王侯貴族、権力者の建物跡地にある「ブルス・ドゥ・コメルス ピノー・コレクション」
パリの新しい私設美術館「ブルス・ドゥ・コメルス ピノー・コレクション」が立つのはセーヌ川右岸、かつて中央卸売市場のあったレ・アル(Les Halles)地区の西側。大型商業施設フォーラム・デ・アールを挟んでポンピドゥー・センターと向かい合う場所である。
ここは最初の建物を立てたのはジョン2世(ソワソン伯爵)で1232年のこと。日本では鎌倉時代で、この年、3代執権・北条泰時が「御成敗式目」を制定している。以降、建物は王侯貴族の館として使われてきており、1571年にはアンリ2世の王妃だったカトリーヌ・ド・メディシス(1519-1589)が夫を失った後に隣接地も含めて購入、その後、王妃の館に改装している。
彼女はイタリアのメディチ家からフランスのヴァロワ朝王家に嫁ぎ、王の死後は摂政として16世紀中ごろのフランスの実権を30年にわたって握った。ちょうど、キリスト教が新旧両派に分かれて激しく対立していた時代で、本人は熱心なカトリック教徒ではなかったようだが、周囲との関係からか新教徒をしばしば弾圧。歴史の教科書に残るサンバルテルミの虐殺などの事件への関与も取沙汰されていたようだ。そして彼女と三男の死でヴァロア朝は断絶、ブルボン朝の時代になる。現在美術館になっている場所は歴史が変化した時代に権力者の館だった場所というわけである。
ちなみに建物の外にひときわ高くそびえる円柱があるのだが、それが彼女の時代を偲ぶただひとつのもの。カトリーヌ・ド・メディシスは芸術のパトロンとしても知られているが、そのうちでも建築と占星術(!)には傾倒したいたそうで、円柱はそのためのものとか。ちなみに日本でも「ノストラダムスの大予言」で知られるノストラダムス(フランス語ではミシェル・ド・ノートルダム)も彼女に重用されていた一人だという。
その後、宮殿(王妃亡き後は相続、売却などでソワソン邸と呼ばれるようになっていた)は1748年に取り壊され、ちょうど穀物取引所として広い土地を求めていたパリ市が1755年に取得。その7年後、パリ市は建築家ニコラ・ラ・ル・カミュ・ドゥ・メジエールが提案した計画を承認。工事は1763年から1766年にかけて行われ、1767年から1873年まで穀物取引所として使われることになる。
ドーム型の屋根には変遷の歴史が
建物はこの時点で現在の円筒形に。直径122mの同心円プランで円形の中庭を囲む2層の同心円状のギャラリーと24本のトスカーナ式の柱で支えられた巨大なアーチ型の屋根裏部屋で構成されており、アウトラインは現在と共通している。
ただし、この時点では中央の中庭には屋根はかかっていない。そのため、穀物を置くスペースがすぐに足りなくなり、中庭に倉庫が建てられた。だが、それでは建物の性格が変わってしまうと建築家は12本の柱の上に載るドーム型の煉瓦と石で作った屋根の増築を提案するが、煉瓦、石作りでの増築には費用も時間もかかる。
そうこうしているうちに、1782年、ここで前年10月に誕生したルイ16世とマリー・アントワネット(!)の息子、ルイ・ジョゼフ王太子を祝う会が開かれ、以降、屋根を架ける案が急速に進展。
最終的には石よりもより安価に、早く作ることができる木の骨組、ガラスを使ったドームが作られることになり、1783年秋に完成。足場をかけて工事をしている時から国中の話題になり、革命的な建物と評価されたという。フランス革命前夜の、穏やかな時代のできごとである。
ただし、木造はやはり脆弱である。反りや曲がりが起こるため、定期的なメンテナンスが欠かせなかった上、1802年には修理作業中に出火。ドームは灰と化した。
当然、再生に当たっては木材は除外され、石か、鋳鉄かが議論されたが、最終的には鋳鉄が採用されることになった。しかし、1809年に始まった工事が終了した4年後、ドームはすべて鉄で覆われており、光も影もほとんど入らない状態に。1838年には一部がガラスに置き換えられたものの、かつての軽やかな姿からは似ても似つかない姿になっていたようだ。
しかし、1880年代初頭に市が建物を商品取引所(ブルス・ドゥ・コメルス)にすることを決定、1886年から開始された工事ではドームは上部が光量を増やすためにガラスが使われたものとなり、再び、建物内には日が差すことになる。現在の美術館の美しい陽光はこの時に再発見されたのである。
現代美術コレクターが満を持して歴史的建造物を改装
この時期には大判装飾絵画が流行った時期で、今もドーム下半分に描かれている巨大な絵画はこの時に描かれた。建築家アンリ・ブロンデルが友人だった画家アレクシス・ジョゼフ・マデロ―ルに依頼、彼が集めた4人の画家が描いたもので、商品取引所は「世界のさまざま地域での貿易」をテーマとした。
描かれているのはロシア、北アメリカ、西ヨーロッパとオスマン帝国、アフリカとアジア。合間には産業革命、異人種間の貿易をイメージさせる絵柄があり、また、当時ならではの公平ではない人種感なども見てとれる。
改装を終えた商品取引所は1889年、フランス革命100周年を記念した万国博覧会ではエッフェル塔と並んで見どころのひとつとなり、1986年には歴史的建造物に登録され、その後、1998年までは商品取引所として使われた。
しかし、2000年にパリ、アムステルダム、ブリュッセルの3取引所が再編、合併されてユーロネクストとなったことで建物は使われなくなった。そこからしばらくの間、建物は保存されていただけだったが、2014年、パリ市長のアンヌ・イダルゴ氏が市内に点在する古い建造物を活用する民間企業を募る政策「再創造パリ」を公布。そこから再生が動き出した。
手を挙げたのはフランスでも有数の富豪、美術コレクターとして知られるファッション業界大手コングロマリット、ケリングの創業者であるフランソワ・ピノー氏。グッチ、サンローラン、バレンシアガ、ボッテガ・べネタ、ブシュロンなどといった日本でもよく知られたブランドを率いるピノー氏はそれ以前にもパリに美術館を作ろうとしていた。パートナーは今回と同じく安藤忠雄氏だったが、自動車メーカー・ルノー社の工場跡地を利用する計画は最終的にはパリ市との折り合いが付かずに頓挫。
その後、ピノー氏はイタリア・ベネツィアの水辺にある歴史的建造物を再生して2006年、2009年に2つの美術館を作っている。これらの改修を手掛けたのも安藤忠雄氏。これらの美術館を作りつつも、ピノー氏はずっとパリに美術館をつくることを夢見ていたのだろう。
既存建物の中にコンクリートの円筒を置くという改装
1990年代にファッションデザイナー・カール・ラガーフェルドの紹介で知り合ったピノー氏と安藤氏。実は、そのまえに実現しなかった2つのプロジェクトを経て前述のイタリアの美術館で初めて一緒に仕事をした。その時、ピノー氏が要望した「最小限の修復」に対して、安藤氏が出した答えが今回のブルス・ドゥ・コメルスでも踏襲されている。
ブルス・ドゥ・コメルスの改修された元々の円筒形の建物の吹き抜けになった中庭部分に安藤氏は高さ9m、直径29mというコンクリートの巨大なシリンダーをそっと置いた。歴史的建造物には直接関与しない形で同心円状に新しい空間を挿入、過去と現在、未来を繋ぐものとしたのである。
美術館内で流されていたビデオ内で安藤氏は最初にこの案件を依頼され、建物を見た時に「時を超えた建物を作りたいと思った」と語っている。
「過去に向かっているのか、未来に向かっているのか、それとも現在か、いったい、ここはどこなのかを考える場所にしたいと思ったのです」
それをコンクリートにしたのはフランスが最初にコンクリートを作った国だからだという。安藤氏は1898年に世界最古のRC建造物がパリに建てられたことを指摘(※同美術館の公式ガイドブック、館内表示、ガイドツアーなどから抄訳)20世紀はコンクリートの世紀だったとも語っている。また、形の始祖は円と四角であるともしており、円筒形のコンクリートという形が必然であったとも。
ブルス・ドゥ・コメルスのホームページ内で安藤氏は次のようにも語っている。
「建築自体は不滅ではないものの、魂と心に永遠に刻み込まれるものがあります。パリのノートルダム大聖堂に入ると、人々は何か不滅で不変の、永遠ようなものを感じます。それは人に生きるために必要な力を与えてくれるかのようです。そして、このような建築は、あちこちに点在、触れられるようになっている必要があります。円形の空間とガラスドームから差し込む天頂の光を持つブルス・ドゥ・コメルスからは未来を感じ、コンクリートの円からは希望を呼び起こしたいと思いました」
実際の作業では当時、体調に懸念を抱えていた安藤氏の負担を減らすために在パリの建築事務所NeM、歴史的建造物の修繕を専門とする遺産建築家らが参加、チームとして改装に当たった。着工したのは2017年。その後、地上4階建の内部の1~3階に10の展示室、地下1階に多目的ホールやスタジオ、4階にカフェレストランなどを約3年かけて完成させた。
(*)世界最古のRC建造物といわれるパリのサン・ジャン・ド・モンマルトル教会を指しているものと思われるが、パリ市が掲出している表示によると1894年~1904年にかけて建てられたとなっている
コンクリートの美しさ、圧倒的な力を実感
実際の美術館は入っていくとコンクリートの円筒が目の前の壁のように見えてくる。円筒内に入ると上部からは光が降り注ぎ、天井には巨大な絵画。取材の日は円筒内で前衛的なフィルムが流されており、立ち止まってそれを眺める人の姿も。
円筒と建物の間は回廊になっており、壁際に作品が並べられている。取材時には歴史的な彫刻などを素材に現代的な解釈を加えた作品が並んでおり、過去と現在、未来を繋ぐ場という建物に呼応するかのよう。
ピノー氏は半世紀にわたって世界のアーティスト350人による1万点以上の現代アートをコレクションしてきたそうで、ジャンルは絵画、彫刻、写真、インスタレーション、音声作品その他と多岐にわたる。評価の定まった作品だけでなく、新進アーティストの作品も多く含まれているとのことだ。
また、コンクリートの円筒外側には階段、通路が作られており、それは3フロアにわたる10の展示室につながっている。最上階にあたる3階まで登ると天井画はすぐ目の前。身近でみると圧倒的な迫力があり、そこに時間帯によっては陽光が差し込む。まるである種の神殿のようでもあり、いつの時代という言葉では表現しにくい。
ただ、建物もコンクリートもまだ新し過ぎるからかもしれない、微妙な違和感を覚えるのも本音。やがて時間が両者をもう少しスムーズに繋いでくれるようになるのだろう。もうひとつ、コンクリートの円筒が太すぎるためか、円筒外側と円筒内その他さまざまな視野を遮る形にもなっており、いささか不自由でぎこちない印象も受けた。
一方でコンクリートという素材の美しさを改めて感じもした。安藤氏は20世紀はコンクリートの時代と表現したが、この先、これに代わる素材は出てくるのだろうか。
最上階のレストラン、近隣の建物もぜひ見学を
最上階の4階(フランスでは1階はゼロ階として数える)にはフランス中央部の人里離れた場所にありながら、長らくミシュランの三ツ星を取得し続けてきたミシェル・ブラス、セバスチャン・ブラス父子のレストラン「ラ・アール・オ・グラン」(翻訳すると穀物取引所!)があり、もし、訪れるつもりがあるなら美術館より、こちらの予約をお勧めしたい。美術館自体は事前予約がなくても入れるが、こちらは難しそう。
食べ物の魅力に加え、このレストランからは眺望も楽しめる。美術館内から多少外は望めはするものの、窓が小さく、率直なところ迫力に欠ける。だが、レストランの大きな窓からはパリ中心部のネルソン・マンデラ公園、ポンピドゥセンターや隣接するサントゥスタシュ教会などが一望できる。
ちなみにお値段はランチのコースで60ユーロ、ディナーで100ユーロ近くとなっており、お茶の時間に訪れるのが現実的かもしれない。
美術館自体は月曜日から日曜日の午前10時~午後7時に開館しており、火曜日は休み。毎週金曜日は午後9時まで開館しており、第一土曜日の午後5時~9時は無料で入れる。入場料は普通料金で15ユーロ。また、英語、フランス語、手話で行われる建築ツアーも行われており、こちらは一般的な大人で20ユーロ。学生、18~26歳には割引料金がある。
近くには前述のポンピドゥセンターやサントゥスタシュ教会などがあり、併せて見学する手も。
また、すぐ近くには日本の建築家ユニットSANAA(妹島和世と西沢立衛)が設計を担当した老舗百貨店サマリテーヌがある。同百貨店は3棟の建物からなっているが、2人が手掛けたのはリヴォリ通りに面したガラス張りの建物。夕暮れ時に見るときらきら光って美しい。サマリテーヌは他の建物も素晴らしいので、時間があればぜひ見学を。
ただ、このあたりは観光客などで人出も多い地域。建物に感動してもぼーっとしていると危ないので、その点は用心したい。
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