「日暮里」の地名は、「新しい堀」「新しい開拓地」を意味する「新堀(につほり)」に由来するというのが一般的な説です。「新堀」は1448(文安5)年の古文書に登場する古い地名で、江戸時代には音無川(石神井用水)東側の低地の田園地帯を指したようです。

一方、「日暮里」は享保年間(1716~1736)ころから見られる地名で、「日暮れまで遊んでいられる」として「日暮らしの里」とも呼ばれました。日暮らしの里は高台の寺町で、眺めがよい景勝地。四季おりおりで風情を楽しめる名所とあって、多くの江戸っ子が訪れたといいます。

現在は高台の下をJR山手線や京浜東北線の電車が走り、高台から目にするのもビルばかりの景色になってしまいましたが、かつての面影を今に伝える歴史スポットが点在しています。

写真左:1856(安政3)年「根岸谷中日暮里豊島辺図」の一部。写真右:現在の西日暮里駅周辺。国土地理院「地理院地図」より

1856(安政3)年の江戸切絵図「根岸谷中日暮里豊島辺図」と、現代の地形図を並べてみました。江戸切絵図のなかで、左上から右下へ流れる川が音無川。この川は現在姿を消し、川の跡に沿うようにして山手線が走っています。西日暮里駅の位置は、川沿いの松平越後守屋敷のあたりになります。川の東側の低地には「新堀村」の表記があります。

 

江戸切絵図の左上部、イラストが描かれている山林が道灌(どうかん)山。その南方には、青運院(現在は青雲寺)、妙六寺(現在は妙隆寺)、南倉寺(現在は南泉寺)など寺院が並び、「此邉日暮ト云」の注意書き。これらの寺の東には浄光寺などがある高台の諏訪台が広がります。

 

道灌山と南側の青運院の間の道が、現在の道灌山通りの前身となる道です。この図では高低差がわかりませんが、道灌山の山すそから音無川のほとりに通じる道ですから、それなりに標高差がある坂道だったことは想像できます。

1886(明治19)年迅速測図。東北本線(1883(明治16)年開業)が地図に反映されていないので、ベースとなった測量はそれ以前のことと思われる。道灌山と諏訪台との間にすでに道路が通っている

1886(明治19)年の「迅速測図」を見ると、道灌山と諏訪台の間を切り拓くようにして切通しの道がすでに存在することがわかります。道路を切通しにするためには大掛かりな工事が必要となるので、明治の初期にすでに切通しになっていたのであれば、江戸時代以前に工事が行われた可能性もあります。

 

この道路は、本郷・駒込方面から三河島・千住を結ぶ道。三河島は、江戸時代以前からの集落。また千住は、平安時代から知られた奥州道の要衝。道灌山通りはこれらの土地を結ぶ道なので、古くから開かれた重要な交通ルートだったことは想像に難くありません。

写真左:1909(明治42)年。道は折れ曲がり、踏切となる。写真右:1930(昭和5)年。道路と鉄道が立体交差となった

西日暮里付近に鉄道が敷かれたのは、1883(明治16)年。これは東北本線で、蒸気機関車が走っていました。山手線の専用線ができて電車が走るようになるのは1903(明治36)年のこと。当時は、鉄道と道路は踏切で交差していました。1909(明治42)年の地図では、まだ立体交差となっておらず、大まかな道筋は前出の1886年のものと変わりません。

 

しかし、1930(昭和5)年の地図では道灌山通りは鉄道をくぐっています。大正から昭和初期にかけて立体交差化がなされたことがわかります。

 

写真左:1967(昭和42)年。立体交差は初期とさほど変化はない。写真右:1971(昭和46)年、西日暮里駅が開業。道路の幅などが変化している

そして、1969(昭和44)年に地下鉄千代田線・西日暮里駅が開業し、1971(昭和46)年には山手線・西日暮里駅開業。この前後で地形図を比べると、道灌山通りは道幅や周辺の道路との交差の状況が変わっていることがわかります。道灌山通りは道幅を広げ、少し掘り下げたようです。山手線はかさ上げして、高さのピークのところに西日暮里駅のホームを造り、ガード下に大型自動車が通行できる高さを持たせました。

 

こうした結果、切通しは以前の姿よりも高いものになった、と思われます。切通し自体は古くから存在したのですが、山手線・西日暮里駅開業にともなって再度工事が行われ、現在の姿となった、ということのようです。

江戸城を築いた太田道灌が出城にしたとの伝承がある道灌山

道灌山には、江戸城を築いた室町時代の武将・太田道灌が、出城を築いた、との伝承があります。あくまでも伝承であって、発掘調査などによる確証は得られていません。

 

太田道灌が江戸城を築城した理由は、奥州道沿いの下総国古河(現在の茨城県古河市)を拠点とする古河公方(こがくぼう)、足利成氏(あしかがしげうじ)を警戒するため。古河から江戸までは約70km、戦国武将であれば2日で到着できる距離です。となると、江戸から奥州道の要衝である千住を結ぶルート途中の道灌山は、南下してくる足利軍を江戸城の手前で迎撃するための重要な戦略拠点となります。

 

中世山城の切通し。八王子城(東京都)

道灌山が伝承のとおり城郭であるならば、切通しの道は城郭に付帯した防衛施設、とみることができます。一般論ですが、切通しは、敵勢力が通過する際に迎撃しやすいとされ、中世の山城などにしばしば見られるものです。

 

城下町の折れ曲がった道(枡形)。臼杵城下(大分県)

また、道灌山の場合、道は北側でカギ型に折れ曲がっています。この折れ曲がりは、城郭の虎口(こぐち:城の出入り口のこと)や城下町によくある枡形(ますがた:折れ曲がった通路)と同じ形式。目隠しを多くし、敵兵の侵攻を妨げる機能を持っているのです。

 

切通しも折れ曲がった道も城郭に見られるものであることを考えると、道灌山通りの切通しは、「太田道灌が江戸城防衛のため道灌山に出城を築いた際に切通しの工事も行った」、という可能性もゼロではないと思えます。駅のホームから見下ろす景観が、そんな戦国ロマンにまで結びつくのですから、やはりこの景観はユニークなものといえるでしょう。

現在の青雲寺。門前には「花見寺」の標石

さて、江戸時代の「日暮らしの里」では台地上に寺院の庭園が続いていて、風雅な行楽地だったといわれています。とりわけ花見寺として名を馳せたのが、道灌山の南、諏訪台のふもとの青雲寺です。

 

歌川広重「名所江戸百景 日暮里寺院の林泉」に描かれた青雲寺。背後の山は諏訪台

春は桜、初夏はツツジが美しい広い庭園をもち、境内に茶店もあったとか。今も境内は季節の花で彩られ、花見寺の雰囲気を残すたたずまい。

 

江戸時代にはここ青雲寺と隣接する修性院、その隣の妙隆寺(修性院と合併)も花見寺と呼ばれました。これらの寺の門前には行楽客を当て込んで飲食店が並び、お座敷から三味線の艶やかな音色も流れてくるという風流な場所でした。

「関東の富士見百景」に選定された富士見坂

山すその寺院群から諏訪台へ上る坂道は、江戸時代には花見坂や妙隆寺坂と呼ばれていた坂道で、現在は富士見坂(ふじみざか)と呼ばれています。

 

「関東の富士見百景」に選定された坂ですが、ビルの建設によって、2013年頃から富士山の全景を見ることができなくなりました。現在はビルの合間から富士山が見えるかどうか、という状況ですが、道沿いにはかつて富士山が見えたころの写真パネルが並べられ、地元の人々の思いが伝わってくる感じがします。

歌川広重「名所江戸百景 日暮里諏訪の台」。現在の諏方神社の境内にあたる。眼下の集落は新堀村。右奥に遠く見えるのは筑波山。山麓から上ってくる坂は地蔵坂といい、浄光寺の江戸六地蔵にちなむ

切通し上の高台は、江戸時代には眺望のよさで知られた名所でした。特に、北から東にかけては低地が広がっていて視界を遮るものがなく、筑波山や日光の連山、さらには下総国府台(現・市川市)なども望めたといいます。

 

このあたりは月を見ながら鈴虫や松虫などの鳴き声を楽しむ「虫聴き」の名所としても名を馳せ、その光景は浮世絵師・歌川広重をはじめ、多くの絵師によって描かれています。

 

雪見寺と呼ばれた浄光寺

浄光寺は眺めのよさが評判になり、冬には雪見も楽しめたことから雪見寺と呼ばれました。徳川8代将軍吉宗が鷹狩りの際に立ち寄り、御膳所(昼食会場)となったといいます。また、山門のそばに立つ地蔵菩薩像も貴重な文化財。1691(元禄4)年の鋳造で、江戸六地蔵のひとつです。

 

浄光寺の北に隣接する諏方神社

浄光寺の北に隣接して諏方神社があります。「日暮らしの里」のなかでも、この神社からの眺望は白眉とされました。浅草や三河島の集落、船が行き交う利根川や荒川、秩父や日光の山並みも見えたといいいます。

 

諏訪台(諏方神社)から下る石段が現在の地蔵坂

現在はこうした面影は薄れてはいるものの、JR西日暮里駅や線路を走る山手線の列車、田端や日暮里駅周辺の景色を見ることができます。

月見寺と呼ばれていた本行寺

日暮らしの里の東のはずれに位置し、丘陵の端にあって眺めがよく、月見寺と呼ばれていたのが本行寺です。この寺では月見など風雅な催しも行われていたようで、1811(文化8)年には俳人の小林一茶がこの寺での句会に参加し、「陽炎や道灌どのの物見塚」の句を残しています。

 

一茶の句に詠まれた太田道灌の物見塚は、明治の後期まで境内の裏手にあったといいますが、山手線の開通工事で削られてしまったようです。

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