出島は明治後期には島ではなくなっていた

グラバー園、原爆資料館、軍艦島など長崎市にはいくつもの観光名所があるが、そのうちでも有数の認知度を誇るのが出島である。
出島は江戸時代の1641(寛永18)年から1859(安政6)年までの218年間、いわゆる「鎖国」をしていた日本で唯一の西洋への開港地として機能しており、日本史の教科書には扇形をした出島の図が掲載されている。

だが、出島を訪れた人はすぐに気づくはずだ。出島といわれているものの、現在の出島は島ではない。
出島への入口となる出島表門橋から右手を見ると出島海岸通り(国道499号)が通っており、路面電車が走っている。橋の下は海ではなく、観光名所のひとつである眼鏡橋の下を流れているのと同じ中島川。左手、敷地裏手も同様で、今の出島は長崎のまちと陸続きになっているのである。

新地中華街方面からアプローチすると出島の裏手はこんな感じ。陸続きである新地中華街方面からアプローチすると出島の裏手はこんな感じ。陸続きである
新地中華街方面からアプローチすると出島の裏手はこんな感じ。陸続きである眼鏡橋の下を流れた中島川が出島の前も流れている

出島周辺で埋立てが始まったのは1859(安政6)年にオランダ商館が閉鎖されて領事館になり、長崎、神奈川、函館の3港が開港してすぐの1861(文久元)年以降。波止(防波堤)の築造、遊歩道としての利用、中島川の流路変更、港湾改良工事などの影響で1904(明治37)年には地名として出島という呼称は残るものの、エリアは島ではなくなった。

その後の1922(大正11)年に出島は国の史跡になる。2022年で史跡指定から100年であると考えると、指定自体は非常に早い時期に行われたことになる。

だが、実際に出島の復元整備事業が始まるのは戦後、1951(昭和26)年のこと。それから70余年という長い時間をかけて出島は相変わらず島ではないものの、往時の姿を彷彿とさせる姿にまで復元されてきた。

普通に建物を復元するだけなら、そこまで時間がかかるようには思えないが、出島の場合には土地の買収から始める必要があった。幕府が指定した開港地で長崎は天領(江戸幕府の直轄地)。当然、江戸幕府の土地と考えてしまいがちだが、出島は実は私有地だった。まずはそのあたりから歴史を遡り、出島の過去、現在、そしてこれからを見ていこう。

出島の大家さんは長崎の有力商人。賃料は年額1億円!

出島はキリスト教の布教を禁止しようと長崎市内にいたポルトガル人を収容するために江戸幕府が岬の突端に作らせた人工の島。現在は移転してしまったが、以前は県庁(江戸時代は奉行所)のあった高台から見下ろす場所にあり、監視という目的がよく分かる位置関係である。

島を作ったのは幕府に命令された長崎の有力町人25人。彼らが出資し、埋立てて島を築造、建物を建てたのである。ところが、築造されて2年後の1638年にポルトガル人はすべて国外追放となり、出島は空家になってしまう。多額の資金を投じて作った島を商人たちがそのままにしておくはずはない。次の入居者を探して働きかけたのだろう、1641年には平戸の商館にいたオランダ人が出島に引越してくることになった。

賃料は年間銀55貫目。長崎游学9「出島ヒストリア 鎖国の窓を開く 小さな島の大きな世界」(長崎文献社編)は現在の貨幣価値にしておよそ1億円くらいではないかと推察しており、これはオランダ商館の総支出の10~12%にあたるほどという。それが200年以上も払われ続けてきたと考えると出島商人たちにとっては良い収益源だったのではなかろうか。

ただ、出島に出資した商人たちはずっとその権利を保有し続けたわけではなく、時代によって25人の顔ぶれは変わる。長い時間の間には商売にも栄枯盛衰があったのだろう。

ミニ出島。これ全体が元々は長崎の商人たちが出資した投資物件だったというわけであるミニ出島。これ全体が元々は長崎の商人たちが出資した投資物件だったというわけである

最初の時点から私有地だった出島を復元整備するためにはまず、出島の土地を公有化する必要がある。長崎市が最初に取り組んだのは用地買収だ。

「大正11年には国の史跡に指定されていましたので、範囲内にある建物の新築、改築には国の許可が必要でした。地中に埋まっている遺構を傷つけられないので、大きな建物は建てられない、ゆくゆくは史跡になるという認識は地域の方々にはあったかと思います。

ただ、用地取得は急いで一気にというわけではなく、所有者の方々にご理解、ご協力をいただきながら手放すタイミング、建替えのタイミングを見て少しずつ進めたので、最終的に出島があった土地のすべてを公有化できたのは2001年。用地買収だけで50年ほどかかりました」と長崎市文化観光部出島復元整備室室長の元尾賢治さん。

ミニ出島。これ全体が元々は長崎の商人たちが出資した投資物件だったというわけである南側の護岸。発掘調査で出てきた護岸から範囲を推定していった

シーボルトの生きた時代、19世紀初頭を復元

2001年以降版を重ねて出されている出島の変遷をまとめた冊子「国指定史跡『出島和蘭商館跡』よみがえる出島オランダ商館-19世紀初頭の町並みと暮らし-」には1980(昭和55)年撮影の空中写真が掲載されているが、そこには普通に道路はもちろん、店やオフィスビル、病院などもある。史跡に指定されているとはいえ反対はなかったのだろうか。

「この仕事をしていてつくづく思うのは出島の認知度の高さです。長崎のまちの発展はここから始まりましたし、地元はもちろん、県外、海外にも資料は多く、日本の歴史においてだけでなく、世界の歴史においても出島の存在は重要。たくさんの説明会やシンポジウムの中で市民の皆さんにもそれを理解していただき、大事な土地を少しずつお譲りいただきました」。

土地を公有化しながら遺構を発掘調査、出島の範囲を確定すると同時に、そこに何があったのかを確定していった。

「復元するにあたって絵図その他資料はたくさんあるのですが、現在の地図と違い、書き手の意図などによって違いがある上、200年以上の時間の中で出島の土地は幕末にかけて拡大、建物も海辺で潮風にさらされていること、火災があったしたことなどから20~30年で建替えられたり、焼失したりと変遷を経ています。そこでまずは範囲を確定、その後はどこの時代のものを復元するか、議論を重ねました」と長崎市文化観光部出島復元整備室の和田奈緒さん。

最終的に選ばれたのは19世紀初頭。1798(寛政10)年に出島では大火があり、その後に再建された建物が中心になっている。この時代になったのはシーボルトや商館長ドゥーフなど今日までエピソードが多く伝わっている人たちが活躍した時期で、資料がもっとも多かったため。

すでに貿易の中心となっていたオランダ東インド会社は解散しており、この時期はナポレオン率いるフランスに併合されるなどオランダは多難だった。その後、貿易相手国を知ることが自国の利益に繋がると日本研究がブームになり、それが資料の豊富さに繋がっている。

ちなみにフランスがオランダを併合していた5年間、各所でオランダの国旗が降ろされた中、出島とアフリカ西海岸にあるエルミナ基地ではオランダ国旗が掲げられ続けた。そのせいだろう、第二次世界大戦後の賠償問題の中でオランダから出島の復興について要望があったと伝えられている。戦後に長崎市が主体となって整備事業が進められることになったのにはこうした歴史が背景にあったのである。

一応、旗の掲揚台も作られてはいるが、これは史実とは関係ない。実際には二番蔵の前に旗が掲げられていたそうで、跡が残されている一応、旗の掲揚台も作られてはいるが、これは史実とは関係ない。実際には二番蔵の前に旗が掲げられていたそうで、跡が残されている
一応、旗の掲揚台も作られてはいるが、これは史実とは関係ない。実際には二番蔵の前に旗が掲げられていたそうで、跡が残されている施設内には復元までにどのような資料を参照したかなどの詳細についての展示もあり、参考になる

2000年から復元建物続々。内装にもこだわり

最初に復元されたのは幕末から残っていた石倉の基礎や部材を使用した石倉で、1952年のこと。その後も新石倉、庭園などが整備されていくが、この時期の出島は扇形がイメージできるような場所ではなかった。

そこで1976年に作られたのが現在も人気の展示であるミニ出島。これを見ると教科書にあった出島が本当に存在していたと納得するのか、多くの人がここで写真を撮っている。昭和に出島観光した人ならここだけを見たのではないだろうか。

橋の右手に見えているのが新石倉。幕末の復元建物で案内所などに使われている橋の右手に見えているのが新石倉。幕末の復元建物で案内所などに使われている

おもしろいのは建物だけでなく、室内、生活の様子などが分かるように再現がされていること。文化財の復元作業では本来あった場所に本来あった建物を建てる必要があるのだが、それに加え、当時の様子までを再現する。そこにも苦労があった。

和田さんによると時代考証、モノ選びなどにはオランダにある博物館の学芸員に協力を仰ぎ、家具などは当時の品を買いつけて置いてあるという。

「それ以外では商館員の日記や日本で亡くなり、競売にかけられた商館員の持ち物の記録を読んだりするなど、ありとあらゆる資料を参考にしました。

また、出島ではオランダ人が唐紙(木版刷りの美術紙)を壁紙のように使っていました。そこで再現にあたっては資料に残る柄と同じ版木を持つ版元和紙問屋さんに唐紙を作ってもらい、それを貼っています。中には資料などから推察したオリジナルの文様を起こしてもらった唐紙もあります。高価な品ですが、できるだけ当時に近づけるためには必要なもののひとつです」

橋の右手に見えているのが新石倉。幕末の復元建物で案内所などに使われている唐紙の貼られたカピタン部屋の内部。当時から和モダンな暮らしが営まれていたようだ
橋の右手に見えているのが新石倉。幕末の復元建物で案内所などに使われているカピタン部屋のクリスマスディナー。クリスマスというと宗教的な行事と捉えられるため、阿蘭陀冬至と称していたとか。ハムや豚の頭の丸焼きなどが並べられている

明らかに違うモノとしてデザインされたものも

2017年には出島表門橋が開通し、これによって橋を渡って出島に入るという往時と同じ感覚が味わえるようになった。だが、この橋はその昔とは違うことが明らかに分かるようにしてあると元尾さん。

「その昔の橋は石造で長さ4.5mほど。それほどまちとは離れていませんでしたが、現在の橋の長さは38m。そこで昔からあったものと誤解を生まないようにとプロポーザルを行って近代的なスタイルにしました」。

近代的な橋の架橋にあたり、市民と出島について語り合ったのが功を奏したのだろう、橋の開通からすでに6年ほどが経つが毎月第2、第4月曜日には橋を拭く活動が行われており、夕方になると雑巾とバケツを持った市民が集まり、橋を拭いているという。

翌2018年には出島の年間来場者数が初めて50万人を超えた。歴史、研究のための施設という位置づけで精巧な復元をしてきた結果が観光にも寄与するようになったわけである。

明らかに現代のものとして作られた表門の橋。ミニ出島で見ると短い橋になっている明らかに現代のものとして作られた表門の橋。ミニ出島で見ると短い橋になっている

橋以外にも昔とは異なる使い方になっている建物もある。たとえばへトル(商館次席)の住居だったヘトル部屋は1階がミュージアムショップ、2階が企画体験調理室になっているが、当然、当時はそのような使い方はされていなかった。

「ビルが建てられていたことなどで遺構が壊されていた建物については正確な内部の様子を知る手立てがありません。そこでそうした建物は敷地内に必要な施設として使うことにし、そこにバリアフリーのために必要なオストメイト対応トイレやエレベーターなどを設置しています」と和田さん。

古い建物を復元する際にもバリアフリーは求められる。そこで出島では内部の様子が分かっていない建物を利用したり、メインストリートではなく、裏動線をバリアフリーにするなどで対応。問題をクリアしている。

明らかに現代のものとして作られた表門の橋。ミニ出島で見ると短い橋になっているショップになっているへトル部屋の脇を入るとエレベーターなどが設置されている
明らかに現代のものとして作られた表門の橋。ミニ出島で見ると短い橋になっている左に見えているのがヘルト部屋。外観は歴史的資料から復元した

昔と同じ建物を作ったら昔と同じように劣化も

ミニ出島が教えてくれる様子をリアルに感じられるようになってきた出島だが、これで終わりというわけではない。当初の計画では最終的には25棟が復元される予定で、残りは9棟。すでに2023年度から4期目の復元がスタートしている。

「オランダ商館ということでこれまでは貿易資料が中心でしたが、今年度からスタートした敷地南側は出島の家主の詰所、蔵、番所などがあった場所。これまでとは違う整備になるものと思われます」と和田さん。

現在は発掘調査が始まっており、2023~2024年で基本設計、2025年の実施設計を経て2026年に着工、2027年度には完成予定という。あと数年でまた風景が変わるわけだ。

敷地内では次の整備に向けて調査が始まっている。建物は1棟の予定敷地内では次の整備に向けて調査が始まっている。建物は1棟の予定
敷地内では次の整備に向けて調査が始まっている。建物は1棟の予定出島内メインストリートの風景。右の蔵の辺りが入口

同時に初期に復元した建物の改修も必要になってきた。潮風にあたる場所の木造建築で、しかも当時の工法で作られているため、劣化も当時と同じスピードで進んでいる。

「建物の仕様は19世紀初頭当時の通りとしています。建物の復元工事は伝統的な木造建築の技法で行われており、これは大工の技術の継承にもつながりました。ところが、当時もカピタン部屋の入口の階段は劣化が激しかったのでその後、取り入れられなかったそうで、それを復元したらやはり昔と同じように劣化が進んでいます。

そこで、改修工事のタイミングで雨樋を太くしたり、漆喰に撥水技術を取り入れるなど、少しずつ長寿命化のための改良を重ねています」(和田さん)。

建物を取り巻く環境は変わらないとしても人間はそれに抗するノウハウを身につけてきたようだ。

敷地内では次の整備に向けて調査が始まっている。建物は1棟の予定カピタン部屋の印象的な階段。意匠としては目を惹くが、劣化しやすい

将来的には海に囲まれた江戸時代の出島が目標

既存建物であるわが国最古のキリスト教新教の神学校。歴史の重層性を感じる既存建物であるわが国最古のキリスト教新教の神学校。歴史の重層性を感じる

また、19世紀初頭の建物を復元すると言いながら、実は出島内にはそれ以降に建てられた建物も現存している。敷地の西側にある2棟の洋風建築である。一番西側の塔のある建物は1878年に建てられた現存するわが国最古のキリスト教新教の神学校で、ここに出島復元整備室が置かれている。

広場を挟んで建つ緑色の鮮やかな洋館は旧長崎内外クラブの建物で、1903年に長崎に居留する外国人と日本人の親交の場として建てられたもの。1階には長崎の食をテーマとするレストランが入り、2階には幕末以降の出島と長崎内外倶楽部についての展示がある。いずれの建物も夜間は窓から漏れ出る光などが美しく目立つのだが、復元を目指す19世紀初頭の建物ではない。

「史跡に認定された時には江戸時代に価値が見出されていました。でも、ここには明治のものも残されており、その重層性にも価値があるのではないかと考えています。洋館2棟があった場所には他の建物があったことは分かっていますが、明治からこの場所に現存するオリジナルの建物の価値も重要視されています」(和田さん)。

既存建物であるわが国最古のキリスト教新教の神学校。歴史の重層性を感じる旧長崎内外倶楽部。見学に行くなら1階で食事をする予定で行くのも楽しい

長期的な計画では現在進む建物復元の先に出“島”状態の復活が盛り込まれている。

「最終的には海に浮かぶ出島をイメージしています。その最終目標を実現するためには地元の皆様に理解、協力していただくことが必要です。新たに周辺地区を史跡として指定し、整備していくので長期的に取り組むことになります」と元尾さん。

もうひとつ、出島対岸にある県庁跡地の利用もポイントになってくる。江戸時代の石垣が残る県庁跡地は出島とともに長崎の歴史の要ともいうべき地。現在は広場として暫定利用されているが、ここ2年くらいで意見を調整、開発が進められる予定となっている。そこに何ができるかはこれからの長崎市にとって大きな意味を持つ。新たな長崎の歴史を生み出す場として使われることを出島の島化実現とともに祈りたい。

既存建物であるわが国最古のキリスト教新教の神学校。歴史の重層性を感じる県庁跡地、かつて奉行所があった高台から出島を見下ろす。監視という意味がよく分かる立地だ

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