江戸時代の火災は記録にあるだけで800以上
商業が発展し、人々が多くに集まって暮らすようになった江戸時代には、記録に残っている火災だけでも800以上があるという。
木造家屋がひしめきあって建つ江戸の町では、一つの火事が拡がりやすく、多くの家屋を焼いた。また、まだ消防車のない時代、もっぱら燃え移りを最小限にするための「破壊消防」に頼るしかなかった。風下にある家を壊し、火の手を止めるというものだった。
江戸で町民の憧れの職業といえば、今でいう消防士の「火消」だろう。「火事と喧嘩は江戸の華」といわれたように、炎に立ち向かい、屋根の上で燃え移りを防ぐための作業を行う勇ましい姿は、粋で鯔背を好む江戸っ子の憧れだった。
武家による消防組織ももちろんあった。
江戸城と武家地の消防を担当する大名火消や、定火消などだ。
大名火消は、寛永十八(1641)年に京橋桶町(現・東京都中央区八重洲)で発生した「桶町火事」がきっかけで組織された。町7つと武家屋敷123軒が燃えた大火事で、死者は400人以上。陣頭指揮をとった大目付の加賀爪忠澄も、煙に巻かれて殉職している。大名火消しが設けられたのは、この二年後の寛永二十(1643)年。六万石以下の大名16家を4組に分け、武家地、町地に関わらず、出火すれば火元に近い大名が出動して消火作業に当たった。
定火消は明暦四(1658)年、明暦の大火(振袖火事)の翌年に設置されている。メンバーは、リーダーに4000万石以上の旗本が選ばれ、そのほかは与力と同心で構成された。一番部屋、二番部屋、三番部屋に別れて百名ずつ住み込んでいて、夜は一本の丸太を枕に約10人が眠る。火の見櫓で寝ずの番が見張り、火事が起こると丸太を叩いてみなを起こした。火事のないときは博打で時間をつぶしていたので、部屋は博打場のようだったという。
町火消誕生の立役者は南町奉行の大岡忠相
町人による火消組織である町火消が誕生したのは、享保三(1718)年のこと。
それまでも防火対策はされていたが、夜回りをしたり、町人が詰める「自身番」と呼ばれる番所を設けたりする程度で、組織的に大掛かりな活動ができていたとは言い難かった。
町火消誕生の立役者は当時の南町奉行、大岡忠相だ。大岡忠相は、名主らから防火方法を聴き取り、それをまとめて「町火消設置令」を公布し、身体能力の高いとび職たちを火消しに選んだ。
火消し組合は、地域ごとに一つずつ。
各地域に設置された番屋には櫓が組まれ、その上部の火の見櫓から、番人が24時間態勢で警戒していた。火の見櫓には半鐘がかけられ、火事が起こると鳴らして火消しを収集する。さらに風上の2町、さらに左右それぞれ2町の6町から火消しが30名ずつ出動し、消火作業を行った。
その二年後の享保五(1720)年には、現代人にもおなじみの、いろは48組(当初は47組)が編成された。いろはの名前が付けられた組なのだが、「め組」「は組」などのひらがなの中に「百組」「千組」「万組」「本組」が混じっている。これは一部のひらがなを充てず、「へ」が「百」に、「ら」が「千」に、「ひ」が「万」に、「ん」が「本」に置き換えられたからだ。「ひ」が「火」に通じるから縁起が悪いとされたのと、「ん」は発音しにくいから使われなかったのは想像がつくだろうが、「へ」と「ら」が何故使われなかったのだろうか。
どうやら「へ」は「屁」と音が同じだから避けられたらしい。また、「ら」は男性器を意味する「まら」を連想するから置き換えたという説もあるが、単純に巻き舌でしゃべる江戸っ子にとって「ら組」は発音しづらかったという説もある。
火消しといえば、棒の先に組を表すひらがな一文字が書かれた「まとい」も思い出す。まといは火消しに使う道具ではなく、ある目印として使われた。火事の際、まとい持ちは「ここから先は延焼させない」と決めた場所にまといを立て、火の手が迫っても踏みとどまろうとしたのである。
火消が使う道具にも工夫がされた。屋根に乗るためのはしごは燃えにくい竹で作られており、はしご持ちが一人でかつぐ。そしてその他の火消は鳶口で家を壊すのに専念した。
町火消の給料は町奉行所から支払われたが、有力な商店の旦那衆が、店の名前を染めた印半纏を支給したりもした。町火消は店の雑用もつとめ、困った客がきたときは追っ払う用心棒の役割をすることもあった。また、町内のもめごとを仲裁するのも、もっぱら町火消の役目だった。
幕府直轄の火消し組織は定火消なので、もし大名火消や町火消が火事を発見しても、規律が守られ、定火消より先に半鐘を鳴らせなかった。定火消が遅れをとるのは、幕府の威厳が徹底されていないからだと見なされるからだ。そのため消火活動は遅れることもあったようだ。
江戸っ子たちの防火意識
火事の多い江戸では、町人たちの防火意識も高い。
火災予防の知識も共有されており、火の始末には常に気を配っていた。火災が発生すると消火活動に協力するだけでなく、町内で協力しあって住人を救出したり、貴重品を持ち出したりもしていたらしい。
また、火災が鎮まったあと、被災者を救済する「火事見舞い」の風習もあった。近隣の住民が物資や金銭を支援するもので、「火事見舞い」が当たり前に行われていたからこそ、江戸の町人たちは粋で鯔背であれたともいえるだろう。助け合いの精神は、町を活気づけるのだ。
江戸でおきた明暦の大火の際、屋根瓦が落ちてきて圧死する人が多かったこともあり、長らく土蔵以外の瓦葺きが禁止されていた。
それが解禁されたのは徳川吉宗の時代。近江国で、落下しづらい桟瓦が作られるようになったのがきっかけだ。それまでは瓦の代わりに牡蛎殻で屋根を葺き、防火性を高めることが推奨されていたらしい。
江戸時代の大坂の防火対策
江戸時代初頭の大坂では、徳川と反目する豊臣の残党による付け火が相次いだという。
事態が落ち着いたあとも、木造住宅がひしめいていた大坂では火事が多く、大名がひきいた「大名火消」も存在していた。
大坂町奉行も、毎年くわえ煙管の禁止や大型花火の打ち上げ規制などを定めた「火之元念入れ申す可く候」の御触れを出していた。この御触れには、火の見櫓や半鐘の設置も定められていたが、専門の火消しを設置するのではなく、消火活動は町人の義務とされ、自分の受け持つ地域で火事がおきれば、それぞれが手桶を持って火元に集まった。御触れには用水桶の設置について記されているほか、井戸がどこにあるかも記載されていたようだから、破壊消防だけでなく、水による消火活動も行われていた。
鎮火の後は救小屋が設置され、火事で住む家を失くした人らが一時的にそこで暮らした。町人たちから金銭や物資を募り、運営にあてることが多かったようだ。
また、屋根を板葺きから瓦葺きに替えるなど家屋の防火対策は、江戸より進んでいたらしい。
漆喰を塗りこめて延焼しづらくしたほか、隣家との間に防火用の袖壁を設置したりもしている。袖壁は柱の外側に突き出すように設けられた小壁のことで、目隠しにもなる。
大坂の防火対策は誰かが先陣を切って活躍するのではなく、みんなで助け合い、笑いを交えて円滑にものごとを進めようとする商人の町らしい在り方とも思える。防災にも地域差があるのは、興味深いことだ。
■参考資料
遊子館『大江戸復元図鑑〈武士編〉』笹間良彦著 2004年5月発行
遊子館『大江戸復元図鑑〈庶民編〉』笹間良彦著 2003年11月発行
草思社『新装版・江戸の町(下)』内藤昌著 2010年10月発行
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