目黒駅の東側は、白金。高級住宅地の代名詞のような印象のあるエリアですが、江戸時代は大名屋敷地でした。
今回はそんな、かつての大名屋敷地の周辺を訪ねてみます。
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江戸切絵図尾張屋版 目黒白金図(部分) 図中の右上から左下に突っ切るのが現在の目黒通り。左下の松平主殿頭とあるのが現在の目黒駅付近、中央やや左上に松平讃岐守とあるのが自然教育園、中央やや右上に京極佐渡守とある一帯が旧公衆衛生館
現在の目黒駅は、松平主殿頭(まつだいらとのものかみ・島原藩主)の屋敷跡に建てられました。
周辺には森伊豆守(もりいずのかみ・播磨三日月藩主)、松平讃岐守(まつだいらさぬきのかみ、讃岐高松藩主)、松平阿波守(まつだいらあわのかみ、徳島藩主)、京極佐渡守(きょうごくさどのかみ、讃岐丸亀藩主)などの屋敷が点在する閑静な屋敷町でした。
太田道灌ゆかりの「誕生八幡神社」

誕生八幡神社。ビルの谷間に夫婦イチョウがしっかりと根付いている
目黒駅から目黒通りを東へ進むと、左手にある小さな神社が誕生八幡神社。かつては広い境内を持っていたといいます。
門前のイチョウは樹高14.5m、推定樹齢300年。「夫婦銀杏」と呼ばれ、夫婦和合・安産のシンボルとされていますが、もとは現在の目黒通りの中央あたりに生えていたといわれています。道路拡張のため植え替えられたのです。

コンクリート造りの社務所の上に移築された誕生八幡神社の本殿(木造)
もともとこの神社は、最初の江戸城を築いたことで知られる太田道灌(おおたどうかん)が、夫人の安産を祈願して、文明年間(1469~1487)に筑前国(福岡県)の宇美八幡を勧請(かんじょう:祭神の分霊を他の神社に招いてまつること)し、建立した神社。
無事に男の子が生まれたことから、神社を誕生八幡と名付けたといいます。以来安産・子育てに霊験あらたかとされてきました。
武蔵野の原始の自然の姿を見せる「自然教育園」

東京の中心部にあって豊かな自然が残る国立科学博物館附属自然教育園
自然教育園は、正式には「国立科学博物館附属自然教育園」。都心では珍しい武蔵野の森林の“原始の姿”が見られる場所で、面積は約20万平方メートル(東京ドームの約4倍)に及びます。
この一帯は、江戸時代には讃岐高松藩・松平家(12万石)の江戸屋敷だったところ。明治以降は日本陸軍の施設となり、その後は皇室の料地となって、一般の立ち入りが制限され、結果的に森が保護されることになりました。
1949(昭和24)年には国の天然記念物に指定され、本格的に森が保護されることになりました。
こうして明治以降、100年余りにわたってほとんど手付かずで森林が保護され、結果的にそれが武蔵野の原始の自然の姿を見せることになったのです。

自然教育園内に残る中世の「白金長者」館跡の土塁
歴史をさかのぼると、ここは、白金館(しろかねたち)という南北朝時代の豪族の館跡でした。
応永年間(1394~1428)に、南朝の禁中雑色(きんちゅうぞうしき:下級公務員)だった柳下上総之助(やぎしたかずさのすけ)が館を構えたといいます。上総之助は「白金長者」と呼ばれ、これが白金の地名になったのです。
園内には館跡の土塁が残っています。都心部の中世の城郭跡でこれほど明確な土塁が残っているのは非常に珍しいことです。ちなみに、目黒~恵比寿間にある「長者丸踏切」の名称はここに由来すると思われます。
1664(寛文4)年、この土地は讃岐高松藩主・松平頼重(まつだいらつなしげ)に下屋敷地として下賜されました。
松平頼重は、高松藩主として讃岐に入国するとすぐに、高松城の整備と改修を行っているほか、高松城下の屋敷として栗林荘(りつりんそう:現在の栗林公園)の整備を始めています。栗林公園は、日本有数の名園として知られる香川県高松市にある広大な庭園。
こうした頼重の行動から推測すると、ここ白金の屋敷もみごとな庭園を備えたものであったことは想像に難くありません。
実際、頼重は江戸での生活を、飯田町の上屋敷(現在の飯田橋付近)ではなく、この下屋敷で過ごしています。それだけこの下屋敷が気に入っていたと思われます。

自然教育園の湿生植物園。いわゆる低層湿原だが、江戸時代には日本庭園の池だったという
現在の自然教育園では、武蔵野の自然林の印象が強く、高松藩下屋敷の面影を求めることは難しくなっています。
逆説的にいえば、現在の自然教育園の姿は、「整備された日本庭園でも100年以上放置すればこのような姿になる」、という見本のようなものと考えることもできます。
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「瑞聖寺」の本堂は国の重要文化財

紫雲山瑞聖寺の入り口門
瑞聖寺(ずいしょうじ)は、都内では数少ない黄檗宗(おうばくしゅう)の寺院。
黄檗宗は明(みん=中国)の高僧であった隠元(いんげん)が伝えた宗派。その隠元はインゲン豆を日本に伝えた人物としても知られます。
1654(承応3)年、当時の隠元は63歳。高齢の師を気遣って、高弟たちも同道して来日。
そうして、京都に隠元の寺である萬福寺が造られ、江戸には隠元の弟子・木庵が、1670(寛文10)年に、江戸の黄檗宗の拠点としてこの寺を開いたのです。

国の重要文化財の瑞聖寺大雄宝殿
一般の寺院の本堂にあたる大雄宝殿(だいおうほうでん)は江戸時代中期の建物で、棟札からは1757(宝暦7)年の文字が見つかっており、このころの再建と思われます。
ちなみに「大雄」は釈迦如来のことで「宝」は美称です。大雄宝殿は、国の重要文化財に指定された仏堂です。
一見すると2層の屋根があって2階建てに見える建物で、下層のものは屋根ではなく身舎(もや)につけられた裳階(もこし:ひさしの一種)。屋根裏の垂木(たるき)は放射状に並ぶ二重扇垂木(にじゅうおうぎだるき)になっていますが、裳階の垂木は平行垂木(へいこうだるき)です。
屋根の中央に宝珠をのせ、棟の両端にはしゃちほこに似た霊獣の摩伽羅(まから)を置き、また身舎の左右には丸窓を設けています。
裳階の下は吹放(ふきはなち)の回廊にして、堂の正面中央には成(せい:高さ)が半間(約90cm)ほどの半扉が設けられています。
堂の前面には、やや高くした基壇(きだん:建造物の下の基礎になる石や土で築いた壇)を設け、基壇には白砂を敷き詰めています。これが月台(げったい)です。
黄檗寺院に特有の聖域結界となるものですが、日光を反射して堂内を明るくするという実用的な面も併せ持っています。

庫裏のリニューアルにあたり、隈研吾氏に設計を依頼して2018年11月に竣工
ちなみに本堂の脇にある庫裏(くり)は、隈研吾氏の設計です。


隈研吾設計 瑞聖寺庫裡
表現主義建築の「旧公衆衛生院」

旧公衆衛生院。現在は港区立郷土歴史館を中心とした複合施設に
公衆衛生院は、1938(昭和13)年に設立された国立の医療従事者育成機関。
関東大震災後の災害地復興援助の一部として、アメリカ・ロックフェラー財団から日本政府へ350万ドルあまりの金額が寄贈されたことにより誕生しました。世界保健機関(WHO)は国立公衆衛生院を「School of Public Health(公衆衛生学校)」として紹介しています。
現在は国立感染症研究所の一部などと共に国立保健医療科学院となり、埼玉県和光市に移転。
文化財的価値から保存され、港区立郷土歴史館やがん在宅緩和ケア支援センター、学童クラブなどの複合施設「ゆかしの杜」となっています。

昭和初期建築の旧公衆衛生院。いわゆる「内田ゴシック」の建築技法が見られる
建物は地上6階、地下1階。東大安田講堂などを手がけた内田祥三(うちだよしかず)が設計、「内田ゴシック」と呼ばれる直線的な縦のラインを強調した外観のデザインです。
典型的な表現主義建築で、中央棟から左右に回廊のように建物が伸び、上空から見ると巨大な鳥が翼を広げたような形状。

ロッジア風のアーチを採用したファサード
印象的な八角形の塔、縦長の長方形を基調とした窓、ゴシックではなくロッジア風のアーチを採用したファサードは、レンガ色の壁面に対してコンクリートの白色が印象的です。

旧公衆衛生院のロビー吹き抜け部分。建物内部は開館時間内なら自由に見学できる
建物内は吹き抜けの中央ホール、高級なしつらえの旧院長室、階段状の講堂などは建設当時と変わらぬ姿を保っています。細部の彫刻や装飾、ステンドグラスが印象的です。

4階にある旧講堂。建設当初の姿がよく残されている
また、旧講堂では時計や照明、レリーフなども可能な限り残し、当時の雰囲気を守り続けています。
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更新日: / 公開日:2022.10.14










