風情ある店構えは、神田明神の門前の風景として親しまれている
甘酒は冬の飲み物と思われがちだが、江戸時代にさかのぼると、1年中親しまれていた飲料だった。当時、砂糖が庶民の手の届かない高級品であったため、それに代わる甘味源として飲まれていたのが、米と糀でつくる甘酒だった。特に夏には、エネルギー補給に飲まれていたという。
長い歳月を経て、現在、健康志向の高まりとともに注目の飲料となっている甘酒。ブドウ糖のほか、アミノ酸やビタミンを含み、「飲む点滴」と呼ばれることもある。
そんな甘酒を、江戸時代から伝わる製法でつくり続ける店がある。東京・千代田区外神田の神田明神(神田神社)の大鳥居脇にある甘酒屋「天野屋」である。老舗としてメディアに取り上げられることが多く、ご存知の方も少なくないだろう。ビルが並ぶ街並みのなかで木造平屋建ての風情あるたたずまいを見せ、千代田区の「景観まちづくり重要物件」にも選ばれている。
また、天野屋の糀室は江戸時代につくられた歴史的建造物で、2009年に千代田区指定有形文化財(建造物)に指定された。
創業者は、江戸っ子ではなかった!?
関東大震災、第2次世界大戦の戦災をくぐりぬけてきた天野屋。
創業は江戸時代後期の1846年(弘化3年)。
「初代は天野新助といって、京都・丹後の宮津藩のお侍さんでした。先に江戸へ出て道場で腕を上げていた弟が暗殺され、弟のかたき討ちのために江戸へ出てきたんです。明神さま(神田明神)は江戸の総鎮守で、門前には中山道が通っています。人の行き来が多い場所なので、ここに店を構えていればかたきが見つかるだろうと新助は思ったのです。結局、かたきには出会えませんでしたが、そのままここに住み着き、店を続けたのでした」
こう話してくれたのは、天野史子さん。姉の天野寿美子さんとともに茶店と売店を仕切っている。売店で販売されているのは、パック入りの甘酒のほか、天野屋でつくった糀を材料にした納豆や味噌といった自家製発酵食品などだ。
「姉の寿美子が天野屋の長男(5代目店主・天野弥一さん)と結婚し、その弟と結婚したのが私なんですよ。姉妹でここに嫁いできて50年以上になりますが、これまでずっと、家族と親戚だけで天野屋を営んできました」(天野史子さん:以下同)
現在、天野史子さん姉妹を中心に天野家の女性陣数名で店を切り盛りし、現当主の6代目天野博光さん(寿美子さんの長男)、博光さんの長男で7代目を継ぐ太介さんら男性陣4人が職人として製造を担っている。
甘酒の材料である糀は、地下6mの糀室でつくられている
伝統の甘酒の製造の場となるのは、店舗の奥にある製造工場、そして地下約6メートルの「土室(むろ)」と呼ばれる地下の糀室である。土室は、天野屋の甘酒の材料となる糀をつくるところで、冒頭で紹介したように、千代田区の指定有形文化財となっている。専門家の調査では天野屋初代が創業する以前からあったとされ、200年以上経っていることになる。
こうした地下の糀室は、江戸時代には天野屋以外にも数多く存在していた。とりわけ多かったと伝わるのは、天野屋のある外神田、湯島、本郷のあたり。その理由として、この一帯は高台であり、地質は関東ローム層であることが考えられるという。地盤が比較的安定しているうえ、保湿性が高いという特徴があった。そこに掘った地下の土室は年間を通して16度~18度の温度を保ちやすく、糀づくりに適していた環境だったため、江戸時代後期には100軒以上もの糀屋がこの周辺に軒を連ねていたという。糀はみそ、しょうゆ、みりんなど調味料の材料になるものなので、こうした糀屋は、江戸の人々の食を支えた存在だったといえるだろう。
このように糀づくりは、外神田周辺地域の地場産業だったのだが、現在では地下の土室でつくっているのは千代田区ではこの天野屋1軒のみ。東京都内でも希少な存在だ。
創業して今年で172年。地下深くにある土室にも、増設や改築などの歴史が刻まれている。大きなところでは、1904年(明治37年)に天井をアーチ型にし、壁や天井をレンガで補強したという改築がなされている。
「関東大震災(1923年=大正12年)のときも一部が崩れたけれど、ほとんど被害にあわなかったと伝え聞いています」
関東大震災に耐えた土室。平成の初め頃までは、今よりもっと広くて、90坪近くあったという。天野屋に残る「明治37年糀室之図」を見てみると、このあたり一帯に複数の土室が放射線状にのびていることが示されている。長いものだと11間(20.02m)ほどあり、地下に張り巡らされたトンネルの図といった趣。
それだけの広さがあった土室だが、1991年(平成3年)、一部を除いてすべて埋められた。ちょうどバブルの頃で、周辺にビルが建ち並ぶようになり、安全のために地下の土室を埋めることになったのだという。
「埋めるとなったときは悲しかったですよ。今まで使ってきた場所ですから…。埋める前、天野屋のみんなが土室に集まり、最後のお別れをしました。神聖なお米を扱っていた場所なので、神様が宿っています。明神さまの神職さんに来ていただいてお祓いをしていただきました」
そうして土室は現在約20坪と、かつての半分以下の広さになってしまったが、天野家のみんなで力を合わせて頑張ってきたと、天野史子さんは話す。
甘酒づくりは、繊細で緻密な職人仕事の積み重ね
「うちの甘酒は米と糀だけを材料に、昔ながらの製法を守り続けています。砂糖や添加物は一切、使っていません」
糀は4日間かけてつくる。まず1日目は地上の製造工場で米を洗って一晩水に浸け、2日目はせいろで蒸す。蒸し上がったら適温まで冷まし、糀菌を植え付ける。その後の作業は地下の土室で行なわれる。糀菌を植え付けた米を、保湿のため毛布に包み、夕方までねかせる。夕方になったら、ねかせておいた米を手でほぐす。これは「床(とこ)もみ」という作業だ。この床もみで、翌日の一次発酵の際の温度調整を行なうという。糀菌は発酵しすぎると温度が高くなって死んでしまうので、ちょうどよいところで床もみをやめなければいけないが、温度計で測るのではなく、職人が米に手を入れてみて、米の水分の状態などから判断するという。
「こうすればいいというレシピはありません。職人が体で覚えて会得していく技術なんです」
そして、3日目に一次発酵させ、さらに20時間ほどねかせる。このねかせている間、3日目の深夜に欠かせない作業が「手入れ」。これは糀をかき混ぜる作業だ。糀菌が繁殖を始めると、米同士が密着して空気が入らなくなってしまうため、櫂棒を使って丁寧にかき混ぜ、空気を入れるのだそうだ。このあとも糀をねかせ、4日目の朝、米が白くさらさらした状態になれば完成である。
この糀から甘酒をつくるには、製造工場でさらにもう1日かかる。蒸した米に糀を混ぜ、60度の温度に保った温蔵庫で一晩ねかせるが、この熟成により、まろやかな甘味が出てくるという。温度が高すぎると甘味が足りず、低すぎると酸味の強くなってしまうのだそうだ。
こうした工程を経て、丹念に仕上げられた甘酒。天野屋の店内で、冷やし甘酒をいただいた。すっきりとした甘さで飲みやすく、一緒に添えられた自家製たくあんともよく合う。
「うちの甘酒はアルコールも入っていないので、小さいお子さんからお年寄りまで楽しんでいただけます。私の子どもたちも離乳食は甘酒だったし、今も毎日甘酒を飲んでいます。私も1日に数杯飲んでいますよ」
店内はアンティークのランプや器などが飾られたレトロな空間
甘酒を味わいながら店内を見回すと、アンティークの掛け時計やランプ、鉄道模型などが飾られ、趣ある空間。6代目天野博光さんのコレクションがほとんどとのことだが、1991年に土室を埋めたときに取り出したという古い大皿なども飾られている。その昔には、地下の土室の一部は、食器などを保管する倉庫のように使われていたのかもしれないと天野史子さんは言う。
店の建物は第2次世界大戦の空襲(1945年3月)で焼失した後、戦後に建て直されたもの。店内にはエアコンこそないが、夏にはそこかしこに飾られた風鈴が扇風機の風に揺れ、涼やかな音色を響かせている。
おりからの暑い夏である。ぜひ天野屋を訪れ、夏バテ対策を兼ねて伝統の甘酒を味わってみてはどうだろう。
☆天野屋
http://www.amanoya.jp/
※土室は、一般公開していない。糀菌を雑菌から守るため、職人以外は立ち入り禁止となっている。







