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巣鴨駅(写真奥の白い建物)に向かう山手線外回り電車

江戸時代は人気の行楽地

江戸時代の巣鴨は、中山道の「巣鴨立場(すがもたてば)」としてにぎわっていました。立場とは、主要街道において、茶店や一膳めし屋などが軒を連ねる繁華な場所のこと。ただ、宿場ではなかったので、宿泊施設はありませんでした。この中山道の立場だったエリアが、現在の「巣鴨地蔵通り商店街」(以下、地蔵通り商店街)です。多くの観光客でにぎわうこの通りの歴史は、江戸時代までさかのぼることができるのです。また、江戸六地蔵のひとつ眞性寺があって、その参拝客でもにぎわっていました。

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眞性寺にある江戸六地蔵は、現在も地蔵通りの入口に鎮座しています

中山道板橋宿が江戸時代の巣鴨をにぎやかした

江戸時代に巣鴨を訪れる人々が多かった理由の1つとして挙げられるのは、巣鴨から2kmほど離れた中山道板橋宿の存在。板橋宿はいわゆる宿場としての顔のほか、風俗街としての顔も持っていました。

1805年に記された『木曽路名所図会』では、板橋宿について「所々に花魁(おいらん)店前に並び、紅粉(こうふん=口紅とおしろいのこと)を粧ふて花簪(はなかんざし)をさしつらねて美艶をかざる格子の内、行き交ふ旅客は歩みをとどめてあれをこれをと興ずるも多し」とあります。江戸時代後期の板橋宿の旅籠は54軒を数えますが、軒を連ねる旅籠のなかには男性客の相手をする飯盛女(めしもりおんな)を雇っていた施設がかなりあった、ということです。また、入店する前に格子越しに女性の容姿を見定めることができたのは江戸近郊では吉原遊郭と板橋宿だけだったことも、男性たちには人気でした。

このため、板橋宿は中山道の旅行者以外にも、江戸の中心部や近郊の農村から、風俗嬢である飯盛女を目当てに遊びにくる人々も少なくはなかったのです。こうした人々の多くは板橋で遊んだ行き帰りに、巣鴨の茶店や一膳めし屋に立ち寄っていったのです。

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江戸時代末期、1854年の巣鴨周辺の地図。中央に記された眞性寺から左下に延びる道が中山道で、現在の地蔵通り商店街。左下隅の一帯が中山道板橋宿。現在の巣鴨駅の位置は、眞性寺のやや右、中山道から下に道が伸びる三叉路の付近

巣鴨名所だった「たねや」。今も大正時代の建物が残る

江戸時代の巣鴨を語るうえではずせないのは、「たねや」の存在です。中山道を往く旅人にとってよく知られた江戸土産が、「野菜の種子」でした。江戸で見かけた見慣れない野菜、あるいは評判の野菜を見かけ、国元で栽培したいと「野菜の種子」を欲しがるようになって、農家が副業で種子を売るようになったようです。

野菜は収穫してしまうと種子が採れません。栽培農家が種子採取用に意識しない限り、野菜の種子は得られないのです。
こうした事情から、江戸時代後期には、農家に種子の採取を目的としての野菜栽培を行なうことを依頼して、野菜の種子を仕入れて販売する種子の卸問屋が誕生。「たねや」と呼ばれました。こうした「たねや」は、京都、大阪、博多、金沢、そして江戸郊外の巣鴨など、大都市近郊にみられるようになったのです。

巣鴨の種問屋は江戸時代から明治、大正、そして昭和の初めまで、中山道沿いには問屋や小売りが並び、「たねや通り」と呼ばれていました。旧中山道沿いに、江戸時代から続く旧榎本留吉商店(現在は東京種苗)の旧店舗が残っています。大正時代の建築といわれています。

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大正時代の建物を残す東京種苗旧店舗

巣鴨は植木の里でもあった

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11月初旬の地蔵通り周辺は菊祭りでにぎわう

江戸時代の巣鴨は、植木の村としても名高かったところ。現在の染井霊園周辺には、25軒の植木屋が並び、植物公園のような風情となっていたといいます。桜の代表的な品種であるソメイヨシノは、幕末から明治にかけての時期に、この地の植木屋がオオシマザクラとエドヒガンザクラを交配させて誕生させたものです。

染井の植木職人の技術力は高く、吉原遊郭の大通りに、桜のシーズンだけ桜並木を出現させた、というエピソードも伝わっています。これはいってみれば植木のリース業で、桜の木を数十株、花見時に限って移植して桜並木を造り、葉桜となったら撤去する、ということ。それほどの技術が江戸時代にあったのです。

この植木の里は、ツツジや菊の栽培でも知られていました。徳川8代将軍吉宗はキリシマツツジの花を見物のため巣鴨にやってきて、苗木や寄せ植を求めて帰ったといいます。

菊作りは現在の地蔵通り商店街の一帯でも盛んだったようで、江戸時代中期の寛保年間(1741~1744)ころから、明かり障子で囲った内側に菊を並べた店が人気となりました。さらには文化年間(1804~1818)、たくさんの小菊が崖から垂れ下がって咲いているかのように仕立てる「懸崖作り」や、「形作り」といって富士山や虎の形に菊を作るさまが評判となったことも記録に残っています。江戸時代後期の1813年の記録では、現在の地蔵通り周辺で35軒が菊作りを行なっていたことがわかっています。そして今日でも、11月初旬の巣鴨は菊祭りでにぎわいを見せるのです。

中山道と交差する駅として誕生した巣鴨駅

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ホームの上に国道17号線が覆いかぶさる構造の巣鴨駅

そうした中山道の繁華な街に、鉄道の駅が誕生するのは明治時代の半ばとなる1903年4月1日。巣鴨駅は日本鉄道豊島線の駅として開業しました。

日本鉄道豊島線は、日本鉄道品川線(品川~赤羽間、1885年開業)の池袋駅と、日本鉄道土浦線(田端~土浦間、1896年開業)の田端駅を結ぶ鉄道として計画された路線。品川線側の起点は、当初は現在の目白~池袋間に雑司ヶ谷駅を新設する計画でしたが、その後、第2次計画で目白駅から分岐する計画に変更、そして、最終案で、当時は信号場(単線で、上りと下りの列車が行き違うため、部分的に複線化した場所)だった池袋を駅に昇格させて池袋~田端間を結ぶことになりました。この計画において、最初から中間駅として計画されていたのが巣鴨です。中山道と交差する交通の要衝とされたためでした。

豊島線の開業後、日本鉄道は品川線と豊島線を合わせて「山手線」と改称。そして1906年、日本鉄道は国有化されます。巣鴨駅は開業してほどなく山手線の駅として歴史を刻み始めたのでした。

巣鴨駅の開業当初は地上駅で、南側の線路沿いに駅舎や改札口が設けられていました。そして1924年、山手線が山手貨物線と山手電車線とに複々線化された際に、駅舎は全面的に改修され、駅の出入り口が現在のような中山道(国道17号)に面したものになりました。つまりホームから階段を上ったところに駅事務室がある橋上駅に変更されたのです。ホームの頭上に国道が覆いかぶさっているという独特の構造となりました。

その後、1970年に駅舎が改築され、現在は2010年にオープンした駅ビル「アトレヴィ巣鴨」をともなった4代目の駅舎となっています。

かつて存在した貨物駅の跡

巣鴨駅のホームは島式1面2線といって、一つのホームの片側が内回り線、もう片側が外回り線という単純な構造。ですが、駅付近の線路は山手線のほかに4線があります。このうち2線は旧山手貨物線で、現在は湘南新宿ラインや成田エキスプレスなどが走っています。残りの2線は、かつて存在した巣鴨貨物駅の名残となる待避線や留置線。ここには、線路などの点検や整備に用いられる保線用の車両が停車しているのを見かけます。

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写真右の雑草が生えているあたりが巣鴨貨物駅の跡で、現在は保線用の車両などの留置場所になっています。写真左が現在の巣鴨駅で、山手線内回り電車が駅に差し掛かっています

最後の将軍徳川慶喜と巣鴨

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巣鴨駅近くにある徳川慶喜屋敷跡の標示

巣鴨駅のすぐ前で山手線の線路と立体交差するのが、旧中山道である国道17号。線路を跨ぐ巣鴨橋を渡って、とげぬき地蔵とは反対方向へ歩くと、道路沿いに「徳川慶喜梅屋敷跡」の標示があります。ここが徳川幕府最後の将軍であった徳川慶喜の屋敷跡です。

明治維新以降の徳川慶喜は、生活の大半を静岡で過ごしていました。静岡時代の徳川慶喜の屋敷は現在の静岡駅近くにありました。ちなみに、屋敷跡は料亭になっており、慶喜時代の庭も残っています。しかし1889年、東海道本線が開通し、静岡駅が開業。慶喜は列車の汽笛などの騒音と、蒸気機関車の煤煙などを嫌い、1897年、慶喜は静岡を離れ、東京の郊外、中山道沿いの巣鴨に移転したのです。

徳川慶喜の巣鴨屋敷は数多くの梅が植えられていたため、巣鴨梅屋敷の通称で呼ばれました。当時のこのあたりは麦畑が広がるのどかな風景だったようで、慶喜も気に入っていたようです。しかしわずか6年後の1903年、巣鴨駅が開業。鉄道の騒音を嫌って転居したはずの巣鴨の屋敷の目の前に、よりによってまた鉄道の駅が誕生したのです。慶喜はここでも騒音を嫌い、屋敷を処分し、文京区小石川へ再度転居していったのです。

ソメイヨシノ発祥の地の桜のトンネル

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ソメイヨシノの碑がある桜並木の脇を山手線が走る

巣鴨駅付近では、電車が大塚から駒込へと続く台地を削った堀割の谷底を走っています。ホームは谷底に設けられ、ホーム上には中山道である国道17号線が交差しています。国道17号線が山手線に架かる橋は巣鴨橋。西側に宮下橋、江戸橋と線路の堀割を渡る橋が架けられています。この巣鴨橋から江戸橋にかけての線路沿いには、桜並木が続いています。

並木道の入口には「染井吉野の碑」があります。巣鴨がソメイヨシノ桜の発祥の地ということでの記念碑です。ただし、ソメイヨシノ発祥の地をうたうのは巣鴨だけではありません。隣接する山手線駒込駅前にも「染井吉野桜記念公園」があって「染井吉野桜発祥之里」の碑が建てられています。

歴史的に見ると、ソメイヨシノ発祥の地は「武蔵国豊島郡染井村」。現在の住居表示で表すと豊島区駒込5丁目および6丁目付近。住所でいえば「駒込」ですが、場所は巣鴨駅の北500m、駒込駅からは西北西へ800mのあたりとなり、駅からの距離でいえば巣鴨のほうが近いのです。巣鴨・駒込がそれぞれで「ソメイヨシノの里」を主張するのも当然といえば当然です。

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