倉敷市内主要4地区のひとつで、市内西部にあたる「玉島地区」
倉敷市といえば、倉敷美観地区をイメージすることが多いだろう。ほかには水島臨海工業地帯や瀬戸大橋、国産ジーンズ発祥地などとしても知られている。しかしこれらとは違う個性を持った地区が、倉敷市内にある。それが倉敷市西部にあたる玉島地区だ。
玉島地区の中心市街地はかつては大勢の人でにぎわっていたが、1970年代半ばごろよりマイカーの普及や郊外への大型店進出などの影響で客足が減少。商店数も激減してしまう。しかし一方で、昭和の雰囲気を色濃く残す景観が多く現存。そのため映画などのロケ地にも選ばれることがあり、なかでも2005年の映画『ALWAYS 三丁目の夕日』(山崎貴監督)のロケ地のひとつになったことが知られている。
玉島中心市街地では昭和感あふれる景観を逆手にとり、商店街を中心とした「昭和レトロ」を前面に押し出した街づくりを展開し、注目されている。
現在の倉敷市内は、複数のエリアに分かれる。そのうち主要な4地区が、倉敷・水島・児島・玉島である。倉敷・水島地区の高梁川を挟んで西側一帯が、玉島地区にあたる。玉島地区の中北部にはJR山陽本線の駅で新幹線停車駅でもある新倉敷駅があり、国道2号線バイパスが東西を通過する。
そして新倉敷駅から南へ2kmほどの場所にあるのが、玉島の中心市街地だ。玉島中心市街地には「通町」「港町」「栄町」「銀座」「清心町」といった5つの商店街と、江戸時代から大正時代の歴史ある建造物が多く残る「新町」「矢出町」「仲買町」など3エリアからなる町並み保存地区がある。これらの商店街や地区が、玉島の総鎮守である羽黒神社のある丘・羽黒山を中心に、放射状に広がっている。
「西の浪速」と呼ばれた歴史ある港町・玉島は岡山県第2の経済都市だった
もともと玉島中心部を含む玉島地区の平野部は海であり、乙島(おとしま)や柏島(かしわじま)、阿弥陀島(あみだじま)などの島々が浮かんでいた。江戸時代初期の寛永19年(1642年)に水谷 勝隆(みずのや かつたか)が備中松山城主となると、水谷氏によって現在の玉島平野部となっている海が、次第に干拓されていく。また遅れて、備前岡山城主・池田氏も現在の玉島平野部での干拓を進めている。長尾外新田・玉島新田・阿賀崎新田・七島新田など、現在の玉島地区の平野部が1600年代後半までに開発された。
干拓が進むと、現在の玉島中心市街地にあたる場所は「玉島湊」として港と港町が形成され、その範囲も拡大していく。玉島湊は、内陸にあった備中松山の外港として機能した。干拓とともに造成された「高瀬通し」と呼ばれる運河で高梁川と連絡。高瀬舟により、玉島湊〜高瀬通し〜高梁川〜備中松山城下の水運によるルートが生まれたのである。
江戸時代、玉島湊には北前船が寄港し町は大いに栄え、備中国内で最大の商都となる。西国有数の経済都市として繁栄し「西の浪速」「小浪速」などと称されるほどであった。明治時代になり現在の岡山県が生まれると、玉島は岡山(現・岡山市中心部)に次ぐ県内第二の経済中枢都市となる。玉島には、主要金融機関や官公庁の出先機関が多数置かれたという。
その後、玉島は周辺地域との合併により玉島市になった。しかし1967年(昭和42年)、玉島市・旧 倉敷市・児島市の3市が対等合併し、現在の倉敷市が新設される。玉島市は倉敷市玉島地区となり、現在に至っている。
県内第2の経済都市として繁栄した玉島であったが、観光都市・工業都市として勢いを増した旧 倉敷市の繁栄や、新設合併により現 倉敷市の一部地域となったことで、繁栄に陰りが見え始める。そして1970年代半ば以降、マイカーの普及や郊外への大型店進出などにより、玉島中心部の店舗は減少していった。
現在も玉島中心市街地には、5つの商店街と3つの町並み保存地区が残る。倉敷市の一地域である玉島に広い市街が存在するのは、かつて経済都市として繁栄した玉島湊の名残だ。
地元の人も気づかなかった、手つかずの「昭和」が残る景観
現在、玉島地区中心部で行われている昭和レトロを売りにした活動。昭和の雰囲気が残された町並みを生かす街づくりは、どのように進められたのか。「にぎわう昭和のまち玉島実行委員会」委員長で、通町商店街にある菓子店・玉井堂 代表の別所 美治(べっしょ よしはる)さんに話を聞いた。
別所さんは「本格的に昭和レトロな雰囲気を売り出そうとし始めたのは、2014年からです。地元の産業観光コーディネーターからの提案で、玉島に多く残る昭和感あふれる景観を生かし『思ひ出の商店街』という企画が発案されました。そこで昭和レトロの街づくりで知られている大分県の豊後高田市の街づくりに関わった金谷 俊樹(かなや としき)さんを、玉島に招聘して講演をしてもらったのです」と話す。
「金谷さんには講演だけでなく、実際に玉島の街を散策してもらいました。すると、すごく驚かれたんです。『豊後高田はお金をかけて昭和の街並みをつくり上げたけど、玉島はつくらなくても昭和の雰囲気が手つかずのまま残っていてすごい!』と。これがきっかけで、2014年の夏ごろより昭和レトロな雰囲気を生かした街づくりが進んでいきました」
「正直なところ、地元の人は最初は昭和の雰囲気で街おこしができるのか不安がありました。地元の人にとって、玉島の街並みは『古くさい』『汚らしい』『衰退の象徴的なもの』といったネガティブな印象だったからです。外部の、しかも昭和の街並みで有名な街から来た人に驚かれたことがきっかけで、地元の人たちにも昭和の雰囲気が残っていることのすごさが浸透していきました」と別所さんは振り返る。
そして翌2015年2月に昭和レトロな玉島の街めぐりの企画「にぎわう昭和のまち玉島 思ひ出の商店街」が開催された。当企画は好評を博し、その後も「にぎわう昭和のまち玉島実行委員会」が組織され、現在まで活動が続けられていく。また同時進行で企画された朝市「備中玉島みなと朝市」の開催や、「玉島家と行く 昭和レトロな?玉島商店街 周遊マップ」の制作などが現在も行われている。
「昭和のまち」の活動の原点は「産業観光」
「昭和レトロな街づくりへの流れは、玉島の産業観光が原点になっています」と語るのは、昭和感を生かした街づくりを提案した、産業観光コーディーネーターでコピーライターの赤澤 雅弘(あかざわ まさひろ)さんだ。
「全国的に有名な美観地区のある倉敷地区、水島臨海工業地帯の主要部分を占める水島地区、 瀬戸大橋とジーンズの聖地として知られる児島地区に比べ、玉島は地味な印象でした。円通寺や 沙美海岸といった観光スポットもありますが、ほかの 3 地区に比べるとインパクトが弱かった。かつて玉島は備中屈指の交易拠点であり人・モノ・文化が交流する商都として繁栄していた事実が あるだけに、悔しい思いを抱いている人も多かったですね」と赤澤さん。
そうした状況を打破するためにも玉島で何かできないかと思い、2002年から、時間をつくってはカメラを片手に玉島の街を歩きはじめたという。やがて、そこで営まれる多様な伝統産業に気づくと同時に、「商店街に残るレトロなアーケードや看板建築などを目にするうち、“昭和”というキーワ ードが思い浮かんできた」と振り返る。
そんなとき、愛知県で取り組みが始まっていた産業観光の話を聞いた赤澤さんは「これだ!」と閃いたそう。赤澤さんは「かつて玉島は商都として賑わいましたが、経済が発展するということは商工業などの産業が盛んになるということです。そのため、玉島には現在も活躍している伝統産業が多くありました。なかには江戸時代から続いていたり、創業100年以上の老舗企業が何社もある。 いっぽうで玉島南部の臨海エリアには、最新の工場や企業が立地する玉島ハーバーアイランドも。新旧の産業が入り交じりながら、現在も多様な経済活動が営まれている街なんです」と話す。
「そうした企業やお店をめぐり、ものづくりの現場を見学しながら話を聞いたりワークショップを体験したりする産業観光は、玉島にピッタリのまちづくり型観光だと思いました」と赤澤さん。玉島での産業観光は2005年よりスタートした。初回のツアーには30人ほどが参加し、好評だったとのこと。 その後も順調に玉島版・産業観光ツアーの人気は高まり、現在では募集開始当日に予約がいっぱいになるほどだという。赤澤さんは「参加者は岡山県内や広島県東部など、近隣地域が中心。街のことを知りたいという好奇心がある人が、実は多いんだなと気付きました」と振り返る。
こうして「まずツアー形式で地元企業をめぐる産業観光を立ち上げたうえで、産業観光の新たなコンテンツとして提案したのが、昭和の風情が残る玉島の街並みを生かした企画です。2006年には “昭和の街づくり”で知られる豊後高田市へ最初の視察に行き、街づくりに尽力された金谷 俊 樹・小宮 裕宣(こみや ひろのぶ)さんに話をうかがいました。2009年には、金谷さんを初めて玉島へ招聘。講演会を開催して、豊後高田の事例を学びました」と赤澤さん。
さらに赤澤さんは「玉島の商店街には懐かしい昭和の雰囲気が残りますが、その商店街には現在も店を続けている店主さんがいます。確かに店舗数は、昔よりかなり減少しました。それでも商店街が消滅せずに、昭和の雰囲気を残す商店街として現存しているのは、現在も商売をがんばっているお店があるからです。懐かしい雰囲気を味わいながら街を散策すると同時に、店主さんの話を聞いたり、商品を見たり買ったりすることで、玉島の商店街ならではの魅力にふれてもらえれば、人の交流も拡大するのではないかと考えました。それが玉島版・産業観光の一環として“昭和”というテーマを提案した、大きな理由です」と語る。
「産業観光も、商店街の昭和レトロの街づくりも、新たにつくるのではなく、今あるものへの見方を変えることがポイント。今あるものに、発想の転換によって新たな価値を見いだすことが重要なんです」と赤澤さん。
毎月第2日曜に開催する「備中玉島みなと朝市」
昭和の街並みを生かした活動のひとつとして、玉島商店街で毎月第2日曜日の朝9時から12時に開催されるイベントが「備中玉島みなと朝市」だ。イベントが始まったのは、2014年12月。"昭和のまち"としての活動が始まった時期だ。現在では玉島の名物イベントとして定着し、玉島地区外からも多くの人が集まる。会場となるのは、玉島中心部の5つの商店街である。
別所さんによると「もともとは、商店街や玉島地区が潤えばいいというところからスタートしました。商店街の店舗が店先に露店を出し、そこに外部からの出店者を加えて行うという形です。しかし最初は想定より集客に苦戦し、お客さんは100〜200人でした」とのこと。
「そこで朝市をするだけでなく、毎月テーマを決めて何か企画を実施するようにしました。たとえば『パン祭』『朝グルメ大集合』『フルーツフェア』『温かいものフェア』『玉島の歴史を知ろう』などです。すると2017〜2018年ごろから、お客さんが増えてきました。朝市を開始してから3〜4年経ったころですね」と別所さんは振り返る。
また別所さんは、集客の増加について「口コミで広がったのに加え、SNSでの拡散もありました。またチラシのデザインを大きく変え、ポップなものにしたんです。これも効果があったのではないでしょうか」と話す。
集客が増えたことにより、外部からの出店希望者も増加したそうだ。現在では外部から約60店が出店。これに加え、初期の頃と同様に地元の商店街の店舗が軒先に露店を出している。現在では、最大で約3,000人のお客さんが朝市にやって来るという。
「店主さんも地元の住民の方々も、お客さんも、みなさん口をそろえて『楽しい』と話します。大変うれしいですね」と別所さん。
「玉島商店街周遊マップ」の作成で来訪者の回遊を促す
「にぎわう昭和のまち玉島実行委員会」が制作するものに、玉島中心部の散策のためのマップ「玉島家と行く 昭和レトロな? 玉島商店街 周遊マップ」がある。産業観光のコンテンツとして企画されたときからマップ自体は制作されていたが、何度か内容を一新しているという。2024年現在のマップは、2023年制作のものだ。
別所さんによると「マップの工夫点は、2018年制作版より『玉島家』というキャラクターを創作し、掲載したことです。ポップでありながら、昭和時代にあったようなキャラクターを思わせるもので、玉島の昭和レトロな雰囲気にマッチしています。またマップのデザインも、どこか昭和時代にあったような雰囲気のデザインにしました」とのこと。
マップは、玉島中心部にある飲食店や小売店などに置いてあるという。「実は玉島にはメディアやSNS等に紹介されたり、口コミで広がったりして人気のお店が点在しています。お店を目当てで来られたお客さんがマップを手に取り、店を出たあとに玉島の街を散策し、気になった店に入ってみるということが多いんです」と別所さん。周遊マップにより、来訪者の玉島商店街周辺の回遊が実現しているのだ。
実際に取材時、数組の来訪者がマップを手に取り、玉島の街中を散策する様子が見られた。
第一の目的は地元の人が「楽しむこと」と「交流すること」
別所さんは取り組みに対する思いを、次のように話す。「私たちの活動は、玉島を観光地化することが第一目標ではありません。地元に住む人や地元で商いをする人が楽しく過ごせる街、住みやすい街を目指しています。もともと玉島は港町。北前船で玉島に来た人も、玉島で地元の人との交流を楽しんでいました。船が車などに変わっただけで、現代でもそれは同じだと思います」
「地元の人と地域外から来た人が、交流していくことが大切。あくまで交流するためのコミュニティーの場、楽しむための場をつくりたいのです。地域外の人が玉島に来て、地元の人と話をして交流をし、楽しむことが私たちの目指すところですね。そのために、まずは地元の人が楽しめるようにすること。地元の人が楽しんでいないと、地域外からも人は来ませんからね」
「ありがたいことに、私たちが何か新しいことを始めようとするとき、地元の店主・住民とも反対されることがほぼありません。みなさん、非常に協力的なんです。これは私たちが地道に活動してきたことが、浸透していったからではないでしょうか」と別所さんは話す。
「今後の課題は、朝市の規模の維持です。現在より大きくなってしまうと、駐車場不足の懸念があります。ですからうまく現状とのバランスを取りながら、新たな仕掛けを取り入れつつ朝市を継続していくことが課題ですね。もうひとつの課題は、いまの活動をずっと継続していくことです」と別所さんは、今後について語った。
なお昭和の雰囲気を生かした街づくりや産業観光のほかにも、玉島ではさまざまな取り組みが行われている。たとえば、玉島は古くからお茶の文化が根付いており、表千家・裏千家・藪内といった各流派の茶道家元が多数ある。また和菓子店も多い。現在でも玉島では、茶会がほぼ毎月開催されており「玉島お茶会カレンダー」が制作されている。
また別所さんは「玉島映画製作委員会」の委員長も務めており、玉島発信の映画製作も企画している。映画のロケ地には何度もなった玉島だが、ロケ地のひとつではなく、玉島が主役の映画だという。クラウドファンディングも実施され、目標額を達成。着々と製作が進められている。
玉島は古くから港町として、多くの人を受け入れてきた。朝市や周遊マップによる回遊、産業観光などは、玉島という地域に来訪者を受け入れる土壌があるからこそ成立しているのかもしれない。
取材協力:
にぎわう昭和のまち玉島実行委員会
https://tama-shima.jp/
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