昔話や伝承から、霊験あらたかとされる寺社を紹介

毎年、正月を迎えるとたくさんの人々が初詣として寺社へお参りする。
「なんとなく習慣で」などと、特に願い事もなく参拝する人もいるだろうが、多くの人は、仏前・神前で、なにかしらの願い事をするのではないだろうか。

ときどき「神社では願いごとをせず、感謝だけするべき」という意見が聞かれるが、複数の神職に問うたところ「昔から人々は神様に願い事をしてきたし、願い事をしてはいけないという説の起源も理由もわからない」という答えだったので、安心して願い事をしてほしい。
ただ、神道には教義がなく、ルールもない。「願い事をするのはいやだ」と感じる人は無理をする必要もない。

伊勢神宮の宇治橋伊勢神宮の宇治橋

「良縁結びの神社」「立身出世の神社」「学問のお寺」などとされる寺社があるが、「学問のお寺」で良縁結びを願っても効果がうすいわけではない。

たとえば、出雲大社が良縁結びの神社とされるのは、毎年神無月になると全国から八百万の神々が集まって、縁結びの会議を開くという俗説ゆえだが、いつごろこんな話が生まれたのか明らかではない。吉田兼好の『徒然草』第二百二段に「この月(神無月)、万の神達、太神宮に集り給ふなど言ふ説あれども、その本説なし」とある。太神宮とは伊勢神宮のことで、兼好法師の時代に、神無月に神々が集まると考えられていたのは伊勢神宮であったらしいとわかる。さらに「その本説なし」、つまり典拠がないというのだから、出雲大社を縁結びの神社とする根拠にするには少々頼りない。それでも出雲大社に参ると厳かな気持になり、良縁が訪れるような気がする人は少なくないだろう。

天満宮が学問の神社とされるのは、祭神の菅原道真公がその時代きっての秀才だったからだが、菅原道真公は秀でた和歌も詠んでおり、「芸事の神様」とも考えられる。
つまりは、参拝する人の気持ち次第で、その寺社の霊験は変わるといってしまっても良さそうなのだ。

私達に馴染みの深い昔話も、原典を調べると仏教説話だったり神道説話だったりして、どの寺院、あるいは神社に関する話なのかわかる場合が多い。たとえばものぐさだが和歌の才能から貴族の婿となった「ものぐさ太郎」は、120歳まで生きて神となり、多賀大社に祭られていると『神道集』にある。『御伽草紙』では、一寸法師は住吉大社の申し子とされる。

そこで、よく知られる昔話や伝承から、霊験あらたかとされる寺社の物語を紹介したい。

伊勢神宮の宇治橋出雲大社の神楽殿

『わらしべ長者』の若者が祈ったのは長谷寺の観音様

貧しい若者が富を得る昔話としてよく知られるのは、わらしべ長者だろう。

貧しい若者が観音様にお参りすると、「この寺を出ていくときに最初に触れたものを大切にせよ」と夢のお告げがある。そこで若者が寺を出ようとすると、山門でつまづき、こけた拍子に一本の藁をつかんだ。「これを大切にせよというのか」と持ち帰る途中、一匹の虻が顔の周囲を飛び回るので、捕まえて藁で結んだ。

これを持って歩いていると、貴族の車とすれ違い「子どもがほしがっているので、その藁をくれないか」と頼まれる。男は快く譲り、代わりに蜜柑をもらった。さらに歩いていくと、身分の高そうな人物が水を欲しがって倒れ込んでいるのを見かける。男が蜜柑を手渡すと、その人は喜んで食べて元気になり、お礼として美しい布を三反くれた。
またさらに歩いていくと、素晴らしい馬がいきなり倒れ込んだところに出くわした。旅の途中だった飼い主が、馬の始末に困っていたため、男は反物と馬の死骸を交換する。そして観音様に祈ったところ、馬はたちまち生き返った。その後男は京に上り、馬と田を交換するのだが、この田からは良い米がたくさんとれたので、男は大金持ちになった。めでたしめでたし。

『今昔物語』や『宇治拾遺』によると、この男が祈ったのは、長谷寺の観音様だという。男は長谷寺の観音様の前で、「貧乏なまま死ぬのなら、ここで餓死します。何か与えてくださるのでなければ動きません」とひれ伏したまま、21日の間そこから動かなかった。食事を与えられれば食べるのだが、観音様の前から動くことは頑なに拒否し、僧侶たちを困惑させたとある。
こんな困った男にも富を授けてくださるとは、長谷寺の観音様はなんと慈悲深いのだろう。

あじさいでも有名な長谷寺は「わらしべ長者」が祈った観音様があるというあじさいでも有名な長谷寺は「わらしべ長者」が祈った観音様があるという

新宿区の基礎を作った中野長者。浅草観音(浅草寺)と墓がある成願寺

室町時代に東京都中野区から新宿区のあたりの土地の基礎を作ったとされる中野長者は、名前を鈴木九郎といい、紀伊國の生まれとされる。実在の人物だが、彼が栄華を極めたのは、浅草観音(浅草寺)に帰依したためだという伝説がある。

ある日、九郎が馬を売りに出たところ、思わぬ高値で売れた。「これは浅草観音の功徳に違いない」と感謝し、売り上げをすべて浅草観音に奉納して帰ってくると、貧しい家がまばゆく輝いている。家の中が黄金で満ちており、その輝きが外にまで漏れ出していたのだ。それから九郎はどんどん運がよくなり、ついには「中野長者」と呼ばれるまでになった。

ここまでは素晴らしい成功譚なのだが、なぜかこの先に不気味なエピソードが加わる。大金持ちとなり、人の目から財産を隠したいと思った中野長者は、人を雇っては財宝を運ばせてどこかに埋め、その帰りには殺すようになった。財宝を隠した場所を秘密にするためだ。
しかし、ついには罰があたる。長者の一人娘の婚礼の夜、娘は蛇と化していずこへかと姿を消したため、長者は心を入れ替えて僧侶となり、豪邸を成願寺としたという。
浅草観音も、中野長者の墓がある成願寺も、成功したい人の願いを叶えてくれそうだ。

中野長者が帰依した浅草観音堂(浅草寺)の境内中野長者が帰依した浅草観音堂(浅草寺)の境内
中野長者が帰依した浅草観音堂(浅草寺)の境内中野長者の墓がある成願寺

海女の娘が天皇妃になった『髪長姫の物語』の舞台・道成寺

道成寺といえば、安珍・清姫の物語が有名だが、髪長姫の物語の舞台でもある。

御坊市に住む宮という娘は、大きくなっても毛がはえなかったので、何が原因なのだろうかと悩み、悲しんでいた。宮の母親は海女で、ある日海に潜っていると、深い海の底が輝いていることに気づく。よく見ると、小さい観音様が沈んでいるのがわかったので、命がけで引き上げて毎日拝んだところ、宮の頭に髪の毛が豊かに生えた。
宮は輝くほど美しい娘に育ったが、「仏様からいただいた髪の毛だから」と切らずにいるうち、その長さは地面に届くほどになり、「髪長姫」と呼ばれるようになる。そしてある日、燕が落ちた髪を咥えて都に運ぶのだが、それに目をとめた藤原不比等は「この髪の毛は美女のものに違いない」と持ち主の娘を探させ、ついに宮を見つけるのだ。

宮を召し出してみると、想像にたがわず絶世の美女だったので、彼女に「宮子姫」の名を授けて養女にする。こののち宮子姫は文武天皇の妃となり、生まれた子がのちの聖武天皇だ。

宮子姫が、自分を幸せにしてくれた観音様を祀るべく寺院を建立したのが道成寺だから、道成寺の観音様に祈れば、幸せな結婚ができるかもしれない。

道成寺の護摩堂道成寺の護摩堂

北条氏の繁栄を予言した江ノ島弁財天の龍神

『太平記』によれば、北条氏の繁栄は、江ノ島弁財天の龍神のおかげだという。

巻第五「時政参篭榎嶋事」にはこうある。
鎌倉幕府が草創のころ、北条時政は榎島(江ノ島)に参拝して、子孫の繁昌を祈った。21日目に赤い袴と柳裏(表面が白く、裏が青い布)の衣を着た美しい女性が忽然と表れ、「汝の前世は箱根法師である。法華経を六十六部書写し、六十六か所の霊地に奉納したため、再び生まれ変わり、日本の主となって栄華を誇るだろう。ただ道理にそむく振る舞いがあれば、七代以上続かない」と託宣して、二十丈(約60m)もの巨大な蛇に姿を変え、海の中へ消えた。女性が立っていたところを見ると、大きな鱗が三枚落ちていたので、時政は鱗をとって家紋としたという。
北条氏の繁栄は歴史を見れば明らかだろう。一族の繁栄を祈るなら、江ノ島弁財天に祈るとよさそうだ。

「昔話の登場人物のように、幸せになりたい」と願うなら、原典を調べてみてはいかがだろう。ゆかりの寺社や舞台となった寺社がわかるかもしれない。
もしわかったなら、お正月に初詣に出掛けてみてはいかがだろうか。

江島神社・竜宮江島神社・竜宮

■参考
岩波書店『今昔物語集』池上洵一編 2002年7月発行
Wikisource『太平記 巻第五』
https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E8%A8%98/%E5%B7%BB%E7%AC%AC%E4%BA%94

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