築115年、繁栄~閉鎖~修繕を経て“現役”で活躍する芝居小屋「八千代座」

名だたる多くの舞台人たちが「一度はあの舞台に立ってみたい」と憧れを抱く小さな芝居小屋がある──それが、熊本県山鹿市の「八千代座」だ。

もともと山鹿は、熊本と小倉を結ぶ豊前街道の宿場町として栄え、華やかな娯楽文化の中心地として発展してきた。しかし、近隣の「玉名」のほうが温泉街として賑わっていたため、「山鹿に芝居小屋を作ればもっとたくさんの人を呼べるはず」と、地元の旦那衆が劇場組合を結成。1株30円で出資を募り、当時の最先端技術を導入して、総工費2万957円(現在の貨幣価値で8000万円相当)をかけ八千代座を完成させた。それが明治43(1910)年のことだ。

その後、昭和に入ると娯楽の中心は舞台から映画へ、そして戦後には映画からテレビへ。時代の変遷と共に衰退の一途を辿った八千代座は長らく閉鎖状態が続いていたが、“華やかな八千代座の復活”を目指して、地元市民の間で「瓦一枚運動」がスタート。老朽化していた屋根の修復工事が完了し、再び息吹を取り戻した。

昭和63(1988)年に国指定重要文化財となった後も、平成の大修理を経て“現役芝居小屋”として活躍。和洋折衷の美しい意匠と伝統的な芝居小屋の建築様式は、見学に訪れる観光客だけでなく、著名な歌舞伎役者や音楽家をも魅了し続けている。

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八千代座の管理責任者である石橋和幸さんに、八千代座の見どころと八千代座保存への想いについて話を聞いた。

▲今も旧商家の建物が軒を連ね、豊前街道の宿場町の面影が残る山鹿市中心街、八千代座通り▲今も旧商家の建物が軒を連ね、豊前街道の宿場町の面影が残る山鹿市中心街、八千代座通り
▲今も旧商家の建物が軒を連ね、豊前街道の宿場町の面影が残る山鹿市中心街、八千代座通り▲国指定重要文化財である八千代座。昭和61(1986)年に「八千代座復興期成会」が発足された後、老人会の「瓦1枚運動」をはじめとする募金活動によって約5万枚の屋根瓦が新しく葺き替えられ、八千代座の華やぎが復活した。ちなみに、正面玄関の屋根だけは今も明治当初のままの古い瓦約1500枚が使われている
▲今も旧商家の建物が軒を連ね、豊前街道の宿場町の面影が残る山鹿市中心街、八千代座通り▲八千代座を訪れる人が最初に魅了されるのが、この天井看板。八千代座設立に貢献した旦那衆たちの店の広告が描かれている。実に鮮やかな色彩だが、これは「平成の大修理」のときに建設当時の資料を基にして復元されたものだ

「華やかな八千代座をもう一度」地元老人会の募金活動から始まった復活劇

「八千代座が明治当初のままの姿で残っているのは、山鹿が近隣の玉名市や熊本市のように経済発展しなかったから。“高度経済成長の波に取り残された”からこそ、建物を保存できたんでしょう」(以下、「」内は石橋さん談)

八千代座は、地元の人たちが資金を出し合って完成した芝居小屋だ。だからこそ、ブームが去った後も公的資金を使って取り壊すわけにはいかなかった。昭和30年代に映画館として改築されたものの、昭和40年代には閉鎖され、廃屋状態で約20年間放置されていたという。

「しかし、老人会の皆さんは、子どもの頃に見た“あの華やかな八千代座の姿”をもう一度見てみたかったんですね。地元の郷土史家の方を中心にして八千代座保存の声が高まり、それがどんどん広がって『瓦一枚運動』の募金活動がスタートしました。さらに、その活動がメディアの注目を集めるようになると、今度は青年会議所がまちづくりの一環として、講演会やイベントで八千代座を積極的に活用するようになったんです。

その後、建物自体は山鹿市へ寄贈され、国の重要文化財の指定を受けました。実は、重文指定を受けた当時の八千代座はまだ築78年。文化財の中ではかなり新しい建物ですが、江戸時代の伝統的な芝居小屋の様式をそのまま残している点が評価されたようです。築100年未満の建物が文化財の認定を受けたのは八千代座が初めてのことで、以来、文化財は“保存”するだけでなく“積極的に活用する”という機運が全国的に高まっていったと聞いています」

▲八千代座の管理責任者を務める石橋和幸さんは山鹿市生まれ・山鹿市育ち。東京で建築設計の仕事をしていたが、リタイアして故郷に戻った。「子どもの頃、八千代座の近くに住んでいましたが、私が小学生の頃は既に閉鎖されていてここに芝居小屋があったことすら知りませんでした。八千代座が全国的に注目を集める様になったのは、平成の大修理が完了した平成13(2001)年頃からだったと記憶しています」▲八千代座の管理責任者を務める石橋和幸さんは山鹿市生まれ・山鹿市育ち。東京で建築設計の仕事をしていたが、リタイアして故郷に戻った。「子どもの頃、八千代座の近くに住んでいましたが、私が小学生の頃は既に閉鎖されていてここに芝居小屋があったことすら知りませんでした。八千代座が全国的に注目を集める様になったのは、平成の大修理が完了した平成13(2001)年頃からだったと記憶しています」
▲八千代座の管理責任者を務める石橋和幸さんは山鹿市生まれ・山鹿市育ち。東京で建築設計の仕事をしていたが、リタイアして故郷に戻った。「子どもの頃、八千代座の近くに住んでいましたが、私が小学生の頃は既に閉鎖されていてここに芝居小屋があったことすら知りませんでした。八千代座が全国的に注目を集める様になったのは、平成の大修理が完了した平成13(2001)年頃からだったと記憶しています」▲こちらは木戸口のてけつ(チケット)売り場。大正期の法改正によって「喫煙室の設置」が義務づけられ、大正12(1923)年には2階の客席に喫煙室が増築された。それまでは観客は皆客席で煙管(キセル)を吸っていたため、今も桝席にはたくさんの煙管の焼け跡が残っている
▲八千代座の管理責任者を務める石橋和幸さんは山鹿市生まれ・山鹿市育ち。東京で建築設計の仕事をしていたが、リタイアして故郷に戻った。「子どもの頃、八千代座の近くに住んでいましたが、私が小学生の頃は既に閉鎖されていてここに芝居小屋があったことすら知りませんでした。八千代座が全国的に注目を集める様になったのは、平成の大修理が完了した平成13(2001)年頃からだったと記憶しています」▲天井から下がる真鍮製の大型シャンデリアは、第二次世界大戦中に金属類回収令によって国に没収されてしまったが、こちらも当時の写真から大きさ等を算出し、リアルな形で復元された

玉三郎氏の「なんだか面白そうね」がきっかけで人気役者が続々と八千代座の舞台に

八千代座は木造2階建てで座席数は650席。1階は桝席と上手・下手の桟敷席、2階は貴賓席とされる上手桟敷と下手桟敷、そして、最も安価な向桟敷がある。国の重要文化財ではあるが、「建物保存」を遵守できれば使用用途に規制はない。

「八千代座の知名度が全国に広まったのは、何と言っても坂東玉三郎さんの影響が大きいですね。きっかけは、山鹿出身のカメラマンの方が八千代座の写真を撮り続けていて、それがたまたま玉三郎さんの目に留まったこと。

玉三郎さんが“なんだか面白そうね”とおっしゃって、平成2(1990)年に初めて歌舞伎公演を行い、以来ほぼ毎年この八千代座の舞台に立ち続けて下さっています。

また、市川團十郎さんは、玉三郎さんとの共通の知り合いからのご縁で、海老蔵時代から個人的に公演を行って下さっています。もちろん、玉三郎さんや團十郎さんの公演には、全国からファンの方が訪れるので毎回満席状態です」

▲下手袖の様子。音響や照明には電動の機材を使っているが、その他の舞台装置はすべて昔ながらの“手動”で行う。客席に設置された空調の吹出し口も、袖でロープを引きながら広告看板を開閉して調整しているというから驚きだ。「実は、平成の大修理の前はエアコンもトイレも無い状態。夏の館内は灼熱地獄だったので、慌ててエアコンを設置しましたが、それだけで約300万円の出費となり赤字状態だったようです(笑)」と石橋さん▲下手袖の様子。音響や照明には電動の機材を使っているが、その他の舞台装置はすべて昔ながらの“手動”で行う。客席に設置された空調の吹出し口も、袖でロープを引きながら広告看板を開閉して調整しているというから驚きだ。「実は、平成の大修理の前はエアコンもトイレも無い状態。夏の館内は灼熱地獄だったので、慌ててエアコンを設置しましたが、それだけで約300万円の出費となり赤字状態だったようです(笑)」と石橋さん
▲下手袖の様子。音響や照明には電動の機材を使っているが、その他の舞台装置はすべて昔ながらの“手動”で行う。客席に設置された空調の吹出し口も、袖でロープを引きながら広告看板を開閉して調整しているというから驚きだ。「実は、平成の大修理の前はエアコンもトイレも無い状態。夏の館内は灼熱地獄だったので、慌ててエアコンを設置しましたが、それだけで約300万円の出費となり赤字状態だったようです(笑)」と石橋さん▲廻り舞台は江戸時代の芝居小屋の古典的な様式。八千代座の廻り舞台には当時先進だったドイツ製のレールが使われている。よく「檜舞台」と言われるが、八千代座の舞台は檜よりもより強度を高めた「松舞台」。昔は舞台に釘を打ち込んで大道具を設置していたものの、重要文化財となった今は釘を打ち付けることはできない

演出はすべて手作業、木造の芝居小屋だからこそ「音がいい」との評判も

平成28(2016)年4月の熊本地震では、山鹿市も最大震度5強の揺れに襲われたものの、八千代座に大きな被害はなかった。

ちなみに、山鹿市内にはチブサン古墳(6世紀)をはじめとする多くの遺跡が集積し、地盤の強い場所として知られているのだが、重文指定を受けたからには、建物の耐震補強を含めて「適切な管理」が義務付けられる。

「ドイツ製の廻り舞台も、花道のスッポンも、いまだにすべて現役ですから、“文化財を守りながら使う”という義務を果たすために様々な工夫を行っています。

例えば、文化財である舞台には釘を打つことができません。しかし、主催者の演出をすべて“できません”と拒否してしまったら、上演できる演目が限られてしまいます。そのため、“釘は打てませんが代わりにこんな方法はどうですか?”と、引き出しの数をたくさん用意しておくことが、我々管理者の腕の見せ所となるわけです。

私が印象的だったのは、玉三郎さんの舞台で暗転シーンがあったときのこと。古い建物なので、雨戸を閉めてもどうしてもすき間から光が漏れてしまう……そこで、雨戸のすき間に木の板を挟み込んだり、障子の間に段ボールを立てたり、小さな光をすべて黒い布で覆ったりして、なんとか完璧な暗転を作り出すことができました。大変手間のかかる作業ですが、これも八千代座に長く活躍してもらうための大切な仕事です」

こうした管理側のこまやかな対応に加え、舞台人の間では八千代座特有の「芝居小屋の空気感」も好評だという。

「芝居で大切なのは、いかに演者側の気持ちをお客さんが感じ取れるか?ということ。八千代座のこの小屋のサイズだと“客に空気が伝わりやすい”とよく言われます。きっとコンクリートの建物ではないので、お客さんたちも気分的にリラックスしやすいんでしょうね。

ある女優さんが一人芝居をされたときに、最初の登場シーンでいきなり客席に笑いが起きたことがあったのですが、“他のホールでは無かった反応だから、演じていて楽しかった”と言われました。また、ある音楽家の方は、“八千代座は変な反響がないから音がいい”とおっしゃって、わざわざここまで来て録音をしてCDを出されたこともあります。もちろん機材や舞台装置は都会の大ホールには劣りますが、八千代座ならではの魅力があるんです」

▲こちらは花道にある「スッポン」。奈落から花道へ役者を引き上げるため昇降装置で、なんと神輿を担ぐようにして人力で持ち上げられる。このスッポンを使うために、わざわざ演出内容を変更することもあるそうだ
▲こちらは花道にある「スッポン」。奈落から花道へ役者を引き上げるため昇降装置で、なんと神輿を担ぐようにして人力で持ち上げられる。このスッポンを使うために、わざわざ演出内容を変更することもあるそうだ
▲こちらは花道にある「スッポン」。奈落から花道へ役者を引き上げるため昇降装置で、なんと神輿を担ぐようにして人力で持ち上げられる。このスッポンを使うために、わざわざ演出内容を変更することもあるそうだ
▲こちらは廻り舞台の奈落。黒い木製の筋交いは平成の大修理の際に補強されたもので、柱の耐震補強も実施された
▲こちらは花道にある「スッポン」。奈落から花道へ役者を引き上げるため昇降装置で、なんと神輿を担ぐようにして人力で持ち上げられる。このスッポンを使うために、わざわざ演出内容を変更することもあるそうだ
▲場面転換の際には、写真のように取っ手の部分を男性数人で抱えながら、ゆっくりと舞台を廻していくという。かなりの重労働だ

八千代座は山鹿市の「市民会館」としての役割も担っている

著名な舞台人からも愛されている八千代座だが、普段は山鹿市の「市民会館」としての役割を担っており、地元中学校の吹奏楽発表会や市民のカラオケ大会等に利用されている。国の重要文化財をそんなにカジュアルに使えるとは少々驚きだ。

「文化財の修理工事に関しては国からの補助金が出ますが、普段の維持には国からはお金は一切出ません。文化庁からも“地域文化の維持と振興には文化観光事業が必要になりますので、文化財を活かしながら、自分たちで維持していって下さいね”と言われています。

だからこそ、保存に努めるだけではなく、いかにお客さんを呼べる建物にするか?そして、いかに文化資源として収益を挙げられる施設にするか?が大切です。人気役者さんたちにも使って頂いていますが、それだけではいけない。特別な存在ではなく、普段から市民が気軽に使える施設として活用していくことを目指しています」

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毎年1月には、芝居・音楽・ 照明・大道具まで、すべてを地元の小学六年生だけでつくり上げる舞台「八千代座公演」が上演され、山鹿の新春伝統行事として定着している。こうして子どもの頃から八千代座の舞台に立ち、裏方を務めることも「文化財の継承」につながっているのだ。

地元の旦那衆によって設立され、地元の老人会によって復活し、地元の子どもたちによって受け継がれていく八千代座の文化──現役芝居小屋として、永く華やかに活躍し続ける姿を今後も楽しみにしたい。

■取材協力/国指定重要文化財 八千代座
https://yamaga.site/?page_id=2

▲裏庭にある貯水池。雨どいを伝ってここに雨水が貯められ、楽屋で使う仕組みになっていた▲裏庭にある貯水池。雨どいを伝ってここに雨水が貯められ、楽屋で使う仕組みになっていた
▲裏庭にある貯水池。雨どいを伝ってここに雨水が貯められ、楽屋で使う仕組みになっていた▲2階の向桟敷の様子。舞台を見やすくする目的で、大屋根には西洋式のトラス工法が用いられているため、舞台側には大きな柱が見当たらない。2階席を支える柱には鉄の鋼管が使われている

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