キロ圏に街の大半の機能が集中している東山ビルから見た宇野港。写真左手の赤い屋根の建物の奥に駅があり、そこから1キロ圏に街の大半の機能が集中している

岡山県玉野市にある宇野港は1910(明治43)年の宇野線開通、宇野駅開業と同時に国が開設した宇高連絡船が就航。宇野駅まで乗り入れていた多くの特急列車の乗客は宇野港から四国・高松へ渡った。1956(昭和31)年には民間の宇高航路も開設された。

1988(昭和63)年に岡山県倉敷市と香川県坂出市を結ぶ瀬戸大橋が開通。本州と四国は初めて陸路で結ばれた。これにより、旧国鉄からJRに引き継がれた宇高連絡船は廃止されたものの、その後も民間航路は競合を続け、最盛期には3社が20~30分間隔、24時間眠らない港として運航していた。

所要時間の面では瀬戸大橋利用が圧倒的に有利だったが、フェリーが盛況を保ち続けられたのはコスト面で大きな差があったため。だが、高速道路ネットワークの進展に伴い、フェリーの需要は少しずつ減少。そこに決定的なダメージを与えたのは2009(平成21)年3月から2011(平成23)年6月まで全国的に実施された高速道路の「ETC利用で休日の上限1,000円」という大幅な値下げ。

競合3社のうち、1社はこの値下げ施行直前に撤退、もう1社も2012年に運航を休止。最後まで残っていた1社も2019年12月に休止、不夜城だった港の面影は残っていない。

瀬戸大橋開通から宇高航路廃止までの30年余が宇野港周辺にもたらしたのは交通手段の変化だけではない。宇野港、高松港はともに瀬戸大橋や高速道路ICから遠く、いまや本州、四国の玄関口とは言いにくい状況。宇野、高松間の交流も徐々に縮小してきた。加えて玉野市はもうひとつの産業、造船業の縮小でも打撃を受けた。

東山ビルから見た宇野港。写真左手の赤い屋根の建物の奥に駅があり、そこから1キロ圏に街の大半の機能が集中しているもともと繁栄していた街だけに駅の近くにはこうした繁華街の風情だけが残されている

玉野市は1940(昭和15)年に岡山県児島郡宇野町と同日比町が合併して誕生したのだが、宇野町が海運の街だったとすると、日比町は造船の街。1917(大正6)年に日比町の玉地区で三井物産造船部(三井造船の前身)が創業、これを機に日比町の人口、経済は急成長するのだが、1970年代の2度のオイルショックを契機に造船需要は減退。1990年以降の海運市場の回復に伴い、造船需要も増加、建造量は右肩上がりで伸び始めるが、かつての水準に戻ったのは2000年代後半。そこに追い打ちをかけたのが2008年のリーマンショックである。

その結果、2020年8月には三井E&S造船株式会社(旧三井造船)が商船建造から撤退する方針を発表。地元はもちろん、広く社会に衝撃を与えた。2021年10月には三菱重工業の新会社三菱重工マリタイムシステムズが艦艇建造事業を引き継いだが、玉地区中心部の衰退は非常に厳しい状態にある。

東山ビルから見た宇野港。写真左手の赤い屋根の建物の奥に駅があり、そこから1キロ圏に街の大半の機能が集中している玉地区中心部の商店街。比喩ではなく、リアルに倒れかけている建物もあり、誰も歩いていなかった

目標は移住促進ではなく、「楽しく暮らす街にすること」

商店街の奥に見かけた古い、雰囲気のある建物。医院だったそうで、次回の瀬戸内国際芸術祭の会場として使わせていただく計画があるという。そうして一度開くことで使用につながっていくこともあるそうだ商店街の奥に見かけた古い、雰囲気のある建物。医院だったそうで、次回の瀬戸内国際芸術祭の会場として使わせていただく計画があるという。そうして一度開くことで使用につながっていくこともあるそうだ

宇野港界隈の中心市街地で地域をなんとかしようという動きが始まったのは2010年の春頃から。宇野航路の先行きが怪しくなってきた時期である。

ただ、一方で宇野と高松の間にある直島を中心とした直島諸島でのアートを切り口にしたベネッセアートサイト直島の活動は1990年前後から始まっており、2010年は最初の瀬戸内国際芸術祭が開かれた年でもある。街の繁栄を支えてきた旧来の産業が没落、それに代わるものが台頭しつつある、新旧がクロスする時期でもあったのだ。

きっかけは市役所から地元への問いかけ。これから、この地域をどうするか。黙っていたら誰も何も発言しないだろうと考えたのが地元のゲストハウスなどに関わりのあった、アーティストでもある森岡友樹氏。年末に企画書をまとめ、年明けに提出、それが形となったのが2011年6月にスタートした「うのずくり」である。

商店街の奥に見かけた古い、雰囲気のある建物。医院だったそうで、次回の瀬戸内国際芸術祭の会場として使わせていただく計画があるという。そうして一度開くことで使用につながっていくこともあるそうだ20年9月にオープンしたココカ古書店でカウンター奥に座るのが森岡氏、手前が森氏。オーナーはゲストハウスを運営、その次にこの書店を開いた
取材のすぐ後に市内で個展を開催されていた森氏。商店街の店頭にも作品が飾られていた取材のすぐ後に市内で個展を開催されていた森氏。商店街の店頭にも作品が飾られていた

ホームページにはうのずくりとは「宇野」に「住(す)んで+つくる」という意味の造語とあり、「その言葉の通り、宇野という場所を楽しみ、愛し、住み、皆でちょっとちょっと良い風にしていこうよ! という計画を進めています」という。

多くの移住プロジェクトが人を増やすことを目的にしていることを考えると、うのずくりの「岡山県玉野市宇野港界隈を楽しく暮らす街にすること」という目的はかなり異質。しかも、そのためにクリエイターを全国あるいは世界から呼び込むという。「誰でもいいから移住してください」ではなく、クリエイターの移住を「職住遊」すべての面でサポートするというのだ。

なぜ、クリエイターか。森岡氏も、うのずくりの実務を担う森美樹氏もアーティストであり、アーティストとは誰にも頼まれていないのに、勝手にモノを作りだす人たちである。そう考えると、どういう人を呼びたいと考えているのかが分かる。自分から動く、依存しない人たちである。派手なイベントで人を呼ぶわけではなく、クリエイターを、クリエイティブな人をと言い続けてきただけというが、続けて10年余。確実に変化が生まれ始めている。

15年前にシェアアトリエが誕生していた宇野エリア

広い倉庫を簡単に仕切ってそれぞれのアーティストが使う、駅東創庫内部広い倉庫を簡単に仕切ってそれぞれのアーティストが使う、駅東創庫内部

現在、うのずくりの実務の大半を担っている森美樹氏は広島出身。倉敷の大学でガラス工芸を学び、2007年に玉野市に移住してきた。きっかけは地元の大地主である宇野港土地株式会社が宇野駅から徒歩5分ほどの場所にオープンさせた駅東創庫。築40年以上という古い大型倉庫を簡易的に仕切った10人ほどが使えるシェアアトリエである。倉庫に隣接して作品の展示即売を行うGallery Minatoも併設されている。

今ならシェアアトリエという言葉で多くの人がどのような場所かを想像できるが、15年前には非常に珍しかった。それが宇野に生まれたのは宇野にこうした空間を必要とするアーティストがいたから。現在、駅東創庫の代表を務める高嶋幸市氏は発泡スチロールで立体オブジェを作っており、広い空間が必要だった。それがシェアアトリエを生み、宇野にアーティストを呼ぶことになった。

「大学を出る時、人が多い広島より、創作活動をするならのんびりした雰囲気の岡山のほうが向いているのでは」と感じていた森氏は、駅東創庫をアトリエとして借りると同時に移住。現在も場所は違うが、3人で他の倉庫をアトリエとして使っている。宇野にクリエイターをという発想には根拠があったのである。

広い倉庫を簡単に仕切ってそれぞれのアーティストが使う、駅東創庫内部これが発泡スチロールで作られた作品群。サイズから重いものと思うが、実際には拍子抜けするほど軽い。企業のイベントその他いろいろなところで使われているそうだ
東山ビルから海側を望む。現在は隣に魚市場、その奥にスーパーがあるが、10数年以上前は人が来たいと思う場所ではなかったという東山ビルから海側を望む。現在は隣に魚市場、その奥にスーパーがあるが、10数年以上前は人が来たいと思う場所ではなかったという

創作活動を続ける中で知り合った人たちから請われ、うのずくりの立ち上げと同時に実務を担うことになって最初の仕事は、町内会に向けての活動の説明会。そこで知ったのが現在、宇野エリアの変化のシンボル的な存在となっている東山ビルだ。

「1966年築の東山ビルは宇野の中でも港湾施設が並ぶエリアにあり、隣に玉野魚市場があります。魚市場経営者が東山ビルを所有しているのですが、その時点ですでに20年ほど放置されており、地元では幽霊ビルと呼ばれていたほど。説明会でそういうビルがあることを知り、大掃除のイベントを開催したのが2011年の年末。燕の巣が天井から逆タワーのように伸び、錆だらけ埃だらけのひどい状態でしたが、正面に海の眺望があり、これは大きく変わるのではないかという予感がありました」

広い倉庫を簡単に仕切ってそれぞれのアーティストが使う、駅東創庫内部現在の東山ビル3階。イベント・ギャラリースペース、宿泊者のコワーキングスペースとして利用されている

幽霊ビルが徐々に再生へ

現在の東山ビル。左の壁にかかっているのはかつて建物に飾られていたプレートに彩色したもの現在の東山ビル。左の壁にかかっているのはかつて建物に飾られていたプレートに彩色したもの

もともとはフェリーで働いているキャビンアテンダントの下宿や事務所に使われており、2階には純喫茶東山、4階にはバーがあったというが、いくら良い立地にあったとしても20年放置されたビルの改修は一朝一夕にはできない。

そこで、うのずくりとして最初に行ったのは、宇野駅から歩いて3分ほどの場所にある交流拠点uz(うず)の設置。商店街の中にあった売り物件を買って貸してくれるという大家さんがおり、国の補助を得て改装をした。2012年10月の開業当初はイベントもできるカフェとして森氏が運営していたが、1年ほどで移住相談などが忙しくなって常駐できなくなり、他の移住者にバトンタッチ。現在は3代目の移住者がシェアショップuzとして切り盛りしている。経営者の妻が週末も含め、週に5日提供している名古屋式モーニングが好評で、週末にはパンが無くなってしまうほどだという。

現在の東山ビル。左の壁にかかっているのはかつて建物に飾られていたプレートに彩色したものuz店内。箪笥の引き出しを使ったカウンターなど廃品を上手に利用したリノベーションが行われており、どこかレトロな雰囲気
魚市場の隣にある東山ビル。かつては幽霊ビルと言われていたそうだが、現在はご覧の通り魚市場の隣にある東山ビル。かつては幽霊ビルと言われていたそうだが、現在はご覧の通り

uzの改装を手がけていたと同時期に東山ビルにも手が入り始めた。2012年に県の主催で岡山芸術回廊というアートイベントが行われたのだが、東山ビルがその舞台となったのだ。それに向けて残置物を処分。床・壁・天井がきれいになり、幽霊ビルは蘇り始める。イベントでは室内に作品が展示されたほか、純喫茶東山が期間限定で開かれた。2013年からは岡山県の人づくり、地域づくりに貢献する活動を支援する公益財団法人福武教育文化振興財団の助成を受け、東山ビルはさまざまなイベントや店舗などに使われ、住む人まで現れた。

「ガスを新設し、水道、電気もやり直して状態としては住めるようにはなりましたが、無人の古いビルに最初に住み始めた女性2人は勇気があったと思います。ただ、わずかに住む人がいて、有志で純喫茶東山を運営し、それ以外はイベントに使うという状態では収益は生みません。より大きな変化を生むために現状を打破し、誰かが責任を持って取り組む必要があるのではと東山ビル実行委員会で話し合っていたときに、手を挙げたのが現在、ここを管理・運営している西野与吟さんです」
西野氏は東日本大震災をきっかけに岡山県に引越し、倉敷市児島に始まり、瀬戸内周辺で移住先を探していたときに2011年夏の宇野の街歩き「うのきゃん」に参加。そこで見た蔵もある古民家に一目惚れして宇野を選んだ、うのずくりの第一号移住者である。自宅の古民家をカフェやアトリエとして手を入れているうちにDIY熱が高まり、東山ビル再生の責任者となったのだ。

現在の東山ビル。左の壁にかかっているのはかつて建物に飾られていたプレートに彩色したもの東山ビルの屋上を利用して夏にはビアガーデンが行われている

この10年で移住者が増加、起業する人も多数

お隣の魚市場では週末を中心に朝市が行われている。朝食に海鮮丼を頂いたが、十数種類の海産物がのり、食べきれないほどのボリュームお隣の魚市場では週末を中心に朝市が行われている。朝食に海鮮丼を頂いたが、十数種類の海産物がのり、食べきれないほどのボリューム

といっても個人で私財を投じての改修である。一部屋ずつこつこつとリノベーションを続け、姿が見えてきたのは2015年頃のことだろうか。2階から上はHYM Hostelという名の宿泊施設として使い、1階にはハンバーガーショップ・#8WIRE(ナンバーエイトワイヤー)と、コーヒースタンド・BOLLARD COFFEEが入った。

3階にはうのずくりの母体で物心両面での支援団体であるNPO法人みなと・まちづくり機構たまの(MMK)が入っており、4階には予約制の美容院、西野氏が手掛けるジュエリーのアトリエも。また、屋上は2015年以降、夏はビアガーデンとして使われている。

「東山ビルの辺りはほとんど使われていなかった地域で、今はこの先にスーパーがありますが、以前は宇高国道フェリーのターミナルがあるくらいで何もなかった。隣の魚市場が小売りを始めたのも十数年前で、今は木曜日から週末に朝市が開かれ、以前よりはずっと人が来るようになりました」と森氏。都会の朝市ほどどっと人が集まることはないが、コンスタントに人は来ており、若い人たちが岸壁でハンバーガーを頬張る姿は週末の見慣れた風景になってきている。

お隣の魚市場では週末を中心に朝市が行われている。朝食に海鮮丼を頂いたが、十数種類の海産物がのり、食べきれないほどのボリューム岸壁でハンバーガーを頬張る人たち。奥に見える玉野競輪近くには競輪場を見下ろすホテルができ、話題になっている

移住者は西野氏以降着実に右肩上がりの状態が続いている。MMKが年に2回発行している広報誌を見ると、半年の間に数人が移住、新店開業しており、空き家を見学に来る人たちはそのほぼ10倍。2022年6月までの10年余で91組、165人が移住してきているという。

しかも、面白いのはそのうちの7~8割がどこかに勤めるのではなく、自分で宿や店をやるなどしており、残りの人たちもアルバイトをしながら創作活動をしたり、農業をしたり。当初、森岡氏、森氏が目指していたように、自分で仕事を生み出せる人たちが中心になっているのだ。

「玉野市内には仕事は職種が選べるほど多くなく、仕事で選ぶなら岡山市、倉敷市か、直島か。直島には70軒ほどのゲストハウスがあり、ここ数年で一気に増えた印象があります。コロナ前は海外からも人が来ていました。宇野を選ぶ人の中にも直島に行ったことがきっかけで瀬戸内が気にいってという人もいますが、それほど多くはありません。それより街の雰囲気で選ばれていると思います」

個性的な移住者が作る、新しい街の雰囲気

この10年ほどで移住者、新規開業した店は増えているものの、通りを表面的に見ているだけでは気づきにくい。商店街でも空き家のほうが気になる。だが、森氏に案内してもらって街を歩いて気づいたのは、この街には非常に個性的な、オンリーワンの店が多いということ。

独自の視点で選んだ観葉植物の店には派手でレトロなグッズも売られており、古書店のカウンターでは遅い時間まで軽飲食が楽しめる。アイス最中やたい焼きが置かれた古書店は珍しいだろう。同様にけん玉居酒屋というのも初めて聞いたし、人形だけが置かれたギャラリーやコスプレができるゲストハウスもかなり変わっている。そしてもちろん、店が個性的で面白いのは経営している人たちが個性的で面白い人たちだからだ。

「メール、電話などで移住相談のやりとりをしていると、移住したらいくら補助金がもらえるんですかといった質問をする人もいますし、なんでもかんでも誰かにやってもらおうと思っている人もいます。損得勘定で移住を考えている人や受け身一方の人にサービスし続けるのは現実的ではなく、そうした方々とは、互いに考えていることが分かるのでしょうか、いつの間にか遠のいていたりします。必要があれば手伝えるようにはしているものの、結果、移住してくる人は、基本は自分で自分の面倒をみることのできる、自分の好きなことをどんどん進められる人たちです」

階段を中心に左右で異なるものを扱う店、混沌。こちらはレトログッズの売り場階段を中心に左右で異なるものを扱う店、混沌。こちらはレトログッズの売り場
階段を中心に左右で異なるものを扱う店、混沌。こちらはレトログッズの売り場こちらでは観葉植物を売っている。品物だけでなく、ディスプレイも個性的でよくみると、え、これは!というアイディアがいっぱい。驚かされた
玉地区の商店街から少し入ったところにできたカフェ。この店以降、少しずつ店が生まれ始めた玉地区の商店街から少し入ったところにできたカフェ。この店以降、少しずつ店が生まれ始めた

そうした人たち同士の横のつながりが街の雰囲気ということだろう。付かず離れず、良い距離の人間関係が築かれ、それがさらに人を呼んでいるのである。最近では宇野港周辺から玉地区のあたりにもその影響が及び始めている。

「最初に地元の人が祖父母の家を改装してカフェを開業し、2020年6月にはコミュニティ・ラボ月日、続いてその秋にはケーキ店がオープンしました。1年に1軒ずつ空き家が開いていっているという感じですね」

階段を中心に左右で異なるものを扱う店、混沌。こちらはレトログッズの売り場古い街にはすてきな 建物が残されているものだが、コミュニティ・ラボ月日もそのひとつ。一目惚れしたオーナーさんの気持ちがよく分かる

空き家を貸すのは地域の未来に貢献すること

頂いた野菜たっぷりのランチ。ご飯は宇野の魚市場で買ってきた蛸ご飯を盛りつけてもらったもの頂いた野菜たっぷりのランチ。ご飯は宇野の魚市場で買ってきた蛸ご飯を盛りつけてもらったもの

道行く人のいない商店街を抜けたところにあるコミュニティ・ラボ月日は、古いたばこ店兼軽食堂の建物を利用したもの。店をやる気など無かった女性が、たまたま友人について行った空き家見学で見かけた建物に惚れ込み、移住者の栄養士と木金土にランチを提供、それ以外は地域の人たちがレンタルして使う交流の場として再生した。こんなところに人が来るのかと思うような場所なのだが、ランチタイムには女性客が集まり、ランチタイム終了後にはウクレレを抱えた人たちが集まる。どこであれ、場があり、面白いことが行われていれば人は来るのだ。

頂いた野菜たっぷりのランチ。ご飯は宇野の魚市場で買ってきた蛸ご飯を盛りつけてもらったものコミュニティ・ラボ月日店内。冒頭で紹介したココカ古書店の本が置かれているなど、新しくできた店同士のコラボレーションも
玉地区で改修中の古民家。ここから自分たちで手を入れていくそうだ玉地区で改修中の古民家。ここから自分たちで手を入れていくそうだ

玉地区ではもう1軒、古い民家を家族がDIYで改修を進めており、いずれはゲストハウス、アトリエ、ショップ、カフェの複合施設にするという。作業中の男性は洋服を作る仕事をしており、住んでいた神奈川と玉野は国が違うみたいだと笑った。改修、移住で困難はあるけれど、それはそれで面白いとも。何もかもが揃っている、でも自分が関わる余地の少ない都市よりも、自分で体を動かせば家ですら作り替えられる玉野のほうが、余白があって面白いということだろう。

10年余の活動の成果もあり、最近では「今は自分が住んでいるけれど、いずれ空き家になる家をなんとかしてほしい」「近所の家が空き家になった」などという相談も寄せられるようになってきたと森氏。2016年からは玉野市から移住支援の事業を委託されてもおり、認知度は大きく上がっている。

その一方で、空き家はあっても貸家はないという状況は大きくは変わっていない。自分が所有している不動産が、ある意味、街の景観を殺しているわけだが、所有者は気づいていない。不動産情報が更新されていない、あるいは都合の悪いことを見たくないためか、玉野市の不動産価格や家賃はこの20年くらい動いていないという。そのため、市場原理が働く岡山市のほうが安いこともあるとか。

入居してもらわなければ家賃を高く設定していても意味はないが、家賃を下げるのは損だと思い込んでいる人も多い。実際には空室が続くことのほうが損なのだが、目の前だけを見た損得勘定は人の判断を歪める。移住したらいくらもらえるかも同じだろう。東山ビルなど損得で考えたらリスクでしかないはずだが、それが地域に笑顔を生んでいる。

「家を貸している人たちは、若い人が増えた、子どもが生まれたと、自分たちが家を貸すことが地域の未来にプラスになっていることを実感し、喜んでくださっています。それがイメージできれば空き家をそのままにしておくことの問題に気づくはずなのですが」と森氏。不動産所有者は自分の判断で地域に貢献できる。ぜひ、そこに気づいてほしい。

ちなみに東山ビルのすぐ前には宇高国道フェリーの乗り場が大きな空き家として放置されている。森氏も私ももったいない! と思うのだが、行政も所有者である企業もおそらくそんなことは思ってはいない。その乖離にも気づいてほしいと思うが、はてさて。

頂いた野菜たっぷりのランチ。ご飯は宇野の魚市場で買ってきた蛸ご飯を盛りつけてもらったもの玉野市は漫画家いしいひさいち氏の出身地で、その縁でののちゃんがキャラクターとなっている。その背後にあるのが空き家となっている宇高国道フェリー乗り場

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