100年の歴史を積み重ねた貴重な建物
兵庫県姫路市の南西部に位置する網干(あぼし)区。エリアの南部は瀬戸内海に面し、古くは漁業と揖保川の舟運で栄えたまちだ。
山陽電鉄網干線・山陽網干駅から徒歩10分ほど。静かな住宅街を進んだ先に、ふと姿を現すのが、1922(大正11)年に網干銀行として誕生したレンガと石造りの建物。ドーム型の屋根も特徴的で、趣ある外観に思わず見入る。立派な建物の銀行が構えられたことは、それだけ繁栄したまちであったことがうかがえる。
そんな網干銀行だが、1930(昭和5)年に三十八銀行に買収された。さらに1936(昭和11)年に三十八銀行など6行の合併で神戸銀行に。この建物は、網干支店として営まれてきたが、移転することになり、1970(昭和45)年からは洋品店に生まれ変わった。
その洋品店が2015(平成27)年に閉店となり、しばらくして建物が売りに出された。その情報を現オーナーの鵜鷹司さんがSNSを通して知ったことから、2度目の再生への道が始まる。
知人のSNSで発見し、即購入を決意
趣味で気球に乗ることを楽しむ鵜鷹さん。その趣味で知り合った、当時京都大学の大学院生が2018年のある日、フォロワー限定で公開しているSNSに旧網干銀行のことを発信した。その大学院生の方は、網干出身で、まちの景観などを設計したりする分野を専攻していたという。
その投稿を鵜鷹さんが営む会社の副社長が見つけ、鵜鷹さんに報告。すぐに網干に向かった。営む会社が不動産関係なわけでもなく、姫路在住だが網干地区とはゆかりもなく、さらには古い建物に興味があったわけでもない。ただ導かれるままに、建物を外から見学して「すごい建物があるな」と感じた。そして中が見たくなり、不動産会社に連絡して再訪。前オーナーの息子さんと話すなかで、「興味があるとかないとかというよりも、この建物自体残すべきもの。この地域にとっても大事なものであろう」と思った瞬間、「買いましょう」という言葉が口をついて出た。
その時点で活用方法はまったくのノープラン。しかし、同行していた副社長と自然とほほ笑み合ったのが印象に残っているそうだ。
それから3ヶ月ほどが過ぎた頃。新たに鵜鷹さんがこの建物のオーナーになったことを知ったまちづくりや建築系に携わる団体や人々から見学したいとの申し出が。そんななかでプライベートでも付き合いのあったまちづくりなどに携わる人からワークショップの提案があり、活用のヒントが得られるのではないかと開催することに。30~40名が集まり、1回目はまちの歴史背景と建物についてや、今後のことを話し合い、2回目では洋品店時代に内部に作られていた店舗の内装を壊し、元の姿に近づける作業を行った。
取り壊し作業をするうち、隠されていた窓や壁、鍵をかけるプレートなどの小物も出てきた。「そのときに思ったのは、きれいにしてしまうんじゃなく、当時からある建築様式含めて、劣化や傷みも見ていただけるような改修がいいのではないか」ということだった。
縁がつながり、洋食レストランとして活用へ
ワークショップでは、図書館、雑貨店、映画館といった活用法の意見が出たが、より実用性を考えているとき、神戸から東京に移ってパン職人をしていた息子の絢さんと、絢さんの幼なじみで同じく東京の飲食店で働いていた濱田大規さんが思い浮かび、「こんな建物買ったんやけど、ここで何かせえへんか?」と問いかけた。
突然のことに2人の返事は「はぁ?」というものだった。姫路で生まれ育った2人だが、無理はないかもしれない。ではあるが、新たなチャンスということでUターンを決めた。
すると、また不思議な縁がつながる。飲食業界でのうわさ話は早いというが、神戸にある老舗フレンチレストラン「北野クラブ」の支配人から連絡がきた。「20年近く飲食業に携わってきた経験をぜひ試させてもらえないか」という話。しかも無償でということだった。
願ったりかなったりの申し出に、鵜鷹さんは「ぜひに」と返答。そして、絢さんや濱田さんはじめスターティングメンバーは、北野クラブで研修をさせてもらうことに。メニュー構成や店内の動線などもアドバイスを受けて準備を整え、レストラン「旧網干銀行 湊倶楽部」として2019年11月にオープンした。
建物の魅力を最大限に生かす改修とインテリア
オープン前に話はさかのぼり、改修にかかった日数は8ヶ月。2回目のワークショップのときに感じたように、建物自体の魅力的なところはそのまま残し、必要なところは補修をする。経年で発生したクラックを含め、専門の会社に安全性を丁寧に見てもらった。
例えば、1階奥にある個室の壁など一部はレンガがむき出しになっている。筆者も初めて足を踏み入れた際は、店内の雰囲気に合わせたレトロ調の壁紙かと思っていたが、よく見るとそのままの壁だった。「購入したとき、内部の壁は部分的に漆喰が剥がれ落ちていて、すべてやり直すつもりでした。食事をする場所でもありますし。ですが、漆喰部分をはがしてみると、この状態になって、壁を塗るよりこのまま使ったほうがよいのではないかと。それで工務店さんに相談し、薬剤などをかけて表面を固める方法を採りました」と鵜鷹さん。
レンガが積み上げられた建物の構造体を知ることができ、趣もあり、歴史が伝わってくる。建築ファン、古い建物が好きな方からは実に興味深く見られるはずだ。
天井は漆喰の細工が施された飾り天井となっているが、調査の段階でクラックが走ってしまった箇所は、安全性を考慮し、リノベーションしている。
2階は洋品店時代に吹き抜けを完全にふさぐ形でフロアを設けてあった。その際に設置された鉄骨を生かしつつ、一部残されていた銀行建築特有の回廊を再現。
回廊には現在立ち入りはできないが、一部残した床面を利用し、ギャラリーとして使用。回廊を望む雰囲気もよく、結婚式の前撮りやモデル撮影などにも貸し出されて人気だ。
店内の雰囲気のよさは、建物が醸し出すものだけでなく、調度品にもある。テーブルやイス、食器棚など、建物にぴったり合う色調でそろえられている。驚くべきは、インテリアコーディネーターなどに依頼したのではなく、鵜鷹さんたちがアンティーク家具店などに足を運び、そろえたのだという。
1階個室のドア前で存在感を放つ大きな時計は、鵜鷹さんが義父から譲り受けたもの。「1875年に横浜居留地10番館に開業したフランス人のコロン兄弟が輸入販売したものです。不思議なことに、ここへ来るべくして私の家にあったのかなと思いました」と鵜鷹さんはほほ笑んだ。
食事をされた方には、時間が許す限り、濱田さんたちスタッフが建物内を案内するようにしている。「こういったところは、自分もそうなのですが、ただ見るだけでは、先入観で、あぁこうなのかと思って終わることも多いように感じます。やはり建物の存在意味とか意義というのは、歴史や建築様式など、小さなことも付け加えてご説明することで、距離感がグッと縮まるんです」と鵜鷹さん。
壁のこと、ドアや窓枠など建具のこと、新しくオリジナルで作った照明のこと…。確かに、筆者が取材前に個人的に食事させてもらったときにいらっしゃったお客さまが濱田さんに案内されているときに、驚かれたり、うなずかれたりしながら建物を堪能されている姿が印象的だった。ただ食事の時間を提供するだけでなく、建物とまちの時間も楽しんでもらっているのだ。
「老舗創生」というコンセプトのもと、未来へ紡ぐ
偶然か必然か。縁がどんどんつながって再生されたことに、そんなことを思ってしまったが、鵜鷹さんご自身は、「この建物に召された」と表現する。「建物が持つポテンシャル」「建物が残ろうとする力」があったのだという。
「先人が造られたこの建物が、今なおこういう状態で残っている。召された者の使命として、これをどういうふうに今後紡いでいく作業をしないとダメなのか」
そうしてレストランとして再生することにし、コンセプトとして「老舗創生」という言葉を作った。「100年ある建物自体を老舗というとして、創生しよう、ゼロベースから作り上げよう」という思いが込められている。
ビジネスベースでいえば、最寄り駅からの距離など場所の関係もあり、いかに利用してもらえるかなど課題は残る。だが、近くに古くから住む人たちからは「ここに電気がついているだけでうれしい」との言葉をもらい、その重みを感じている。
「この建物がなす役割というのは、今の評価だけでなしに、10年先にどうなったかっていうのでわかると思うんです」と鵜鷹さん。
「今年でオープンから4年ですが、あと6年で、この建物の劣化を含めて修復の可能性、それとレストランとしての成熟度、それをちゃんと検証したい。そして、いけると判断したら、若い濱田たちに全権を渡したい」と、次の世代に託すことを考えている。
一方で、旧網干銀行が再び歩み始めることになった4~5年前と比べると、「このまち自体が温まってきている」と実感しているそうだ。実は、濱田さんと絢さんが、隣接する古民家で新たな事業もスタートさせ、少しずつではあるがまちの活性化につながる動きがあるのだ。
これだけの大きな建物を即決して購入したという物語に驚いたし、それを“創生”していく難しさはあるだろうが、一つの歴史ある建物に再び明かりが灯ったことは、網干のまちの歴史を語り継ぐ、また未来へと大きな意義を成すはずだ。
新しい動きである濱田さんたちの新事業と、網干の歴史を知ることにつながるもう一つの古い建物については、また別記事でご紹介する。
取材協力:旧網干銀行 湊倶楽部 http://aboshiminato.club
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