「忠臣蔵」の元となった赤穂事件にたくさんの謎が残されているわけ

年末になると、赤穂浪士の仇討ちを取り扱った「忠臣蔵」が放映されることが多い。
赤穂浪士による吉良上野介義央への仇討ち、いわゆる赤穂事件が元禄十五(1702)年の12月14日に起きたからだが、この事件についておさらいしようと調べ始めてすぐに、行き詰ってしまった。さまざまな説が語られているのだが、その典拠がわからないのだ。
たとえば四十七士の名前は検索すればすぐにわかるし、異説もないのだが、どの古文書に記載されているのか説明がない。図書館で資料を検索しても、典拠となる資料を主体とした書籍は見つからなかった。

それらしいと思われた吉田豊・佐藤孔亮著の『古文書で読み解く忠臣蔵』も、いくつかの資料しか載せられていなかったが、なぜ典拠が明示されないのかの理由はわかった。
当時、この事件は江戸中の人々の注目の的となり、事件を実際に見聞きした人による記録や当事者たちの書状など、夥しいほどの数の史料が散在している。しかしそれぞれ事件の一部について記録したものであり、数が多すぎて整理がついておらず、また勘違いや間違って伝聞された内容も含まれているため、事件の全体が明らかになるようなものではないのだそうだ。
安政四(1857)年に編纂された江戸幕府の公式史書『徳川実紀』には顛末がまとめられており、さらに信頼できる資料といえるが、事件より100年以上あとに完成しているため、事実が正しく伝わっているとはいいがたいだろう。

近松門左衛門の人形浄瑠璃『碁盤太平記』や竹田出雲・三好松洛・並木千柳らが合作した人形浄瑠璃の『仮名手本忠臣蔵』をはじめ、歌舞伎の『鬼鹿毛無佐志鐙(おにかげむさしあぶみ)』、『忠臣いろは軍記』など、数多くの芝居が上演され、多くの人々が知る事件ではあるものの、たくさんの謎が残されているのはこういうわけだ。

赤穂大石神社赤穂大石神社

一般に語られる赤穂事件のあらまし

そこでまず、一般に語られる赤穂事件のあらましを説明しよう。

事件に先立つ元禄十四年のこと、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩は、勅使が下向する際の幕府供応馳走役の一人に任じられる。しかし、勅使が到着する前に、作法指導役の吉良上野介義央に、江戸城中で斬り付けたため、切腹を命じられ、所領も没収されてしまう。
そのため赤穂藩士は浪人となり、吉良を討ち取るべきだと主張する浪人もいた。しかしこのときは、筆頭家老の大石内蔵助良雄が仇討に賛同しなかったので、少人数での仇討ちが計画されていたという。しかし吉良家は江戸幕府に重用される名家でもあり、警備が厳しすぎて断念。その後浅野家再興が叶わないのが明らかな状況となり、大石内蔵助も吉良邸討ち入りに賛同した。幾度もの会議を経た綿密な計画により、吉良義央を討ち取ると、一行は泉岳寺に引き上げている。

その後赤穂浪士たちは細川家、松平家、毛利家、水野家に身柄を預けられるが、処分はなかなか決まらなかった。忠義の仇討ちであるとして彼らを義人と褒めたたえる意見と、罪人であるとする意見があったからだ。
しかし最終的に彼らは切腹を命じられ、泉岳寺に葬られた。

赤穂浪士が葬られた泉岳寺赤穂浪士が葬られた泉岳寺
赤穂浪士が葬られた泉岳寺泉岳寺の赤穂義士墓地。大石内蔵助良雄の墓

浅野内匠頭はなぜ、吉良上野介に斬りかかったのか

浅野内匠頭がなぜ、吉良上野介に斬りかかったのかは明らかではない。
事件を目撃した留守居番の旗本・梶川与惣兵衛頼照は、浅野内匠頭が「上野介事、この間中意趣これ有り候ゆゑ、殿中と申し今日の事かたがた恐れ入り候へども是非に及び申さず、打ち果たし候」と、大声で何度も繰り返していたと書いているが、どのような意趣があったかまでは記録されていないのだ。

一昔前までのドラマや映画では、吉良上野介が赤穂藩主を田舎者と馬鹿にしたのが原因とされていることが多かったが、実は浅野の小姓を吉良が欲しがったのが原因だとか、浅野には癇症があったとする説もある。
赤穂市立海洋科学館・塩の国を訪れたとき、館の職員からは、「吉良上野介は赤穂の製塩技術を欲しがったが、浅野長矩が拒絶したための軋轢が原因だ」と説明を受けた。事実かどうかわからないが、塩は大切な調味料であり、あり得ない話しでもないだろう。

仇討ちを果たした赤穂浪士たちの処分を巡る論争は、江戸時代最大のものだったともされる。儒者の林大学頭信篤らは、復讐は義であり、赤穂浪士は義人であると主張したが、同じ儒者の荻生徂徠は「私論では忠義だが、公論では罪人である」と喝破した。私論をもって公論を害するようなことがあれば、こののち天下の法は立たないであろうというわけで、江戸幕府もこの意見をとり、浪士たちは切腹を命じられた。
しかし、それでも彼らには同情が集まり、とくに庶民の間では彼らを英雄としてもてはやす声が高かったらしい。

浮世絵に描かれている松の廊下の場面浮世絵に描かれている松の廊下の場面

赤穂四十七士の中で、切腹にならなかった寺坂吉右衛門

切腹した赤穂浪士は、浪士を一時預かった細川家の文書『堀内伝右衛門覚書』などによれば、筆頭家老の大石内蔵助良雄とその息子の大石主税良金をはじめ、原惣右衛門元辰、片岡源五右衛門高房、堀部弥兵衛金丸、堀部安兵衛武庸、近松勘六行重、吉田忠左衛門兼亮、吉田沢右衛門兼貞、間瀬久太夫正明、間瀬孫九郎正辰、潮田又之丞高教、富森助右衛門正因、赤埴源蔵重賢、不破数右衛門正種、岡野金右衛門包秀、小野寺十内秀和、小野寺幸右衛門秀富、奥田孫太夫重盛、奥田貞右衛門行高、大石瀬左衛門信清、木村岡右衛門貞行、矢田五郎右衛門助武、早水藤左衛門満堯、磯貝十郎左衛門正久、間喜兵衛光延、間十次郎光興、間新六郎光風、中村勘助正辰、菅谷半之丞政利、千馬三郎兵衛光忠、村松喜兵衛秀直、村松三太夫高直、岡島八十右衛門常樹、大高源吾忠雄、倉橋伝助武幸、矢頭右衛門七教兼、勝田新左衛門武堯、前原伊助宗房、貝賀弥左衛門友信、武林唯七隆重、杉野十平次房、神崎与五郎則休、茅野和助常成、横川勘平宗利、三村次郎左衛門包常の46名だ。

一般に四十七士と呼ばれるのは、上記46名に寺坂吉右衛門を加えた47名だが、なぜ寺坂吉右衛門信行は切腹にならなかったのか。当時に書かれた資料でさえ、寺坂吉右衛門は討ち入りに参加していないとするもの、討ち入りには参加したが泉岳寺に引き上げた際に姿を消したとするもの、さまざまにあり、よくわかっていない。

「四十七士」の呼称が一般化されたのは、「いろは歌」の47文字に浪士たちをあてはめた『仮名手本忠臣蔵』以降なのだという。「忠臣蔵」の呼び方も『仮名手本忠臣蔵』が始めとされる。

浮世絵に描かれている赤穂浪士達浮世絵に描かれている赤穂浪士達

人気となった『仮名手本忠臣蔵』と「赤穂義士祭」

とはいえ、このショッキングな事件は庶民の関心をひきつけ、早くから舞台などで演じられるようになった。
討ち入りの翌年、元禄16年の正月、江戸山村座が演じたのが『傾城阿佐間曽我』(けいせいあさまそが)の五番目(大詰)である。曾我兄弟の仇討ちというたてつけで、赤穂浪士の討入りをみせた。その後、宝永3年(1706年)には、近松門左衛門作の人形浄瑠璃『碁盤太平記』が南北朝時代に舞台を変えて上演された。
人気を不動にしたきっかけが、人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』だった。類を見ないといわれるほどの大入りとなり、同じ年に歌舞伎の演目としても取り入れられている。そして近年でも年末になると忠臣蔵が幾度となくドラマとなって放映された。

さて、浪士たちの地元である赤穂市では、毎年討ち入りの決行日である12月14日に、赤穂義士祭が開催される。この祭りは2023年で120回をむかえる。

目玉は忠臣蔵パレードで、市内の小学生が演奏する金管楽器のバンドを先頭にして、華やかな大名行列や義士娘人力道中らが練り歩く。殺陣を含む、義士たちの物語が演じられるなど、赤穂浪士たちの時代を偲ばせる豪華な祭りだ。

過去にはゲスト参加者として、津川雅彦さんや高橋英樹さんなど芸能人も参加しており、2023年は大石内蔵助役で中村雅俊さんが義士行列に出演する。ほかには赤穂浪士の遺髪が納められている花岳寺では追慕法要が営まれるほか、浪士たちを祭神とする大石神社でも祭典が開かれる。物産市のほか数々の露店もならぶという。

赤穂事件に興味がある方は、ぜひ赤穂義士祭にも参加してみてはいかがだろうか。

赤穂義士祭の様子(写真提供:赤穂市)赤穂義士祭の様子(写真提供:赤穂市)

■参考
柏書房『古文書で読み解く忠臣蔵』吉田豊・佐藤孔亮著 2001年12月発行

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