「三隣亡の仏滅」は忌日が重なる最悪な日?
「今日は三隣亡の仏滅か?」「そんな失敗をするなんて仏滅三隣亡だな」
筆者が子どものころ、思わぬ不幸に見舞われたときに思わず口をついて出た言葉である。最近ではあまり聞かなくなってはいるが、50代以上の方には馴染みがある言葉なのではないだろうか。
三隣亡も仏滅もともに「凶日」を意味する。つまり両方が重なる日はまさに最悪ということで、その語呂のよさから落語でも使われている。
しかし仏滅はまだしも、三隣亡とは何なのだろうか。実は、現代でもこの三隣亡が重要な意味を持ち、忌日として経済活動にまで影響を及ぼしている地域がある。
今回は三隣亡とは何なのか? 仏滅との違いや、どんな悪いことが起きるとされているのかを紐解いていこう。
仏滅は中国から伝来、三隣亡は日本独自のもの?
三隣亡、仏滅はともに、日にちの吉凶を占う「暦注」と呼ばれる東洋占術のひとつである。しかしそれぞれの由来や体系は全く異なる。
仏滅は六曜(大安・仏滅・赤口・友引・先負・先勝)に属する。これらはお葬式や結婚式などで気にする人も多いため、現代でも馴染み深い分類である。
六曜は鎌倉時代に中国から伝来したとされている。その起源は、三国時代の英雄、諸葛亮孔明が作ったという説や、唐時代の李淳風が作った説などがあるが、はっきりとはしていない。
仏滅は元は「物滅」と書き、物が滅することを意味している。そこから転じ、すべての事始めに凶という意味になった。
三隣亡に関しては、中国暦にはその記述がない。どうやら江戸時代に暦占いが爆発的に流行った際に、日本で新たに作られた独自のものらしい。しかし、このあたりもあいまいで謎に包まれている。
三隣亡はいつ誰が作り出したのか、本当の意味とは何なのか? その謎に迫るために、まずは仏滅や三隣亡が属する「暦注」とは何なのかについてご紹介しよう。
どの日に何をするべきかを判じる「暦注」、一粒万倍日も暦注
暦注(れきちゅう)とは、暦に記載される日時・方位などの吉凶、その日の運勢などの占いのことである。仏滅や三隣亡、また宝くじ売り場で人気の一粒万倍日も暦注である。
ここで言う暦とは単なるカレンダーではない。気候風土、催事、宗教行事、占いなどが網羅された書を指す。
暦には、日付・曜日・二十四節気、七十二候などの天文学的な事項や年中行事をはじめ、十二直、二十八宿、九星、六曜などの占いの事項が書かれる。暦注の基本的な思想背景は陰陽五行説、十干十二支(干支)、占星術などである。
そしてこれらの数種類の占いを総合判定して日取りを決める方法を「擇日法(たくじつほう)」もしくは「選日」という。つまりは、その日が指し示すことを読み解いて、どの日に何をするとよいのか、悪いのかを判定するというわけだ。
擇日法・選日の一般的な解釈をいくつかご紹介しよう。ただしこれらの解釈にも諸説がある。
一粒万倍日
一粒の籾(もみ)が万倍にも実る稲穂になるという意味で、何事を始めるにもよい日とされ、特に就職、開店、投資など、お金を出すことに吉であるとされる。ただし借金をしたり人から物を借りたりすることは返済が万倍になるため凶とされる。現代では宝くじ売り場でよく見る言葉である。
不成就日
何事も成就しない日とされ、結婚・開店・子どもの命名・移転・契約・芸事始め・願い事など、事を起こすことが凶とされる。
八専
干支は年だけにあるのではなく、月や日にもあり、60周期で巡っている。八専はこの日の干支のうち壬子、甲寅、乙卯、丁巳、己未、庚申、辛酉、癸亥の8日を指し、1年で6回巡ってきて仏事、造作、嫁取りに凶とされる。
三隣亡
その字面から向こう3軒両隣まで亡ぼすとされる建築の大凶日である。棟上げや土起こしなど建築に関することは一切忌むべき日とされた。「高い所へ登るとけがをする」と書いている暦もあるがその真偽は不明である。江戸時代の暦には「三輪宝」と書き吉日だった時期もある。三隣亡と三輪宝ではまるで正反対なのが面白い。
天一天上
日の干支が癸巳(30番)から戊申(45番)までの16日間は、天一神という方角神が天上に帰るため、地上での祟りがない吉日とされる。その年の最初の天一天上の1日目を「天一太郎」といい、この日の天候によってその年の豊作と凶作を占った。
十方暮
日の干支が甲申(21番)から癸巳(30番)の間の10日間。十干と十二支の五行が相剋の関係にある日が、この10日間で8日も集中しているため、万事うまく行かない凶期間と考えられるようになった。
土用
五行では、春に木気、夏に火気、秋に金気、冬に水気を割り当て、土気を季節の変わり目に割り当てた。この年に4回ある土気の期間を土用と言い、土の気が盛んになるとして、動土・穴掘り等の土を犯す作業や殺生は大凶。土用の丑の日はウナギを食べるとよいと言い出したのは平賀源内。
三伏
陰陽五行説では庚(かのえ)は陽金にあたり、火性の最も盛んな夏季の庚日は(火剋金)という相剋になることから、凶であるとする。 そこで夏季3回の庚日を三伏とし、種蒔き、療養、遠行、男女和合など、すべて慎むべき日とされている。
犯土
日の干支の庚午(7番)から丙子(13番)までの7日間を大犯土(おおづち)、戊寅(15番)から甲申(21番)までの7日間を小犯土(こづち)という。この期間には土公神(どくじん)が本宮、あるいは土中にいるため土を犯してはならない。穴掘り、井戸掘り、種蒔き、土木工事、伐採など土いじりはすべて大凶。
臘日
「臘」とは「つなぎ合わせる」という意味で、新年と旧年の境目となる日。この日を年の暮れとして大祓を行うこともあり、そこから大晦日のことを臘日と呼ぶこともある。吉凶については諸説あり、定まった解釈はない。
擇日法・選日は、主に中国の農民暦が由来となっている。しかし解釈が変化しているものも多く、これは江戸時代の町民文化が花開いた時期、それまで一部の知識人たちに秘匿されていた暦注という占いが市中に広まり大流行をした際に、より平易なものへと変化したためと推察される。
一粒万倍日と三隣亡は日本独自のもの
さて、この中の一粒万倍日と三隣亡に関しては、中国にはその痕跡がない。つまり日本独自のものである。
一粒万倍日に関しては一攫千金のイメージがあるせいか、最近あちこちでよく見かけるようになっている。ここでその意味を簡単にご紹介しておこう。
一粒万倍日とは、何事も始めるに吉という日である。言葉としての起源は仏教の報恩思想からきている。ひとつの善行が巡り巡って多くの結果をもたらすという思想で、一字千金とか一攫千金とかの言葉へ転用され、広く知れ渡ったものである。
しかしこれにも謎がある。言葉や思想の起源は簡単に判明するのだが、その吉日の決め方がよく分からないのである。一粒万倍日は「二十四節気」と「日の十二支」によって決まるとされ、子月(旧暦11月)は子日と亥日、寅月(旧正月)は丑日と午日という具合に決まっている。
しかしこの選日に法則性がなく、根拠が見えてこない。さまざまな東洋占術の論理を調べてみたが、すべてをスッキリと説明できるものは見つからなかった。
例えば、東洋思想の原点ともいえる陰陽五行思想で考えてみると、子月は水行で、子日と亥日も共に水行。よって月と日の関係は「比和」にあり、互いに強め合う関係である。
しかし、寅月のほうを見てみると、寅月は木行で丑日は土行。その関係は「相乗」となり、木が強すぎて土を克す。しかも午日は火行で「相生」になるので、木が火を育むことになり、選定法としては矛盾する。他にもさまざまな論理にあてはめてみたが、選定方法が見えてこなかった。
筆者の浅学ではここまでで、全く違った法則が見つかるかもしれないので、興味のある諸氏はチャレンジしてみてはいかがだろうか。
三隣亡の謎。3軒隣りまで滅ぼす厄日
次は三隣亡、向こう3軒両隣まで滅ぼすという恐怖の厄日である。
こちらの由来は全く不明である。いつ頃からこの慣習が始まったかも判明しておらず、江戸時代に入ってから確立されたとする説が有力とされている。
「さんりんぼう」は江戸時代よりも前の古い暦注解説書には書かれていない。江戸時代になってから見られるようになったのだが、当時の本には「三輪宝」と書かれていて、「屋立てよし」「蔵立てよし」と注記され、現在とは正反対の吉日だった。
それがなぜ正反対の意味に改変されてしまったのだろうか。実は、誤転記説が有力だというのである。ある年に暦の編者が「よ」を「あ」と書き間違え、それがそのまま「屋立てあし」「蔵立てあし」と伝わってしまったのではないかという説である。
しかし「三輪宝」という字面から当時の知識人が想起するのは、三輪明神の祭神である「大物主大神」の神力か、仏法の「転輪聖王」が持つ宝であろう。その「三輪宝」という字面を見て、悪日と勘違いしたとは到底思えない。
しかもその編者が間違いをごまかすために「三隣亡」と当て字で書き改めたというのだから、さすがにそれはご都合主義すぎるだろう。
ちなみに「三隣亡」の選定理論を探ってみたところ、これも一粒万倍日と同様、スッキリとした説明ができない。
三隣亡は、子月は寅日、丑月は午日、寅月は亥日といったように、「寅・午・亥」が1年間に4巡する。この五行の関係を見ると、まあまあ吉日だろうという選定になっている程度である。また夏の猛暑の時期は涼しげな水行と組み合わせ、秋の刈り取りの時期は鎌の金行と組み合わせるなど、理論より「しゃれっ気」で選んだのではと思われる組み合わせもある。
どちらにしても、縁起がよさそうで楽しそうな「三輪宝」が、なぜ「三隣亡」に変化してしまったのだろうか。その答えは、江戸の町の発展状況にあったのではないかと推察される。
大工職人が仕事を堂々と休める三隣亡
江戸時代は265年間続き、その間に江戸の人口は爆発的に増加した。正確な集計値ではないが、おおむね初期から末期までに、人口は3倍程度に膨らんだとされる。
また江戸の町そのものも拡大し続けた。古地図を検証すると、初期の総面積が約44平方キロメートルであったのに対し、末期では約80平方キロメートルとおよそ2倍に拡大している。
人が増えれば家が必要となる。しかも江戸の町は火災に弱く、通算で10度もの大火に見舞われ、その都度、町の多くを消失している。265年間を通じて建築ラッシュが絶え間なく続いていたのである。
しかしこの膨大な建設需要に対して、供給側の体制はといえば、万全とは言い難かった。江戸時代の公文書などから推測すると、江戸で暮らす人々の職業分布は、農人口80%、商人口6.6%、工人口3.4%。大工職人は工人口に含まれるので最大でも3.4%以下となる。
江戸で暮らす職人の人口比ははっきりとは分からないが、当時の人気職の番付を見ると、大工、刀鍛冶、左官、屋根など実に多くの職人が存在していて、建築系職人の人数は人口比1%未満だったであろうと推察される。
この需給バランスの悪さは高賃金につながるが、その半面、労働環境の苛烈化へと誘うものだったであろう。
当時の労働環境は、商家の休みも年間を通じて数日しかなく、平均すると月に1日〜2日あるかどうか。大工職人はというと、雨の日以外は休みなしであったようだ。冬場などの乾燥時期は1日と15日に休みがもらえたらしいが、それでも一度火事になれば火消し同様、火事場に駆り出され作業しなければならなかった。
高級取りの大工職人が公然と休める日を欲しがるのは当然である。「三輪宝」はサンリンボウ。同じ音で「三隣亡」ともいえる。そんな日に建築工事をしたら向こう3軒両隣まで滅ぶかもしれないと言われれば、そんな縁起の悪い日に工事をさせる施主はいない。忙しい大工職人も、サンリンボウなら堂々と休みを取ることができたことだろう。休みを取るためにそんな言い換えが流行した可能性はないだろうか。
しゃれっ気が多く、験担ぎが大好きな江戸市民たちである。「三隣亡」という言葉は、そういった環境から生み出された言葉である可能性がないとは言えないのである。
現代にも生きる三隣亡。建築数が激減する地域も
現代でも建築関係者の間では、三隣亡を大凶として意識している人は少なくない。もちろん、こういった因習にとらわれることなく、工事を進めるケースもある。おおむね都心部ではその傾向が強いようで、近隣との関係が比較的希薄なこともあり、気にする人が少なくなったからだろう。
しかし、一部地域では三隣亡の日に土産物を貰った者は没落し、贈ったほうは成金になるという言い伝えによって、この日に贈り物をすることを避ける風習があったり、建築関係にとどまらず種蒔きや土興しなども避けたりする。
なかでも、山形県の庄内地方では「寅年・午年・亥年は一年中三隣亡」という独特な風習があり、日付に関係なく1年を通じて三隣亡ということで建築工事を避ける傾向がある。
1年間、建築工事が避けられるのであるから、かなり大変な風習である。全国統計で見ても三隣亡に該当する年の建築数は山形県だけが異常に低くなっていて、特に最上と庄内の減少率は30%を超えている。この傾向は調査開始の1960年代にはすでに確認され、直近でも変化は見られない。
これは誰が何の目的で言い出したのかは全く分かっていない。明治になってから始まったとされていて、何らかの目的があったと思われるが、研究結果を待つのみである。
自分だけならともかく、近隣が滅ぶと言われれば、工事がしにくくなるのは当然であろう。ハッキリとした根拠がない日取りの話にもかかわらず、地域経済に深刻な影響を及ぼしている状況があるのだ。
日本人は実に占いや縁起担ぎが好きである。本の売り上げでも、占いの本がベストセラーになったり、売り上げランキング1位に入っていたりする。他国ではこういった傾向はあまり見られない。血液型占いも日本が発祥とされる。日取りに関しても最近では仏滅結婚式も増えつつあるそうだが、それでも多くの人が大安を選んでいる。
こういった占いや迷信は不確かな状況の心の支えとなり、問題解決の糸口になることもある。しかし惑わされすぎれば人生の損失にもつながる。人生の舵はできるだけ自ら握りたいものである。
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