花街は江戸時代以降、新潟の名物

古町の中でもここまで風情のある通りは少なくなっている。左側の建物は古町芸妓が稽古する踊りのお師匠さん宅古町の中でもここまで風情のある通りは少なくなっている。左側の建物は古町芸妓が稽古する踊りのお師匠さん宅

新潟の花街が始めて文献に登場するのは5代将軍徳川綱吉の時代である貞享5(1688)年。京都・島原を中心に全国の遊廓・遊女についてまとめたガイドブック「諸国色里案内」で、新潟は経済力の豊かな港町で芸事に秀でた女性がいると書かれている。その後の元禄以降は新潟が港として非常に栄えた時代で、花街は古町以外にも寺町、下町(しもまち)、嶋と4カ所にあったとか。江戸時代末期に書かれた「新潟繁盛記」(別書名も多々あり)では新潟の花街と女性たちの華やかさ、美しさは江戸にも劣らないと絶賛されており、その当時から花街は新潟名物だったことが分かる。

明治に入ってからも賑わいは続いたが、全国的には大きな変化があった。明治5(1872)年の遊女解放の太政官布告に始まり、明治7(1874)年に貸座敷規則・芸妓規則・遊女規則、明治12(1879)年に芸妓の貸座敷への同居を禁ずる布達が出るなどさまざまな規則が公布され、これにより娼妓と芸妓は明らかに別れていくのである。

「古町花街の会」の久保有朋氏によると「自然に発生したものですからかつては言葉にも、働いている女性たちにも区別があったわけではないでしょうが、江戸時代から少しずつ分離され始め、明治半ばからは芸妓と娼妓、花街と遊廓ははっきりと分けられるようになります。特に今は芸妓のいるところが花街と、遊廓とは明確に分けることでクリーンなイメージにしていきたいと意図しているケースが多いようです」

生き残りをかけて置屋を株式会社化

その新潟花街で芸妓の数が最も多かったのは昭和6(1931)年で314人。しかも、8割以上が10代、20代の若い女性だったというから、新潟花街全盛期と言ってもいいのではなかろうか。この時期には古町、沼垂(ぬったり)、北廓(下町ともいった)の3カ所に花街があり、中でも古町芸妓は衣装の豪華さと芸達者ぶりで全国に知られていた。

今も古町芸妓が踊る流派として知られる日本舞踊市山流は新潟市の無形文化財第1号であり、昭和初期には古町芸妓たちが参加して東京の明治座で公演を行ってもいる。それ以外にも歌や三味線、鳴り物などなんでもござれの人たちが多かったそうで、加えて日本料理、日本酒に着物、茶道、香道の作法にも通じているとなると、花街にはあらゆる日本の文化が集まっていたことになる。

とすれば、その衰退に新潟の経済界が憂慮したのは当然だろう。隆盛を誇った古町花街に陰りが見えだすのは昭和40年代に入ってから。昭和30年代に200人ほどいた芸妓が昭和45(1970)年には136人になり、しかも、新規参入がゼロに。昭和61(1986)年には60人と2桁を割り、平均年齢が53歳と高齢化。このままではいずれゼロになる日も見え始めたところで、いよいよ経済界が動く。それまでのように芸妓がリタイア後に置屋を開業、そこで芸妓を育てるという形のままではダメ、置屋を株式会社化しようという、これまでにない、そして今でもそれほど一般的ではない発想である。

結果、昭和62(1987)年12月に前代未聞の芸妓養成および派遣を行う株式会社「柳都振興株式会社」が地元企業80社ほどの支援を得て誕生する。柳都とは新潟の別名。かつては水路脇に柳が植えられていたことから付いたもので実に風流。昭和初期には堀に柳、振り袖姿の芸妓が新潟を紹介するパンフレットの表紙になったほどだったのである。

花街の建物、景観いろいろ。左上はリノベーションされた店舗。一部には取り壊されて駐車場になっているところも花街の建物、景観いろいろ。左上はリノベーションされた店舗。一部には取り壊されて駐車場になっているところも

木造3階建て、200畳の大広間を持つ料亭も

現在、古町花街では株式会社が養成を始める以前からの一本さんと呼ばれる「お姐さん」と同社の社員、通称「柳都さん」がおり、全体で28人。彼女たちが呼ばれる料亭も13軒あり、全体に衰退している他の花街に比べればまだ善戦していると言えるだろう。

「3年前には柳都さんの中から独立する人も出てきており、少しずつですが、一般の仕事同様に選択されるようになってきています。経済界のみならず、市が育成協議会に加わり、補助金を出しているため、お稽古の成果を無料で公開するイベントなどが開かれ、それによって市民にも花街の文化が新潟独自のものという認識も生まれていると思います」

芸妓に加えてもうひとつの課題が建物だ。戦災を免れたため、市内には歴史ある建物が残されている。古町花街で代表的なのは明治維新の22年前、弘化3(1846)年創業の鍋茶屋だろう。建物は明治41(1908)年の大火で焼けた後に明治43(1910)年に再建され、昭和初期の増築を経たもので、木造の3階建て。

本館3階には昭和初期に当時の当主がヨーロッパ外遊で見た大広間を再現したといわれる200畳敷きの大広間があり、平成12(2000)年には7つの建物が国の登録有形文化財となった。路地に面した正面玄関からは建物全貌が見えないほどの規模で、通りの裏側から見ると思わず、驚きの声を上げてしまうほどのサイズである。広さを生かして最近はウェディングなどにも使われている。

そこまで大きくはないものの、古町花街エリアには今では建てることが難しい木造の3階建ての歴史を感じさせる建物、趣きのある板塀、店舗前の小さな庭などが残されており、情緒たっぷり。だが、そうした建物は徐々に減っているのが現実だ。

堂々たる木造3階建てに蔵などもある鍋茶屋。どこから見ても絵になる堂々たる木造3階建てに蔵などもある鍋茶屋。どこから見ても絵になる

1.9m幅も。路地の景観は魅力であり、危険でもある

両側から敷地を出し合って作られた路地が多いという古町花街。2階以上には建物が張り出している両側から敷地を出し合って作られた路地が多いという古町花街。2階以上には建物が張り出している

「古町では景観だけでなく、それをつくってきた文化が残っています。利用されない、保存だけされたまちではなく、生きた風景としてあるわけですが、現状ではまち全体を考え、長期的にどうしていくかを考えるような仕組みがありません。そこで今年の6月に地域の全町内会、商店街、三業組合(料亭経営者と芸者衆の組合)、バーなどの飲食店組合、その他関係組織などを横断する形で自主防災組織『古町花街地区防災会』を立ち上げました」

古い木造の建物が多く、路地が多い古町花街は防災的に見れば災害に脆いまちでもあるのだ。実際、幅250mに長さ400mほどのこの区画には30本以上の路地があり、細いところでは1.9mほどしかないところも。しかも、この地域では両側から私有地である自分の土地を半分ずつ出し合って作られた「出し合いのコウジ」「ヘヤナカサ」と呼ばれるものが多い。路地上に左右から建物がせり出している風景はこのまちの路地ならではの景観で魅力的なのだが、一方で防災面で考えると困ったことも。私有地を道としているだけで実際にはどこにも道がないことになるのだ。

防災面で問題を抱えているだけではなく、建て替えなど今後を考えても問題だ。それにそもそも、現在ではこの地に住んでいる人は少なく、たいていは場を借りて店をやっている。もちろん、この場所であること、古い建物であることを大事に思っている人もいるだろうが、そうではなく、もっときれいに現代的な使い勝手のよい建物を望んでいる人も少なくないはず。そうなった時に、この景観、それを構成する建物を残していけるかどうか。久保氏は危惧する。

「ただ、景観だけで訴えても意義を感じない人には響かないので、あえて防災という誰でも関心のあるやり方でまずは横のつながりをつくろうと考えました。続いては歴史まちづくり法などを利用しながら、この景観を残していく手立てを考えようと思っています」

長く花街を残していくために

柳都カフェ。茶屋建築の特徴的意匠を残す旧待合茶屋「美や古」を使ったもので、雰囲気満点柳都カフェ。茶屋建築の特徴的意匠を残す旧待合茶屋「美や古」を使ったもので、雰囲気満点

古町花街の内部だけでなく、周辺にも問題がある。かつて表通りに花街の店を出すのは風紀上どうかという考えから裏口にという指導があったそうで、主だった店は現在、新道や路地側に入り口がある。ところが、かつては商店街だった表通りに今は現代の風俗店が出店しており、路地の風情とはかなりかけ離れた雰囲気になってしまっているのだ。

さらにこのところ、かつての中心市街地である古町自体の地盤沈下が激しい。2010年には大和百貨店、2016年にはラフォーレ原宿と百貨店・大型店の撤退が続き、2020年には新潟三越が閉店を決めている。大和百貨店跡地では再開発ビルの建設が進められており、新潟市役所が移転してくる予定だが、それが古町全体の底上げにつながるかどうか。

前途には問題が多いものの、せっかく、ここまで維持してきた古町花街の他にない文化である。まち全体で知恵を絞り、花街、そしてその周辺も含めて活気づけていくような方向を考えていただきたいものである。

最後に古町花街で芸妓さんに会ってみたいという人へ。もちろん、居酒屋で飲むよりはお高いものの、新橋や赤坂、京都などに比べると新潟は料亭での飲食、芸妓さんを呼ぶ費用ともにそれほどではないのだとか。また、ランチで気軽に芸妓さんに会えるようなイベントも行われている。花街の柳都カフェでは若手の柳都さんがお茶を出しに来てもくれる。まずはそんな機会を狙ってみてはどうだろう。

ちなみにこの原稿を書くにあたり「新潟の花街」(藤村誠著 新潟日報事業社)を参考にしたのだが、そこで紹介されている芸妓の美人ぶりには驚かされた。美人の基準は時代によっては違い、明治から昭和初期の美人が今も評価されるわけではないが、古町芸妓は違う。五泉屋きちさんなんか今でも女優として通用するのではなかろうか。

また、首都圏の盆踊りの定番「東京音頭」は古町芸妓出身の小唄勝太郎さんが歌って120万枚の大ヒットになったもの。前年に丸の内音頭として他の人が歌ったものを勝太郎さんがカバーしてヒットにつながったそうで、古町花街の実力、実は多くの人が耳から知っていたわけである。

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