日本の伝統的な部屋「和室」の定義は?

日本家屋に特有の、日本の伝統的な部屋を「和室」という。しかし、和室を定義するのは難しい。
和室を構成する要素として、畳や襖、障子、床の間、違い棚などはすぐに思いつく方も多いと思うが、柱や壁にも和室ならではの特徴がある、角柱と真壁だ。真壁とは柱より内側に仕上げられた壁のことで、そのため柱や梁が露出する。柱は彩色されていないことが多く、木肌が目に入り、欧米からの観光客には、それが「日本風」と感じられるらしい。ただし、数寄屋風の建築など、角柱ではなく面皮柱を使うこともある。

近年ではフローリングの部屋が増え、和室のない家も増えてきているというが、畳はクッション性に優れており、うっかり物を落としても傷つきにくい。冬の寒い時季に床暖房がなくても保温性があり、来客の際は座布団さえあれば応接室になるなど、多目的に活用できるのも和室のよさだ。何より、藺草にはフィトンチッドが含まれており、畳の床に布団を敷いて眠ると森林浴のような効果が期待できる。

しかし、現在のような和室は、いつごろ、どのように生まれたのだろうか。

現代の標準的な和室現代の標準的な和室

最古の住居・竪穴式住居から高床式住居が登場するまで

日本人が最初に建てた住居は、竪穴式住居と考えてよいだろう。竪穴式住居以前に人々が暮らしていた横穴式住居は、洞窟や岩陰などの自然を利用したものだ。
竪穴式住居が生まれたのは旧石器時代の後期とされ、地面に穴を掘り、柱を立てて樹皮や葦などを屋根としてかぶせていた。
三内丸山遺跡にある復元住居は、藁が湿度の調節をしてくれ、内部はほんのり涼しくて快適だった。ただし、窓がないため昼でも薄暗い。

弥生時代になると、木造の高床式住居が登場する。
高床式住居には、竪穴式住居にほぼ必ず設置されていた炉がない。貴人が生活する建物なので調理の場を設ける必要がなく、火を使わなければ木材で床を施工できる。
平安時代の寝殿造も、高床式住居を基礎としながら、中国の建築様式を取り入れて発展したものとされる。

三内丸山遺跡の茅葺き竪穴式住居三内丸山遺跡の茅葺き竪穴式住居

平安時代に現れた「寝殿造(しんでんづくり)」

平安時代には、貴族の邸宅として、寝殿造が登場する。
寝殿造を端的に説明すると、主人が暮らす寝殿を中心に、家族が暮らす「対の屋(たいのや)」を東・西・北に置き、「渡殿(わたどの)」と呼ばれる渡り廊下でつないだものだ。敷地の周囲は土塀が建てられており、北の対の屋は「北対」、東の対の屋は「東対」などと呼ばれる。南側にある庭は、さまざまな趣向が凝らされた。
平安京に建てられた内裏は、紫宸殿を中心に、北には仁寿殿、承香殿、西には清涼殿などが置かれ、建造物すべての敷地は南北300メートル、東西200メートルにも及んだという。

しかし、私たちが持っている寝殿造のイメージは、平安時代の文学や日記に登場する建物の名称から想像したものに過ぎず、実際にどのような建造物だったのかわかっていない。また、近年の研究では、三方に対の屋を置くほど豪奢な寝殿造はよほどの貴人にしか建築できず、対の屋が一つしかない簡素な邸宅や、池のそばに建てられた釣殿だけで対の屋はない邸宅など、さまざまなバリエーションがあったと考えられている。

寝殿造の家には壁がほとんどなく、開放的なのが特徴だ。母屋の寝殿などには壁があるが、絵巻物に書かれた壁は白く、表面は漆喰で仕上げられていると考えられる。夜や荒天時は風雨を避ける蔀(しとみ)と呼ばれる板で外部から遮断していたが、日中は開放されている。これは、貴族達が集まって、庭での儀礼を見るのに都合が良かったからだと考えられる。外界と区切られていないことこそが、寝殿造の本質なのだ。

建物の中は御簾や几帳で仕切られて、個々の人々が生活していた。御簾は簾をカーテンのように天井から下げたもので、几帳はT字に組まれた木材に布を垂らしたものだから、隣の音は筒抜けだっただろう。藺草などで作られた畳は平安時代に登場したようだが、現代のように床に敷きつめるのではなく、貴人が寝たり座ったりする場所にだけ置かれた。

京都 宇治にある平等院京都 宇治にある平等院

室町時代の武家社会の「書院造(しょいんづくり)」

室町時代になると武家が台頭し、武士の生活に適した書院造が現れる。
書院とは書斎を兼ねた居間のことで、この書院を主室に襖や障子などで仕切られたが、部屋と部屋の間仕切りには襖、部屋と入側縁(縁側と座敷の間にある通路)との間には障子が使われることが多い。鴨居の上部には、障子や透かし彫りなどが嵌め込まれた欄間が作られた。
接客・対面の機能を重視するのは寝殿造と同じだが、接客は庭を眺めながらの宴ではなく、茶会中心に変化したため、茶室や客間が作られるようになる。

鎌倉時代には、座敷の壁や鴨居に仏絵を掛け、その前の机に花や燭台などが置かれるようになった。これが床の間の起源だ。壁飾りは床の間、付書院、違い棚で成立している。
床には畳が敷き詰められるようになり、玄関が設けられたのも書院造の大きな特徴だ。寝殿造では、東西、南側などに、複数の出入り口があった。武家の住まいとして発展した書院造のしつらえは、禅の精神に基づいた質実さが基本だ。

書院造は近代まで建築され続けてきたから、現存する建物もある。その最大のものが二条城二の丸御殿だ。江戸時代初期に建てられた六棟から成る住宅で、建物面積だけでも3300平方メートルの広大さだ。中でも将軍が大名や公家と対面する部屋であり、大政奉還が発せられた場でもある大広間は、狩野探幽による障壁画で飾られ、一の間48畳、二の間44畳もある。

江戸時代の身分制度により武家以外は書院造の建造は禁止されたが、明治維新以降には庶民も床の間を採り入れるようになり、現代にもその風習は残っている。和室の客間には、今でも床の間があることが多い。

京都市中京区 二条城 二の丸御殿京都市中京区 二条城 二の丸御殿

和室と茶室と禅

現代の和室は書院造を基礎としているため、その基底には禅の精神が流れている。
利休が説いた「わび」「さび」の精神も、元来は禅の思想であり、茶室にはその精神が表現されているといわれている。また、茶室の床の間に掛けられる掛け軸も、禅の言葉が使われるのがほとんどだ。つまり、和室の底流には禅の精神があるといってよい。

本格的な茶室をつくるのなら、客を迎える際に掛け軸や季節の花をしつらえるため、基本となった禅の精神を学ぶのは必須だが、禅とはどういうものかと誰にでもわかるように説明するのは、至難の技だ。「読むより坐禅」ともいわれるとおり、経典を読むより心を鎮めて坐禅を組む方が、禅の精神を感得できるものなのだそうだ。

和室にいると精神が落ち着くのは、知らないうちに禅の精神がいきる空間に触れているからなのかもしれない。
家に和室をつくるのが難しくても、和室らしさやそこの精神などを感じることは歴史的建造物やお寺などで感じることができる。和室空間を見直すのにそういったところを訪れてみるのもよいと思う。

「わび」「さび」の禅の精神を採り入れた茶室「わび」「さび」の禅の精神を採り入れた茶室

■参考
至文堂『日本建築の鑑賞基礎知識』平井聖・鈴木解雄著 1990年5月発行
竹林舎『王朝文学と建築・庭園』倉田実編 2007年5月発行
創元社『和室の構成Ⅰ』小林清編 1978年4月発行

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