1909年、名古屋市が設置した初の公園
名古屋駅から南東へ約4km。24ヘクタールという広大な敷地を持つ鶴舞(つるま)公園は、緑豊かで四季折々の花が楽しめる。敷地内には図書館、スポーツ場、各種イベントが行われる名古屋市公会堂と文化・教育施設もあり、多くの人々が集う。2009(平成21)年には国の登録記念物(名勝地関係)に登録された。
同公園の指定管理者である公益財団法人名古屋市みどりの協会の佐々木辰夫さんに歴史と園内の見どころについて伺った。
日本では1873(明治6)年の太政官布達により公園制度が設けられた。全国各地で公園が設置されるなか、名古屋市民からも大公園を望む声が。名古屋市役所発行の「名古屋市史」によると、1884(明治17)年に区長が知事に建言したと記されている。しかし、残念なことに、そのときは実現に至らなかった。
その後、1905(明治38)年に市内を流れる精進川(現・新堀川)を運河に改修する工事が始まった。工事で出る残土処理の方法を検討していた同じ時期に必要となっていたのが、1910(明治43)年に愛知県での開催が決定した博覧会「第10回関西府県連合共進会」の場所だった。その2つを同時に解決する策として、公園設置計画が実現したのである。
そうして鶴舞公園は名古屋市が設置する初の公園として、1909(明治42)年11月19日に開園。翌年3月~6月の90日間開催された第10回関西府県連合共進会では、延べ260万人の来園者を迎えたという。ちなみに、1910(明治43)年の名古屋市の人口は40万人ほどだった。
明治時代の雰囲気を表した!? 噴水塔
公園のシンボルとなっている噴水塔。真下を通る地下鉄工事のため一時撤去されたが、残しておいた創建時と同じ資材で1977(昭和52)年に復元。1986(昭和61)年に名古屋市指定文化財になった(写真提供:鶴舞公園事務所)関西府県連合共進会とは、各自治体が農産物や工業製品などを出品・展示し、産業の発展を目指した博覧会。1883(明治16)年に大阪府の主催で第1回が開催され、鶴舞公園での第10回が最後となっている。
会場には各自治体のパビリオンが立ち並んだ。その様子をとらえた「関西府県聯合共進会記念写真帖.第10回」が国立国会図書館デジタルコレクションで公開されているので、ぜひご覧いただきたい。建物が電飾された夜景の写真もあり、とても華やかだったのではないかと思われる。
パビリオンは閉幕後に取り壊されたが、恒久的施設として造られた建造物が今も残っている。
その一つが、噴水塔。最上部に設けられた8本の突起から流れ落ちる水は、真ん中あたりにある盤で細かく砕かれ、水玉と霧状になるという風流な仕組みだ。また、上部はローマ様式の大理石柱となっているが、下部は日本風の石組みとなっている。「和洋折衷、あるいは和魂洋才というのでしょうか。洋服に下駄履きだった明治調を表しているともいわれています」と佐々木さん。
洋風建物に、和の装飾が施された奏楽堂
現在の奏楽堂は3代目。初代は木造で老朽化していたこともあり、1934(昭和9)年に取り壊された。1936(昭和11)年~1995(平成7)年までの2代目奏楽堂は、まったく異なるデザインだったが、1997(平成9)年に初代の姿で復元された公園の中心部にある奏楽堂(そうがくどう)も、関西府県連合共進会の開催に合わせて造られたもの。共進会の中心的施設として造られ、その名前から推察できるとおり、さまざまな演奏会が催されたという。
イタリアルネサンス風で、細部にはアールヌーボーのデザインが施されており、明治時代の人々にとって西洋の息吹を存分に感じられただろう。
屋根の部分に見える白い装飾は、キタラと呼ばれる古代ギリシアの弦楽器。ギターの語源ともいわれているそうだ。キタラは壁のレリーフにも見られる。
細部をよく見ると和の趣もある凝った造りになっている。
キタラと同じく音楽を奏でる場所を印象付けるものとして、鉄製の手すりには音符があしらわれているのだが、これは「君が代」の楽譜になっている。その手すりには、日本の伝統模様である青海波(せいがいは)と三つ巴もデザインされている。また、16本ある柱の上部には、ひっそりと桜の花の装飾がされている。
この奏楽堂と噴水塔を設計したのは、建築家・鈴木禎次。当サイトで過去に紹介している、愛知県半田市の旧中埜家住宅や、岡崎市の岡崎信用金庫資料館(旧岡崎銀行本店)などを手がけた人物だ。
鈴木は、鶴舞公園に隣接する名古屋工業大学ゆかりの人でもある。欧州留学後の1906(明治39年)、名古屋工業大学の前身である名古屋高等工業学校の教授として赴任。その後、名古屋で建築事務所を開いて数多くの建築物の設計を担当し、近代名古屋のまちをつくった建築家ともいわれている。
鶴舞公園の奏楽堂と噴水塔は、欧州で知見を広めた後の初期の建築物となるわけだが、鈴木は共進会閉幕後の公園の再整備にも携わっている。
本多静六が顧問、鈴木禎次が設計を担当し、和洋折衷の大公園に
博覧会が終わり、公園としての再整備計画が進められるなか、敷地の一部を県立愛知病院(当時)に割譲することに。当初の計画から大幅な変更を余儀なくされてしまった。そのため、東京の日比谷公園を手がけた林学博士・本多静六に設計顧問を委嘱し、鈴木禎次に全体設計を依頼した。
約9年にも及ぶ整備でできあがったのは、17世紀のフランスで発展した庭園様式=フランス式整形庭園と、回遊式日本庭園が融合した公園。
まずは、洋風のほうから見ていこう。下記イラスト図の左側にあたる。
フランス式整形庭園は、左右対称で、池や花壇などが幾何学的に配置されたものをいう。鶴舞公園では、正門とされる西側の入り口から噴水塔、奏楽堂を軸線とし、円形で左右対称の様式をとった。噴水塔からは放射状に園路が延びている。フランス式整形庭園では、放射状の3本の園路が常套手法だそうだが、鶴舞公園では5本の園路が作られた。なお、現状は、1930(昭和5)年に噴水塔の北側に名古屋市公会堂が造られたことで、当時とは形が変わっている。
名古屋の茶人が考えた日本庭園
公園の東に位置する日本庭園側は、共進会が開催されたときにはほぼ完成していたという。こちらは当時の名古屋を代表する3人の茶匠が指導。日本庭園西側にある胡蝶ヶ池の周りを松尾宗見、東側にある竜ヶ池(※2022年3月現在、改修工事中)の周りを村瀬玄中、それら2つの空間をつなぐ渓流を吉田紹清が担当した。
鶴舞公園は、第二次世界大戦後に進駐軍に接収されていた歴史がある。そのとき、胡蝶ヶ池の南側半分が埋め立てられてミニゴルフ場に。中央に架けられていた鈴菜橋は取り壊され、西の護岸は玉石が敷き並べられた州浜(すはま)といわれる手法がとられていたが変えられてしまった。
接収解除後、埋め立てられた部分を掘削したが、純日本式の木造太鼓橋だった鈴菜橋は鉄筋コンクリート製に、護岸は岩組みとなり、当初の意匠とは異なってしまったそう。少々残念だ。
和と洋の庭園の美しさに思いを馳せていたところ、設計案について「フランス式、日本式とだけ言われがちですが、実はそれだけではないんです」と佐々木さんが教えて下さった。「フランス式のデザインのなかに、日本式の池を入れようとしたんです」
共進会の終了後、竜ヶ池、胡蝶ヶ池の水源がつながる池の設置がフランス式庭園の中に計画されていたのである。和と洋が別れて成り立つのではなく、まさに融合のスタイルといえる。
現在、秋の池と呼ばれる場所は、その名のとおり、池のほとりにハゼノキやモミジなどが植えられ、秋の景色が美しい。そこからフランス式庭園の中に春景庭、夏景庭と、日本式の池をつなげる予定だった。しかし、名古屋市公会堂建設のため春景庭は造成途中で取りやめとなり、夏景庭は着工されずに終わった。
桜、バラなど花の名所としても親しまれる
名古屋市営第1号の公園として、計画が実行されなかったところも、長い歴史の間に形を変えたものもある。
現存しないものを少し紹介すると、まず、名古屋城築城の際、織田信長の居城だった清洲城の古材を利用して建築されたと伝わる猿面茶席。1929(昭和4)年にこの公園に移築後、1937(昭和12)年に国宝に指定されたのだが、惜しくも戦災で焼失してしまった。幸い、図面が残されていたため、1949(昭和24)年に名古屋城内に復元されて今に至る。
それから、市立動物園もあり、トラ、ライオン、インドゾウなど多数の動物がいたという。この動物園は1937(昭和12)年に別地へ移されることになった。それが現在の東山動植物園である。
人が多く集まれる大規模公園ということで、大正期には米騒動や、電車焼き討ち事件などの集会場所になったという逸話も。
時に歴史の舞台となりながら、家族で遊んだり、健康のために散歩やジョギングしたり、人々の暮らしに寄り添う鶴舞公園。筆者も幾度となく訪れていた公園だが、なんとなくだった成り立ちや歴史を深く知り、建造物の新しい発見などにワクワクした。
春には桜、初夏や秋にはバラと、美しい花々が園内を彩る。そういった自然を楽しみつつ、歴史に目を向けて散策するのも一興だ。
取材協力:名古屋市みどりの協会 鶴舞公園事務所
https://tsurumapark.info/
参考文献:『名古屋市史 地理編』名古屋市役所、大正5年
『新修名古屋市史 第五巻、第六巻』名古屋市、平成10年
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