新大久保駅周辺は、東京を代表するコリアンタウンとして知られています。

韓国料理店が並ぶほか、韓国アイドルのショップや食材、コスメ、雑貨が買える店も多く見かけます。店のスタッフも韓国の方が多いので、まさしくコリアンタウンの呼び名がふさわしい雰囲気です。

また、韓国だけでなく、その他アジアの国の店も多く、コリアンタウンというよりもエスニックタウンといった趣。そして、江戸時代から続く歴史スポットもあります。

このように今昔の多様な魅力がある街、新大久保を探索していきます。

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1936(昭和11)年建築という旧駅舎(2015年撮影)

1936(昭和11)年建築という新大久保駅の旧駅舎(2015年撮影)

新大久保駅といえば、少し前までは1936(昭和11)年から利用されていた、さほど大きくない駅舎と、狭い改札口周辺に雑踏がざわめいていて、どちらかといえばネガティブなイメージがあったかもしれません。

 

山手線で唯一、エレベーターもエスカレーターもない駅で、バリアフリー化も遅れていました。しかし、最近の新大久保は街の雰囲気が一変しました。

 

令和になって一新された駅舎は街のイメージも変えた

令和になって一新された新大久保駅の駅舎は街のイメージも変えた

2016(平成28)年から古い駅舎と改札口周辺の工事を行い、2020(令和2)年9月にエレベーターや改札口の利用が開始されました。新しい駅舎は4階建てで、駅舎というより駅ビルといった感じです。

 

2021(令和3)年には2階に大手カフェチェーン店もオープン。現在は3階にはフードホールとカフェダイニング、4階はコワーキングスペースもオープンしています。

 

大久保通りに面したこの新しい駅舎は、街の玄関口としてイメージを一新。駅周辺の道路も工事が進められ、狭くごちゃごちゃした印象が払拭されました。

 

若者があふれる街は活気に満ちている

若者があふれる街は活気に満ちている

現在の新大久保は、最先端の韓国コンテンツが集まり、ショッピングエリアも広がって、若者でにぎわう、まるで原宿のような活気があふれる街になっています。

 

筆者が初めて新大久保を訪れたのは、今から50年ほど前。当時、筆者は中学生で、高校受験のためにやってきたのでした。

 

ただ、当時は、新大久保は簡易宿泊所が軒を連ねる日雇い労働者の町で、中学生が気軽に歩ける場所ではなかったという印象です。

 

新大久保駅から菓子メーカー工場の脇を抜けた先に受験する高校はありました。

 

第一志望が都立高校で、そちらに合格したのでこの高校とは縁がなかったのですが、菓子工場の付近は甘い香りが漂い、独特の雰囲気でした。周辺には焼き肉店などが多かったことを覚えています。

 

ある意味、新大久保の象徴でもあったロッテ工場(2015年頃)

ある意味、新大久保の象徴でもあったロッテ工場(2015年頃)

この菓子工場は、チョコレートやガムで知られるロッテ。「チューインガム LOTTE チョコレート」という看板は、山手線の電車の中からよく見えました。

 

中学生だった当時は知りませんでしたが、そもそもロッテという企業は1947年に創業し、1960年代に日本で成功した韓国系企業であり、新宿工場には韓国系従業員も少なくなかったといいます。

 

そのため、従業員や韓国系研修生のための宿舎(寮)もあって、周辺には韓国系料理店も点在していたということだったようです。

 

筆者も大学生だった1970年代、友人と新大久保の韓国料理店やベトナム料理店などに足を運びました。このころから、新大久保の多国籍エスニックタウンの兆しがあったということなのでしょう。

 

ロッテの新宿工場は2017(平成29)年に閉鎖となり、跡地は都市計画道路として整備されました。

 

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コリアンタウンとして人気を集めている

コリアンタウンとして人気を集めている

新大久保のコリアンタウンでは、21世紀に入ったころから韓流ブームに乗り、韓国系の店が増加しました。

 

特に、2004(平成16)年、韓国のTVドラマ「冬のソナタ」が放映されたことが、韓流ブームに火を付け、コリアンタウン発展の追い風となったのです。

 

当時は職安通りに数十台の観光バスが停車しているなど、まさに観光地としての様相を呈していたのです。

 

ハングルの看板が並ぶ裏路地

ハングルの看板が並ぶ裏路地

コリアンタウンの発展に一役買っていたと思われるのが、日本語学校の存在です。

 

周辺では1975(昭和50)年に新宿日本語学校が開校。その後も日本語学校は増え、現在、新大久保駅周辺には50近い日本語学校があるのです。その結果、留学生、さらに就労外国人が増加しました。

 

新大久保駅は新宿区にありますが、新宿区の人口統計をみると、2022(令和4)年12月時点、4万386人の外国人が暮らしており、新宿区の人口の約12%が外国人となっています。これは東京23区ではトップの比率です。

 

新大久保駅の改札口は、東西に走る大久保通りに臨んでいます。

 

改札を出て右方向、山手線のガードをくぐって進むと、通り沿いや脇の路地に韓国料理店や韓流グッズ店が続いています。ハングル表記も多く、異国情緒たっぷりです。

新大久保駅のすぐ近くに鳥居がある

新大久保駅のすぐ近くに鳥居がある

改札口を出て左、中央線大久保駅方面へ向かうと、すぐ左側にあるのが皆中稲荷(かいちゅういなり)神社。

 

新宿区のこの辺りの地名が「百人町」というのは、江戸時代に鉄砲百人組の屋敷があったことに由来しています。

 

鉄砲百人組は、江戸城や街道筋の警備などにあたっており、その鉄砲百人組の人々が射撃技術の上達を祈願したのがこの皆中稲荷神社。

 

絵馬の図柄は的に命中

絵馬の図柄は的に命中

百人組の与力が、この神社の神霊を夢に見た後に射撃練習をしたところ、百発百中、皆的中したということから、「ミナアタル(皆中)稲荷」と呼ばれるようになったといいます。

 

現在は、宝くじや馬券が当たるといわれ、多くの参詣客が訪れています。特に「ここ一番の人生の勝負」といったときには、この神社のお守りは霊験あらたかだとか。

 

江戸名所図会「大久保の映山紅(きりしまつつじ)」。ツツジ見物に訪れた身分の高い武家娘とお手伝いさんの一行を、地元の旗本がもてなす様子が描かれている

江戸名所図会「大久保の映山紅(きりしまつつじ)」。ツツジ見物に訪れた身分の高い武家娘とお手伝いさんの一行を、地元の旗本がもてなす様子が描かれている

江戸時代、鉄砲百人組の武士たちは、内職にツツジ栽培を行っていました。「江戸名所図会」には、家臣の侍や、お手伝いさんを引き連れて満開のツツジを愛でる武家娘の一行が描かれています。

 

高さ3m以上のツツジの株が数多くあり、飯島武右衛門(いいじまぶえもん)という同心の屋敷の庭だけでも、ツツジは数千株に及んだといいます。今日の新大久保周辺からは想像できない風景です。

 

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小泉八雲旧居跡の記念公園。八雲の生まれ故郷であるギリシャ風の意匠の庭園になっている

小泉八雲旧居跡の記念公園。八雲の生まれ故郷であるギリシャ風の意匠の庭園になっている

新大久保駅から大久保通りを明治通り方向へ進んで、ルーテル教会の先を右へ折れて道なりに行くと、小泉八雲(こいずみやくも)記念公園があります。

 

作家で文芸評論家でもあった小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、ギリシャのレフカダ島生まれ。のちにアメリカに渡り、1890(明治23)年に雑誌記者として来日後、小泉節子と結婚して日本に帰化します。早稲田大学の講師などのかたわら、『耳なし芳一のはなし』で知られる『怪談』などの著書を残しました。

 

その小泉八雲が東京で最初に居を構えたのは、現在の新宿区富久町(靖国通り沿いの成女学園校内に石碑がある)。富久町の宅地化が進んだため、閑静な場所を求めて移転した先が、現在の記念公園の地といいます。

 

八雲は1904(明治37)年に亡くなるまでの2年余りをここで過ごしました。園内に終えんの地の碑や銅像があります。

稲荷鬼王神社

稲荷鬼王神社

小泉八雲記念公園から職安通りに出て、道路を横断した先にあるのが稲荷鬼王(いなりきおう)神社。

 

社伝によると、もともとは稲荷神社で、江戸時代に紀州熊野から勧請(かんじょう:祭神の分霊をほかの神社に招いてまつること)された鬼王権現が習合されて、稲荷鬼王となったといいます。

 

しかし、この「鬼王権現」について、熊野にはそれらしい神仏の記述はありません。

 

一般的にいえば、鬼は忌み嫌われる存在です。その鬼をまつるということは、その並外れた力を人間のために発揮してもらうか、あるいは「暴れたり、タタリをなしたりしないでください」となだめるか、どちらかが考えられます。

 

境内にある鬼の水鉢。天邪鬼が水鉢を支える意匠

境内にある鬼の水鉢。天邪鬼が水鉢を支える意匠

神社の入り口にある水鉢は、鬼(天邪鬼)が頭上に鉢を持っているという変わった意匠で、「鬼の手洗い鉢」と呼ばれています。

 

大久保に住んでいた武士の家にあったもので、夜ごとに何かが水浴びをするような水音がしたため、鉢に切りつけたところ、家に病人が出るようになったため、困った家人がこの神社に奉納したものとか。

 

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都立戸山公園

都立戸山公園

新大久保駅から大久保通りを東へ向かい、明治通りを越えた北側に広がるのが都立戸山公園です。

 

戸山公園は江戸時代、徳川御三家のひとつ尾張徳川家の下屋敷が置かれたところ。通称を「戸山山荘」と呼ばれたこの屋敷は、いかにも御三家の別荘らしく、趣向に富んだ庭園を持っていました。

 

戸山山荘は13万6000坪あまりという広大な敷地で、回遊式庭園の中に二十五景をしつらえ、小石川の水戸家の後楽園(こうらくえん)と並ぶ名園だったと伝わります。

 

敷地のほぼ中央に大泉水(だいせんすい)を掘り、池には琥珀橋(こはくきょう)と呼ばれる木橋を渡し、ところどころに築山や渓谷、田畑などを設け、園内の各地に社祠や堂塔、茶屋などを配していました。

 

庭の南端には余慶堂(よけいどう)と称する御殿を配し、休憩施設としていました。徳川11代将軍家斉(いえなり)をして「すべて天下の園池は、この荘を以て第一とすべし」と言わしめたほどでした。

 

戸山公園の箱根山は尾張徳川家庭園の遺構

戸山公園の箱根山は尾張徳川家庭園の遺構

そうした趣向のなかでつくられたのが箱根山。自然の山ではなく築山ですが、標高44.6mと現在の山手線内ではもっとも標高が高い場所とされており、山頂には三角点もあります。

 

箱根山(山手線内最高峰)登頂証明書がもらえる

箱根山(山手線内最高峰)登頂証明書がもらえる

この箱根山、山手線内最高地点ということで、登頂すると戸山公園サービスセンターで「山手線内最高峰箱根山 登頂証明書」をもらえます。

 

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更新日: / 公開日:2023.02.13